第12話 客席の向こう側
モニターの白い光が、薄暗い再起堂の作業場に悠作の影を長く落としていた。
外部ツールで抽出された一枚の小さなサムネイル画像。解像度は粗いが、山積みにされたハードディスクのタワーや、無骨なスチールの棚、そして記憶にあるものと全く同じ作業台の配置は、悠作の脳裏に焼き付いている風景そのものだった。
「……なんだ、これ」
無意識のうちに漏れた乾いた声は、自分でも驚くほど硬かった。悠作はマウスを握る手に力を込め、画面を食い入るように見つめた。
5年前に閉店したデータ復旧店、『記録工房』。
なぜ、西尾のスマートフォンのキャッシュに、現在存在しないはずのこの場所の画像が残っているのか。
「悠作さん……?」
「鈴木さん、これって……」
すずと瞳が、悠作の強張った背中に怪訝な視線を向ける。その声で、悠作は冷水を浴びせられたように現実に引き戻された。
胸の奥で暴れ出した過去の記憶を無理やり押さえ込み、悠作は深く息を吐いてマウスから手を離した。
作業着のポケットから煙草の箱を引ったくるように取り出し、震える指先で引き抜いた一本を唇に咥える。カチリ、とライターの金属音を鋭く響かせ、すぐさまその先端に火を灯した。
肺がちぎれるほど深く、熱いヤニの煙を吸い込む。喉を焼くような苦味が、脳裏を埋め尽くそうとする暗いノイズを力技で押し流していく。悠作は二口ほどでそれを短く吸い殻にすると、デスクの上の灰皿に強く押し付け、検証用PCの画面を最小化した。
「……5年前に潰れた、データ復旧専門の修理屋だ」
「潰れたお店……?」
「ああ。昔、秋葉原のジャンク通りの裏にあったらしい。個人がやってた小さな店で、今はもうないがな」
それ以上は語らず、悠作は事実だけを短く切り取って提示した。
これ以上口を開けば、19歳の自分がそこで働いていたことまで零れ落ちそうだった。
「画像のファイル作成日時は、西尾がカフェ・ルミナスに端末を置いて姿を消す3日前だ。クラウドに同期される前の、ローカルに残った一時データ。つまり、西尾は失踪する直前にこの画像データを受信したか、閲覧したことになる」
「それって、私が思い出した裏口の男の人と関係があるんですか?」
「おそらく。高橋が読み取った裏口での接触と、あんたが目撃した『青いロゴ入りの古い修理店風の紙袋』。そして、西尾の端末に残っていた、閉店した修理屋の店内画像。……ただの偶然じゃない」
悠作は検証用PCから視線を外し、二人に向き直った。
ケーブルで繋がれたままの西尾の黒いスマートフォンは、外部電源によって辛うじて息を吹き返しているが、画面は既にスリープ状態に戻り、漆黒の鏡のように3人の顔を映していた。
「ここまでにしよう」
悠作は静かに宣言した。
「これ以上のデータ解析は、私的ファイルへの無断アクセスになる。西尾が事前に予約投稿を仕込んでいたこと、失踪前に誰かと接触し、修理屋に関連する何かを受け取っていたこと。事件性を疑うには十分すぎる材料だ。約束通り、生活安全課に投げる」
瞳はわずかに唇を引き結び、それから小さく頷いた。
「……お願いします」
悠作は手元のスマートフォンを取り出し、山田しずかの番号を呼び出した。
★★★★★★★★★★★
しずかがアキバ中央署から再起堂へ到着するまで、30分ほど待つことになった。
作業台の周囲には、張り詰めた疲労感が漂っていた。悠作は店の入り口に近いシャッターのそばに立ち、新しい一本を口に挟んだ。
慣れた手つきでライターのフリントを弾き、揺れる小さな炎を近づける。じり、じりと紙が焦げてヤニが燃える微かな音が、薄暗い路地に響いた。肺の奥に溜まった澱みをすべて吐き出すように、ゆっくりと白い煙を夜気へと送り出す。街灯の鈍い光に照らされた煙が、冷えかかった風に揺れながら、静かに闇へと溶けていくのをただ見つめていた。
悠作は携帯灰皿の底で静かに熱を揉み消し、店内に戻った。
店内では、すずがカウンターの隅でパイプ椅子に腰掛けていた。能力を使った直後の青白さは抜けつつあるが、まだ本調子ではないだろう。
「ん……こら、だめですよ」
すずの足元で、灰色の毛玉が転げ回っていた。子猫のロムだ。
ロムは、悠作が床に落としていた細い結束バンドの切れ端を獲物に見立てたらしい。前足で器用に紐を押さえ込み、噛み付こうとして自分の勢いでコロンと転がる。短い尻尾をピンと立てて、再び紐に飛びかかる姿は、呆れるほど呑気だった。
すずが紐の端をつまんで少しだけ持ち上げると、ロムは立ち上がり、空中で短い前足をジタバタと振った。
「ふふ、届きませんよ」
すずの口から、小さな笑い声が漏れた。
その光景を見ていた瞳も、いつの間にかすずの隣にしゃがみ込んでいた。
「本当に可愛いですね、ロムちゃん。前にお店に来たときは、バタバタしててちゃんと見てあげられなかったから」
「はい。常連さんがどうしてもって、鈴木さんのところに置いていった子なんです。まだ2ヶ月くらいで」
「ロム……リード・オンリー・メモリーでしたよね。本当に、修理屋さんらしい名前」
瞳が指先を差し出すと、ロムは紐から興味を移し、瞳の指をクンクンと嗅いでから、ざらついた舌で舐めた。瞳の顔から接客用の張り付いたような笑顔が消え、年相応の柔らかい表情が浮かぶ。
張り詰めていた再起堂の空気が、足元の小さな命によってほんの少しだけ緩んでいた。
ちょうどその時、入り口のガラス戸が開き、ドアベルの音とともに紺色のスーツに身を包んだ山田しずかが足早に入ってきた。
「遅くなった。状況は」
挨拶もそこそこに、しずかは鋭い視線をカウンターの上のスマートフォンに向けた。
悠作は検証用PCの画面を再び呼び出し、順を追って説明した。
バッテリー不良と電源管理ICの損傷による断続的な再起動。それが深夜の通知音の原因であること。サードパーティ製ツールによる数日分の予約投稿が仕込まれていたこと。
そして、瞳が前に出た。
「カフェ・ルミナスのキャストの中村です。3週間前からの西尾さんの様子と、1週間前に裏口で紙袋を持った男と会っていたことは、私が証言します。お店の決済履歴とシフト記録もあります」
しずかは瞳の目を真っ直ぐに見返し、手帳に短いメモを取った。
「高橋。あんたは何か見たのか」
「あ……はい」
しずかの問いに、すずは姿勢を正した。しずかは記憶の幽霊という怪異現象を「警察の報告書には書けないもの」として処理するが、調査の方向性を決める手がかりとしては決して無視しない。
「西尾さんの、すごく強い孤独感と……不安。それから、ルミナスの裏口で誰かと会って、とても緊張している記憶でした」
「わかった。報告書には『関係者の目撃証言により、裏口での接触が疑われる』とだけ記載する」
しずかは手帳を閉じ、西尾のスマートフォンを証拠品保管用の静電気防止袋に丁寧に収めた。
「スマートフォンの不自然な放置に予約投稿、直前の接触。事件性は否定できない。ただ、誘拐や巻き込まれではなく、本人が意図的に日常を偽装して姿を消した可能性が高い。通信履歴、交通機関の利用履歴、クレジットカードの決済情報を本署のデータベースで照会して足取りを追う」
「西尾の安全は確認できそうか」
「やるしかない。結果が出たら連絡する」
しずかは長居することなく、事務的な言葉だけを残して再起堂を後にした。
★★★★★★★★★★★
翌日の夕方。
秋葉原の空がオレンジ色から深い群青へと沈んでいく頃、しずかから悠作のスマートフォンに短い電話が入った。
悠作はスピーカーフォンに切り替え、店内にいたすずと瞳にも聞こえるようにした。
『結論から言う。西尾直樹本人の安全は確認できた』
電話越しに響くしずかの落ち着いた声に、瞳が大きく息を吐き出して胸を撫で下ろした。
『本人の携帯電話の契約情報と、失踪直前に新しく開設された口座の動きから、現在の居住エリアを特定した。現地の所轄に協力を要請し、先ほど本人と接触した』
「誘拐や監禁じゃなかったんだな」
『ああ。完全な自発的移動だ。事件性はない』
しずかの声には、警察官としての安堵と、しかしどこか割り切れない硬さが混じっていた。
『西尾は、匿名SNSと掲示板で執拗な嫌がらせを受けていた。個人情報の特定や、根拠のない誹謗中傷が連日書き込まれ、精神的に限界だったようだ。ルミナスに長居していたのも、外に出るのが怖かったからだと本人が認めた』
「じゃあ、裏口で接触した男は……」
『西尾は多くを語らなかったが、状況から見て、逃げるための準備を手引きした人間がいるのは間違いない。西尾は、失踪前に自分の過去のSNSの削除データや、嫌がらせの書き込みの証拠、そして新しい生活圏での短期的な仕事の紹介を、「誰か」から受け取ったと言っている』
削除データの復元。新しい生活の紹介。
沢村真紀の失踪事件で浮上した『リライト』という匿名人物の影が、ここでも色濃く落ちていた。
「西尾は、こっちに戻ってくるのか」
『いや。本人は今の非公開の生活を続けることを望んでいる。警察としては、成人の家出人で本人の安全が確認され、かつ本人が所在地の非公開を強く望んだ場合、保護して無理やり連れ戻すような真似はできない。家族には生存の事実だけを伝えた。お前たちにも、西尾の現在の所在地を教えることはできない』
「……妥当な判断だな」
『そういうことだ。カフェ・ルミナスに残された端末は、家族経由で本人へ返却する手はずになっている。お前たちの協力には感謝する。以上だ』
通話が切れ、電子音が店内に響いた。
事件は終わった。西尾は無事だった。しかし、それは「元の生活に戻った」という意味ではない。
「……西尾さん、戻ってこないんですね」
瞳が、カウンターを見つめながらぽつりと呟いた。
「お店にいる時、いつもあんなに静かで……私が話しかけたら、本当に嬉しそうに笑ってくれてたのに。あの裏で、ずっと怖い思いをして、追い詰められてたんですね。……私、毎日顔を見てたのに、全然気づけなかった」
瞳の横顔には、自分の無力さに対する悔しさが滲んでいた。接客のプロとして、常連客の居心地のいい場所を作っていると自負していた。しかし、西尾にとってのルミナスは、外の悪意から逃げ込むための一時的な防空壕に過ぎなかった。
「気づかなくて当然だ。西尾は、あんたにだけは自分の惨めな姿を見せたくなかったんだろ」
悠作は工具箱を片付けながら、視線を上げずに言った。
「高橋が読み取った記憶の通りだ。西尾はあんたの笑顔を眩しく思うと同時に、それを恐れていた。だから、隠したんだ。……結果的に西尾は自分の意思で逃げ切った。俺たちの仕事はここまでだ」
「……そう、ですね」
瞳は顔を上げ、両手で軽く自分の頬を叩いた。
そして、悠作とすずに真っ直ぐに向き直った。
「西尾さんがお店に来なくなったこと、他のお客さんやスタッフに聞かれたら、どうしようかと思ってました。お店の評判を守るために、適当に誤魔化さなきゃいけないのかなって。……でも、違いますね」
「どうするつもりだ」
「『忘れ物は無事に持ち主に返りました。常連さんは、新しい環境で元気にやってるみたいです』って。必要な範囲で、堂々と共有します。それが、最後まであそこで過ごしてくれた西尾さんに対する、私なりのプロの仕事だと思うから」
瞳の顔には、いつもの計算された愛想笑いも、甘い媚びもなかった。
ただの20歳の女性としての、等身大の真剣な表情だった。
「鈴木さん。高橋さん。……本当に、ありがとうございました。お二人が調べてくれなかったら、私、ずっと嫌な想像ばかりして、お店に立つのが怖くなっていたかもしれません」
瞳は深く、丁寧に頭を下げた。
悠作は小さく鼻を鳴らし、首の裏を掻いた。
「……忘れ物の修理代と調査費は、きっちり請求させてもらうぞ」
「はい。ルミナスの経費で落とせるか、店長と交渉してみます」
瞳が少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔は、作られたものではない、自然なものだった。
★★★★★★★★★★★
瞳が店へ戻り、再起堂には日常の静けさが戻ってきた。
悠作は外部電源のケーブルを片付け、すずはロム用の小さな水入れを洗っていた。西尾の件が落ち着き、張り詰めていた緊張感がようやく解けていく。
「悠作さん。……西尾さん、新しい場所で、笑えているといいですね」
「さあな。だが、少なくとも怯えて縮こまっていたここ数週間よりは、マシな朝を迎えてるだろうさ」
悠作が言い終わるか終わらないかのタイミングで、再起堂のガラス戸が勢いよく開いた。
「鈴木さん! ちょっと、機材貸して!」
血相を変えて飛び込んできたのは、秋葉原電脳商店会の臨時広報スタッフ、加藤茜だった。
明るめのハニーブラウンのセミロングを揺らし、丸みのある頬を紅潮させている。明るい色のジャケットにショートブーツという出で立ちの小柄な身体で、息を切らしながら小脇に分厚いノートPCを抱えていた。大きな瞳には、いつもの強気な視線ではなく、切羽詰まった焦りが浮かんでいる。首からはスタッフ証が大きく揺れていた。
「どうした、加藤。またどこかの配線でも飛ばしたか」
「違う! そういうんじゃないの。これ、今週末の商店会イベントで流すための告知動画なんだけど……」
茜はカウンターにノートPCを叩きつけるように置き、乱暴な手つきで画面を開いた。
「編集が終わって、最終確認してたら……おかしいの。私がクラウドの共有フォルダに上げた動画ファイルじゃない」
「どういうことだ」
悠作は眉を寄せ、茜のノートPCの画面を覗き込んだ。すずも隣に立つ。
茜が再生ボタンを押す。
画面には、秋葉原の街並みや店舗の紹介、イベントのテロップが軽快な音楽とともに流れていく。極めて一般的な、完成された告知動画だ。
しかし、動画の終盤。1分20秒の地点に差し掛かった瞬間。
ザッ、と短いノイズが走り、映像が切り替わった。
たった一秒。
瞬きするほどの短い時間、イベントとは全く無関係な映像が挟み込まれた。
乱雑に積まれたハードディスク。スチール製の棚。古びた作業台。
「っ……!」
すずは喉の奥を詰まらせ、言葉を失った。悠作の指先が、無意識にピクリと動いた。
それは、昨夜西尾のスマートフォンの中に残されていた画像と、全く同じ光景。
5年前に閉店したデータ復旧店、『記録工房』の当時の店内映像だった。




