第11話 作られた笑顔
カウンターの上に置かれたスマートフォンは、電源が入らず沈黙したままだ。悠作は小さく息を吐き、その黒い画面から瞳へ視線を移した。
「確認するが」
悠作は低く、淡々とした声で切り出した。
「これはあくまで『忘れ物』だ。俺は警察じゃないし、あんたは家族でもない。店長の持ち出し許可があるとはいえ、西尾本人の同意なしに、中にある私的な写真やメッセージ、連絡先を勝手に覗き見ることはできない。それは理解しているな」
瞳は少しだけ肩をすくめたが、すぐに接客用の甘い笑顔を消し、真剣な顔で頷いた。
「はい。人のプライバシーを暴きたいわけじゃありません。ただ、西尾さんが無事なのか、事件に巻き込まれているんじゃないかって……それが知りたいだけです。もし本当にやばいことになってたら、手遅れになる前にどうにかしないと」
「もし本当に事件性が高いと判断すれば、迷わず生活安全課の知り合いに投げる。それでいいな」
しずかの顔を思い浮かべながら念を押すと、瞳は「構いません」と短く答えた。
「ただし」
悠作は手元の工具箱を引き寄せた。
「この端末が本当に西尾のものか、そして今朝の投稿が『予約投稿』なのかどうか。外側のシステムとログの範囲内なら、技術的に確認することはできる。やるか?」
「お願いします」
悠作はためらうことなく、極小のトルクスドライバーを手に取った。スマートフォンの下部にあるネジを外し、専用のオープナーを隙間に滑り込ませる。微かな粘着テープの剥がれる音とともに、黒いバックパネルが開いた。
基板を覆うシールドと、その下にあるバッテリーパックが露わになる。悠作はデスクライトの角度を調整し、ルーペ越しに内部を覗き込んだ。
「……やっぱりな」
悠作はピンセットの先で、わずかに膨張しているバッテリーパックの端を示した。
「バッテリーの劣化が進んでる。それに加えて、ここだ。電源管理ICの周辺に、目視できるほどの微細なクラックが入ってる。やはり、電力を要求された時に電圧を維持できず、シャットダウンを繰り返していたんだな。深夜の通知音も、仮説通りこの不安定な起動プロセスのせいだ」
「……直るんですか?」
「部品の交換は必要だが、データへの一時的なアクセスなら、今すぐできる」
悠作は手際よくバッテリーのコネクタを基板から外し、外部電源装置の極細ケーブルを直接基板の端子へ接続した。電圧のダイヤルを慎重に合わせる。
「バッテリーをバイパスして、強制的に安定した電力を送る。これで起動するはずだ」
スイッチを入れると、数秒の沈黙の後、真っ暗だった液晶画面にメーカーのロゴが浮かび上がった。
OSが立ち上がると同時に、画面上部のステータスバーに大量の通知アイコンがなだれ込んできた。ピロリン、という間抜けな電子音が数回連続して鳴り響く。深夜にルミナスのバックヤードで鳴っていた音の正体だ。
悠作はロック画面をスワイプした。当然、パスコードの入力画面が立ちはだかる。
「パスコードは解除しない。だが、通知のキャッシュとバックグラウンドで動いているアプリのプロセスなら、開発者モード用のツールから覗ける」
悠作は自分の検証用PCと西尾のスマートフォンをケーブルで繋ぎ、コマンドプロンプトを立ち上げた。
コマンドプロンプトの黒い画面を、白く細かなログが高速でスクロールしていく。目まぐるしく明滅する行を見つめながら、悠作の指先は迷いなくキーを叩き続け、特定のプロセスを検索するコマンドを打ち込んでいく。すずと瞳は言葉を失い、ただじっとその背中を見つめるしかなかった。
「……ビンゴだ」
悠作は画面の一点を指さした。
「SNSの公式アプリのキャッシュじゃない。サードパーティ製の自動投稿ツールのプロセスがバックグラウンドで動こうとしていた痕跡がある。アカウントの認証トークンを外部ツールに渡し、指定した日時にサーバー側から自動で投稿を投げる仕組みだ。つまり、今朝の『今日もいい天気』って投稿は、誰かが別の端末からリアルタイムで打ち込んだものじゃない」
「やっぱり……予約投稿だったんですね」
瞳が自分の口元を両手で覆った。
「ああ。ログを見る限り、数日分、あるいは数週間分の投稿がまとめてセットされている。西尾は、自分がカフェ・ルミナスにスマートフォンを置いて姿を消すことを、事前に知っていた。日常が続いているように見せかけるためにな」
悠作は検証用PCから視線を外し、瞳を真っ直ぐに見た。
「あんたの言った通りだ。ただの忘れ物じゃない。自発的か、誰かに指示されたかは分からないが、西尾は『失踪』を偽装している」
店内に重い沈黙が落ちた。足元で、ロムが短く鳴いた。
悠作は背もたれに体重を預け、瞳に問いかけた。
「西尾について、あんたが知ってることを全部教えてくれ。ただのメイドと客だろ? どうしてあんたは、たかが数日店に来ないだけで、わざわざ個人のSNSまで調べて不審に思ったんだ」
「ただのメイドと客……」
瞳の眉がピクリと跳ね上がった。
「鈴木さん、私をただ愛想を振りまいてチェキを撮ってるだけの置物だと思ってるんですか?」
瞳の接客用の甘い声から、完全に媚びが消えていた。
彼女はツカツカと悠作の作業台の横へ歩み寄り、そこにあったパイプ椅子を勝手に引き寄せた。そして、作業台の端をカフェのカウンターに見立てるようにして座り込み、少し背を丸めた。
「……ルミナスの7番席。入り口から一番遠いカウンターの端です」
瞳はまるでそこにコーヒーカップがあるかのように両手をそっと机へ置き、伏し目がちに虚空を見つめた。声のトーンまでが、観察者のそれに変わっている。
「西尾直樹さん。来店頻度は週に2回、火曜日の19時と、土曜日の15時。一人での来店がほとんど。注文はホットコーヒーと、たまに季節のケーキ。……メイドとの会話は最低限。自分から話しかけてくることはなくて、私たちが話しかければ静かに笑って頷く程度。それが、西尾さんというお客さんです」
瞳の仕草は、静かで目立たない一人の男性客の姿を、ありありと悠作たちの前に浮かび上がらせていた。
「うちのお店には、1日に何十人ものお客さんが来ます。常連さんの顔、名前、いつもの注文、滞在時間、どんな話題が好きか。それを全部覚えて、その人が一番居心地のいい空間を作るのが私の仕事です。西尾さんは、いつも同じ時間に、同じ席で、静かに時間を過ごす人でした」
瞳は一度言葉を切り、今度は仮想のスマートフォンを持つように両手を顔の前に掲げた。
「でも、3週間前くらいから様子が変だったんです」
瞳の指先が、貧乏揺すりのように細かく震え始めた。眉間に深いしわが寄り、何かを睨みつけるような険しい表情になる。
「いつもはコーヒーを飲みながら本を読んでいるのに、最近はずっとスマートフォンを睨みつけていました。注文を取る時にちらっと見えたんですけど、匿名のSNSか掲示板の画面でした。何か、ひどい言葉が並んでいたような気がします」
「嫌がらせを受けていた、ってことか」
「はい。それに、いつもは1時間ぴったりで帰るのに、長居することが増えました。まるで、店から出るのを怖がっているみたいに」
そして、と瞳は自分のスマートフォンを取り出し、店舗管理アプリの画面を開いて悠作に提示した。
「これ、決済履歴と私のシフト記録です」
悠作はそれを受け取り、手元の検証用PCの画面と見比べた。
「……確かに、火曜の19時と土曜の15時だな。注文内容もあんたの証言と一致する。3週間前から滞在時間が延びているのも、ログに残っている通りだ」
瞳の観察と記憶が、ただの印象論ではなく、客観的なデータとして裏付けられた。
「一昨日の土曜日、西尾さんは店を出る時に、このスマートフォンをテーブルに置きっぱなしにしていった。いつもなら絶対に忘れないような人が、です。だから、変だと思ったんです」
悠作は小さく息を吐き、瞳の顔を見直した。
「……恐れ入った。ただ愛想を振りまいてるだけじゃないんだな」
「当たり前です。私はプロですから」
瞳はふいっと顔を背けたが、その横顔には、自分の仕事を認められたことへの小さな誇りが滲んでいた。
「でも」
ずっと黙って二人のやり取りを聞いていたすずが、一歩前に出た。その視線は、ケーブルに繋がれ、画面が点灯したままの西尾のスマートフォンに注がれていた。
「西尾さんがお店に残したのは、ただの『忘れ物』じゃないかもしれません」
悠作はすずの顔色を窺った。昨日のような青白さはないが、万全とは言えない。
「高橋。無理はするなよ」
「大丈夫です。少しだけ……触れてもいいですか?」
悠作が短く頷くと、すずはそっと指先をスマートフォンの黒いベゼルに触れた。
瞬間、すずの細い肩がかすかに強張り、その薄い唇からすべての呼気が失われる。悠作と瞳は言葉を失い、ただ、再起堂の換気扇の低い唸りだけが、奇妙なほど大きく耳に響いていた。
「……寂しい」
すずの唇から、かすれた声がこぼれた。
「すごく、寂しくて、不安で……でも、誰にも言えない。瞳さんが向けてくれる笑顔が……眩しすぎて、自分の惨めさが余計に浮き彫りになるみたいで……」
瞳がはっと小さく息を漏らした。
「瞳さん」という言葉。それはすずが普段呼ぶ「中村さん」という呼称ではない。西尾の深い孤独に同調したすずの口から、彼がルミナスの客として普段心の中で呼んでいた名が、そのままこぼれ落ちていた。悠作はそれを察し、無言のまま手元のストップウォッチに指をかけた。
「それから……」
すずは眉を寄せ、必死に感覚を探った。
「店の中じゃない。もっと薄暗くて、じめじめした場所。エアコンの室外機の音……裏口、です」
「裏口?」
悠作が鋭く反応する。
「はい。ルミナスの裏口……そこで、誰かと会っています。緊張している……何かを、渡された……」
すずの指が端末から離れた。彼女は小さく肩で息をしながら、カウンターに手をついた。
「大丈夫か」
悠作がすかさず声をかける。
「はい。……西尾さんは、お店の裏口で、誰かと接触していました」
瞳がハッとしたように顔を上げた。
「裏口……そういえば」
瞳の目が、記憶の糸をたぐるように宙を泳ぐ。
「1週間くらい前、私がゴミ出しのためにバックヤードの扉を開けた時、西尾さんが裏口の路地に立っていたことがありました。お客さんが立ち入る場所じゃないから驚いたんですけど……西尾さん、誰かと話していたんです」
「どんな奴だ。顔は見たか?」
「いえ、背中しか見えませんでした。背の高い、黒っぽい服の男性でした。西尾さんに何かを手渡して、すぐに路地の奥に消えて……」
瞳は自分の記憶を確実なものにするように、言葉を紡いだ。
「その時、西尾さんが受け取っていたもの。……古い、紙袋でした」
「紙袋?」
「はい。よくある茶色い無地の紙袋じゃなくて、少し厚手で……パソコンのパーツとかを入れるような。青いロゴが印刷されていて……修理屋さんの袋みたいでした」
悠作の動きがピタリと止まった。
「……パソコンの修理屋の紙袋」
嫌な予感が、悠作の背筋を這い上がった。
悠作は無言のまま、検証用PCのキーボードを叩いた。外部ツールを使って、西尾のスマートフォンのローカルキャッシュディレクトリにアクセスする。クラウドに同期される前の、端末内部に残された画像サムネイルのフォルダ。
大量のアイコンや無意味なキャッシュ画像がスクロールしていく中、悠作の指がある一枚の画像データで止まった。
ファイル作成日時は、西尾が失踪する3日前。
「これを、見てくれ」
悠作が検証用PCのモニターに表示させた小さなサムネイル画像。解像度は粗いが、そこに写っているものは明確だった。
乱雑に積まれたハードディスク。スチール製の棚。古びた作業台。
それは、カフェ・ルミナスの店内でもなければ、どこかの風景でもない。
「……なんだ、これ」
悠作の口から、無意識のうちに乾いた声が漏れた。
モニターに映し出されていたのは、5年前に閉店し、今はもう存在しないはずのデータ復旧店——『記録工房』の、当時の店内の写真だった。




