中丞②
「署長以外に、藤井さんと懇意にしていた方をご存知ありませんか?」
「わしはもう署長じゃない。署長と呼ぶのを止めてくれ。わしが署長をやっていた間は、幸いなことに、全国誌に載るような凶悪事件は豊岡では一件も無かった。そうだよな・・・君」
話が脇道に逸れてしまいそうだったので、寿賀が慌てて話を戻す。「はい。実は出石在住の仙石久幸さんが、ご長男を藤井さんのお世話で、知人に預けられたようなのですが、その藤井さんの知人がどなたか、ご存知ありませんか?」
「仙石・・・」甲本が寿賀の言葉に反応した。
記憶を弄っているようだ。丁度、甲本夫人と思しき老婦人が、応接間にお茶を運んで来た。丸顔の優しそうな老婦人で、お茶を配膳すると、「ごゆっくり」と微笑みながら出て行った。
来客は稀なのだろう。日頃はむっつりと押し黙ったままの夫が、久しぶりの来客を前に、饒舌なのを見て、可笑しいようだ。
甲本は暫く考え込んだ後で、「高校生くらいの若造が、確か仙石なんとかという名前だった気がするな。もう随分昔の話だぞ。七、八年、いや、十年くらい前のことだ」と答えた。
「仙石道幸さんを誰に預けたかご存知なのですか?」寿賀が勢い込む。
「知っているも何も、藤井さんに頼まれて、若造を出石に迎えに行ったのはわしだ。急に予定が早まったとか言うことでな。藤井さん、丁度、車を車検に出しておってな。『豊岡駅まで送って行きたいが、車が無いので車を貸してくれ』と電話があった。『それならわしが送ってやろう』と出石に行って、若造を家から連れ出して、駅まで送ってやった。不良息子だと言うので、道々、親を泣かせるなと説教してやったよ」
「仙石道幸さんを誰に預けたのですか?」
甲本は寿賀の質問には答えずに、「藤井さんの大学時代の友人に『中丞』という渾名の人物がいた」と話し始めた。
寿賀が「そうですか」と辛抱強く甲本の話を聞く。
「『ちゅうじょう』なんて言うものだから、軍隊の大将、中将の中将かと思ったが違っていた。『なか』の『中』に『すくう』、『助ける』と読む『丞』の字だった。三国志の諸葛孔明の『丞相』の『丞』の字だな」
甲本は説明しながらテーブルの上に指で「丞」の字を何度も書いて見せた。
中国史に通暁している圭亮は「丞相」の「丞」の字と言われると直ぐに分かったようだ。圭亮が「はい」と大きく頷くと、甲本は「丞」の字が伝わったと見て話を続けた。
「その中丞さんという人は、考に厚く正義感の強い人だったらしい。藤井さんは歴史に詳しくてな。日本史は勿論、中国史に造詣が深かった。わしはよく知らんが、中国に昔、包さんという偉い役人がいたそうだ。親孝行で正義感の強い人だったそうで、その人が『青空さん』とか『中丞さん』とか呼ばれていたので、『中丞』という渾名を付けたそうだ」
「包拯のことですね!」
それまで黙って聞いていた圭亮がついに耐え切れなくなって声を上げた。圭亮は海外、特にアジアでの駐在経験が豊富で、中国史に精通している。
「・・・?」応接間の視線が圭亮に集まる。
「包拯は宋の時代の役人で、その清廉さを庶民に愛された人です。中国の大岡越前と言った感じですかね。日本ではその名前があまり知られていませんが、中国では誰もが知っている歴史上の有名人です。『包公』とか『包青天』と呼ばれたことは知っていますが、『中丞』と呼ばれていたことは知りませんでした。勉強不足です」
包拯は中国の北宋の時代、日本で言うと平清盛が平氏の春を謳歌していた頃に活躍した人物だ。科挙に合格し、役人となったが、両親が高齢であった為に官を辞し、両親の世話をして孝行振りが世間に広まった。
両親の死後、喪が明けると、やっと任官し、任地に赴くや否や賄賂を摘発するなど、清廉潔白な政治を行い、大衆の熱狂的な支持を集めた。勧善懲悪、公正無私な政治家が、民衆の人気を集めるのは洋の東西を問わない。
「包公」や「包青天」の名で、広く中国で知られているが、歴任した官位から「包龍図」、「包中丞」とも呼ばれている。
「ああ、その人だと思うな。随分、親孝行な人だったそうだが、藤井さんの友人と言う人もな、親孝行な人で、親父さんが亡くなった後、母親の面倒を見る為に、暫く、大学を休学したそうだ。正義感の強い人で、藤井さんはその包さんみたいだと言うことで『中丞』と言う渾名を付けたと言っていた」
なかなか話が進まない。寿賀は「その『中丞』さんに、仙石さんの息子を預けたのでしょうか?」と強引に話を戻した。
「藤井さんが、極道息子の相談を受けた時、暫く、親元から離して苦労をさせた方が良いと『中丞』さんに連絡を取ったのよ。『中丞』さんは『私が預かりましょう』と快く引き受けてくれたそうだ」
藤井の奥さんが言った「ちゅう何とか」とは、「中丞」のことだったのだろう。
「その『中丞』さんのお名前は分かりませんか?」
「分かるよ」と甲本は答えた後、喉が渇いたのかお茶を口に運んだ。
甲本がお茶を美味しそうに啜る間、寿賀は焦れる気持ちを必死に押さえ、返事を待った。やがて、甲本は湯呑を湯呑受けに戻すと、舞台は整ったとばかりに、芝居がかった口調で言った。
「藤井さんは『立花中丞』と呼んでいたよ」
「立花!」
圭亮が声を上げたものだから、じろりと甲本に睨まれてしまった。
「それは弁護士の立花さんでしょうか?」
「知らない。極道息子を駅まで送って行った時、現れたのは若い男だった。その男も立花と名乗った。父親の代理だと言っておった」




