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仇討ち③

 付近を警邏していた邏卒が、品川駅前で邏卒の恰好をした不審な男を見つけた。

 男は虚ろな目付きで品川駅前をうろついていた。しかも多量の返り血を浴びていた。品川駅前にいた乗客たちは狂気を発する男の異様な風体を目の当たりにして、悲鳴を上げて逃げ惑った。女子供の悲鳴が飛び交い、ちょっとした騒ぎになっていた。

 騒ぎを聞きつけて邏卒が飛んで来た。安田邸で凶悪な事件があったばかりだ。男はその犯人のようだ。男を遠巻きにすると、邏卒は呼子笛を吹いて応援を呼んだ。やがて、わらわらと邏卒の仲間が駆けつけて来た。

 邏卒たちはぐるりと男を取り囲むと、「それっ!」と一斉に襲いかかった。

 男はまるで抵抗しなかった。

 富山藩士、海内一得(かいないいっとく)と男は名乗った。富山藩は加賀藩の支藩だ。加賀藩第三代目の藩主、前田利常が隠居する際、次男の利次に富山十万石の分封を幕府に願い出て許され、富山藩が設立した。神通川流域、越中国の中央部を領有する藩だ。明治四年の廃藩置県により、この時はもう富山県になっていた。

「安田一家を殺害した理由は仇討である」

 一得は邏卒の取り調べに、高らかに宣言した。

――安田孝行は奸計を以て父、海内織部(かいないおりべ)を刑死に追いやった。父、織部は切腹、海内家は士分剥奪、家財没収の憂き目を味わうこととなった。親の仇、安田孝行を追って旅を続け、ついに、ここ品川の地にやつが居を構えていることを探り当てた。今宵、ついに恨みの一太刀を浴びせることができた。父、織部の恨みを晴らし、本懐を遂げることができたのだ。

 一得は口から泡を飛ばしながら主張した。その目は狂気を孕み、取り調べに当たった邏卒は背筋が寒くなる思いだったという。

 ことが仇討となると厄介だった。明治政府が「敵討禁止令」を発布して、法律で仇討を禁止するのは明治六年のことだ。事件発生時のこの時点では、仇討はまだ合法であり、むしろ武士の美徳とされる風潮が強かった。

 事件の半年ほど前に、世間で評判になった仇討事件があったばかりだった。

 江戸末期、文久六年、肥後藩の江戸藩邸で下田平八と中津喜平の両人が同僚の入佐唯右衛門と口論になった。憤慨した入佐は二人を切り殺し逐電してしまった。武士が非業の死を遂げた場合、家名は断絶、知行は召上げと決まっており、下田家、中津の両家も断絶となった。下田平八の妻、田鶴とその一子恒平、中津喜平の妻、寿乃は夫の仇、父の仇である入佐唯右衛門を探し求め、旅に出た。

 明治四年、入佐は山口藩に捕えられ、肥後藩に連行されることになった。肥後藩の手に渡れば入佐は処刑され、仇討の機会は永久に失われてしまう。田鶴と恒平、寿乃は急ぎ山口に向かった。そして肥後藩より入佐の身柄引き取り役として使わされて来ていた石原運四郎と会うと、仇を討たせて欲しいと直訴した。

 石原にとって、入佐の連行は役目であり、それを果たせないとなると厳罰が下ることになる。だが、石原は下田親子と寿乃の必至の願いを「武士の情け」と聞き入れた。連行途中に、入佐を肥後高瀬の地で唐丸籠から引き出すと、下田親子と寿乃に引き渡した。下田親子と寿乃は入佐に恨みの太刀を浴びせて見事に仇を討った。

 肥後藩では石原の罪を問わず、見事に仇を討った下田恒平に下田家の再興を許すと、高札を立てて田鶴の婦徳を激賞したという。

 仇討ちはまだ武士の美徳として持て囃されていた時代であった。

 当時、警察権は司法省の管轄であった。司法省もこの残忍な殺人事件が、仇討事件だと聞いて慌てた。早速、富山県に対し事実確認を行ったところ、富山県からの回答は予想外のものだった。

「富山藩に海内織部、一得という藩士は存在せず、安田孝行が奸計を以て海内織部を刑死に追いやったという事実はない。また安田孝行は士分に非ず、海内一得という者の申す仇討は当藩のあずかり知らぬことである」

 一得の言う仇討は富山藩のあずかり知らぬことであるという。本当に一得の言う仇討に覚えがなかったのかもしれないが、廃藩置県から間もないことであり、維新に遅れて新政府側に寝返った富山藩として、明治政府の苦慮を配慮しての回答であったのかもしれない。

 一得は富山藩の回答を聞かされても「天のみぞ知る」と動じる気配はなかった。

 安田家の家政婦、イネは凶行後、三日の間、息があった。安田一家が惨殺されたことをイネに伝えなかった為、苦しい息のもと、最後まで主人たちのことを心配していた。治療の甲斐なく、イネは息を引き取った。

 一得が言うように、例え仇討であったとしても、何の罪もないイネや安田孝行の妻、そして赤子までをも無慈悲にも殺害したことは、人として許されるべきことではなかった。

 海内一得は浮浪人として扱われ、死罪と決まった。

 鈴ヶ森の刑場が廃されていた為、一得は伝馬町牢屋敷で首を撥ねられた。一得は武士として切腹を強く望んだが、明治政府は一得の凶行を仇討と認めず、また一得も武士として認めなかった。

 結局、一得がどこの何物で、何故、孝行一家を惨殺したのか、分からないままだった。

 孝行が富山から連れて来た妻のきぬが絶世の美人であったことから、一得はきぬに横恋慕をし、嫉妬が募り、気狂いした挙句の犯行ではなかったのか、などと実しやかに世間で噂された。

 明治政府としては事件の真相よりも、世間に与える印象の方が怖かった。仇討名目の殺人事件が頻発しては敵わないと思ったのだろう。この事件から一か月後、金沢の本田家の家臣が主君の仇討を果たし、「明治の忠臣蔵」と呼ばれたが、仇討に参加した十二名は切腹となっている。

 明治六年には司法省より「敵討禁止令」が発布され、仇討が禁じられた。

 明治十二年に旧秋月藩の臼井六郎が父の仇を討ち果たし、「最後の仇討」と評判になった。だが、臼井六郎は無期懲役となっている。この一連の流れに裏には、海内一得による安田家の一家惨殺事件があったのかもしれない。

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