舞台下③
真琴は二人の顔をゆっくりと見回した後で、声を潜めて言った。「あの日、午後、四時半くらいだったかしら。鈴ヶ森の方から得体の知れない真っ黒な巨大な影が、うちの店先を通って、幽霊屋敷の方へ過ぎ去って行くのを感じました。強烈な妖気を放っていましたの。耳をつんざく悲鳴なような声が聞こえて、頭が割れそうでした。私は耳を塞いで、その場にしゃがみ込んでしまいました。怨霊です。禍々しい悪霊が店先を横切って行ったのです。あの恐ろしい悪霊が、幽霊屋敷を襲い、中にいた若者を呪い殺してしまったのです。くわばら、くわばら」
「悪霊ですか?」
「死者の怨念が、磁石のように引き付けあって、大きくなったものでしょう。怖いわ、くわばら、くわばら」
「この近くに鈴ヶ森の刑場があったのですよね?」圭亮が西脇に代わって真琴に尋ねる。
「あら、あなた。見た顔ね」
「はい。たまにテレビに出ています」
「そうよね~道理で。見た顔だと思った」
「それで、鈴ヶ森の刑場は?」
「鈴ヶ森の刑場跡地は、今は大経寺と言うお寺さんの境内になっています」
「その大経寺から悪霊が飛んできたのですか?」
「方角的にはそうですね。飛んで来たのではなく、走って来たとでも言いましょうか。とにかくあの日は、今までに感じたことのないような巨大で、どす黒い悪霊が、大経寺さんの方角から地を這うようにやって来ました。そして、うちの前を通り過ぎて、あの屋敷に向かって行きました。そうそう、あの幽霊屋敷には以前から怨霊が取り憑いていましたの。ひょっとして屋敷に居た悪霊と、大経寺から飛んで来た悪霊が一緒になって、あの若い人を取り殺してしまったのかもしれません。私はね、あの屋敷で、何時かとんでもないことが、起こるんじゃないかと心配していたのです。くわばら、くわばら」
「もともと、幽霊屋敷には怨霊が取り憑いていたのですね?」
「ええ、もう随分昔に、あの屋敷で一家惨殺事件があったそうです」
「はい。聞いたことがあります」
真琴が話を続ける。「昔の話だそうですけど、あの屋敷に狂人が侵入して、住んでいた住人を皆殺しにしてしまったという噂があるのですよ。以来、あの屋敷には殺された住人の霊が憑りついてしまったのです。立花さんが屋敷を買う前は、屋敷の持ち主がころころ変わっていました」
安田一家惨殺事件のことだ。この辺りでは、まだ噂になって残っているのだ。
「・・・」圭亮は真剣な表情で真琴の話に聞き入っている。
「屋敷を買って住んでみると、夜な夜なお化けが出るので、気味悪がって、屋敷を売りに出すからです。嘘じゃありませんよ。実際にお化けを見たという人がいるのですから」
誰も嘘だとは言っていないが、真琴が口を尖らせて力説する。
「幽霊をご覧になった方がいらっしゃるのですか?」
真琴は「ええ」と神妙な面持ちで頷くと、この辺りで有名な立花家の幽霊に関する怪談を話し始めた。
近所に住むサラリーマンが残業で帰宅が遅くなり、家に向かって歩いていると、立花屋敷から夜道を歩いて来る人の姿が見えた。人影はふたつで、立花家に住む謎の住人が誰かと連れ立って歩いて来ているのだと思った。
夜道を歩いて来る二人が、街灯の下に差し掛かかった時、謎の住人と並んで歩いていた人影が消え失せてしまった――という、あの話だ。
圭亮の反応が薄いと思ったのか、真琴は「そう言えば私も最近知ったことなのですけど」と、最近、仕入れたばかりの怪談の後日談を話し始めた。「立花屋敷の幽霊を目撃したサラリーマンはご近所にお住まい方ですが、この方、一か月程前に、近所のコンビニで起きた通り魔事件の被害者の父親だったのです」
「通り魔事件の関係者だったのですね」
一月程前に、品川のコンビニで起きた傷害致死事件のことだ。深夜にコンビニ前でたむろしていた若者同士が、ささいなことで口論となり、一人の若者が刺殺された事件で、犯人は捕まっている。
真琴が言った。「とにかく、その事件も悪霊の仕業に違いありません。立花家に憑りついている悪霊を見てしまったものだから、サラリーマンに憑りついてしまった。そして、その悪霊が、今度は息子さんに取り憑いた。そして、息子さんはろくでなしに刺されて亡くなってしまったのよ。くわばら、くわばら」
荒唐無稽な話だが、真琴はそう信じ込んでいる様子だった。
怪談話に飽きたのか、「この辺で、怪しい人物を見かけませんでしたか?」と西脇が口を挟んだ。
「ああ、あの変な恰好をした男のことですね」と真琴は察しが良い。
「見たことがあるのですか?」
「おかしな恰好をした男が、あの屋敷の周りをうろついているのを見ました」
「おかしな恰好? どんな格好をしていたのですか?」
「お洒落な帽子を被って、サングラスをしていました。それに大きなマスクで顔を隠していて、最初は芸能人がお忍びで訪ねて来たのかと思いました。それに今時珍しい、蝶ネクタイをしていました」
蝶ネクタイの男だ。
「蝶ネクタイですか!? それは何時頃?」
「一カ月くらい前かしら。それ以前にも一度、蝶ネクタイの男を目撃した記憶がありますよ」
「それは何時頃の話ですか?」
「さあ、四、五年、いやもっと昔のことだったような気がします」
何年も前から、屋敷の周りで蝶ネクタイの男が目撃されていた。
「貴重なお話、ありがとうございました」と丁寧に礼を言ってから、「市野酒店」を出た。
外に出ると、春の陽気にも係らず、妙に薄ら寒く感じてしまった。
「いや~参りましたね」と西脇がうんざりしたように言う。
圭亮はというと、路上に出ると、ぶるりと一度、身震いをした。
「車に戻りましょう」と再び立花屋敷へ足を向けた。
この坂道でサラリーマンは幽霊とすれ違ったのだ。そう考えると、気持ちの良いものではない。昼間で良かったと思えた。




