復讐の鬼①
そんな立花検事が危うく冤罪事件を引き起こしてしまいそうになったことがあった。
暑い夏の夜の出来事だった。中野区のワンルーム・マンションで女子大生が刺殺された。当夜、マンションから逃げ去る恋人の姿が近所の住人により目撃されており、別れ話のもつれから女子大生を殺害したものと思われた。
マンションの部屋と凶器の包丁から、男の指紋や毛髪が発見されている。
男の犯行であることは明白であると思われた。だが、男は「呼び出されてマンションに行ったところ、遺体を発見した」と証言した。包丁の指紋はその時に触ったからだと主張した。
死亡推定時刻の裏付けもあり、警察は男を犯人と断定した。
担当検事だった立花は男を尋問、事件を審理の上、女子大生殺害の犯人として公訴したが、事件は思わぬ展開を迎えることになる。男の弁護人より新たな事実が公表されたのだ。
「僕がさくらの部屋に入った時、寒いくらい冷房が効いていました」
男は思い出したようにそう弁護士に証言したと言う。
女子大生の遺体が発見された時、部屋のエアコンは動いていなかったが、調べてみると冷房が二十二度に温度設定されていた。オフタイマーが使われたようで、死後数時間、遺体が冷房の冷風に晒されていたことになる。となると、死亡推定時刻が早まることになる。
事実はあっさりと知れた。
再捜査が行われ、被害者と男の知人の男性が逮捕された。女子大生が男と別れたがっていることを知り、下心のあった知人の男は相談に乗るふりをして女子大生に近付いた。事件当夜、女子大生の部屋に押しかけた知人の男は、既成事実を作ってしまおうとして、抵抗に遭い、女子大生を殺害していた。
狡猾なことに、部屋の冷房を使い、死亡推定時刻を遅らせることを思いつき、女の携帯から恋人の男を呼び出して部屋から逃げたのだ。
この事件の後、程なくして立花は検察官の職を辞した。
常日頃から「出してはならない」と言い続けてきた冤罪を、自らの手で生み出してしまいかけたことを心底、悔やんだ。
「自分は検察官として失格である」と悲痛な表情で周囲に語っていた。そして、「今後は無実の人間を救いたい」と弁護士に身を転じた。
用明太の弁護を担当したのは、そんな経歴の持ち主であった。衆人の注目を集めていた少年事件とあって、弁護士として起用された立花は少年Aの代弁人としてマスメディアに登場し、世間の耳目を集めて行った。
「立花弁護士の登場によって事件は大きく動いた。いや、ねじ曲がって行ったと言う方が正しいかもしれない」と久手は言う。
「ねじ曲がった・・・」思い出して来た。
あの衝撃的な結末は、西脇の記憶にはっきりと残っていた。
立花は弁護を引き受けると、拘留中の太に会いに行った。
「僕は何もやっていません、無実なんです。お願いします。助けて下さい」
用明太は涙を流しながらそう訴えたと言う。
「あいつは警察にはめられたんだ。先生、あいつを助けてやってくれ」
横柄な父親の忠也が、立花にひたすら頭を下げた。立花は用明父子から、用明太が警察官に取り押さえられた当時の状況を詳しく話を聞いた。そしてひとつの弁護方針を立てた。
立花は松中と棟近が押収した証拠の無効を申し立てた。
「二人の刑事が証拠を押収した場所は、用明家の自宅倉庫であり用明家の敷地内であった。二人は不法に用明家の家屋に侵入し、用明家の私物を押収した。これは明らかに違法行為である」
松中と棟近は用明太が証拠品を廃棄するのを待って押収し、犯罪を立証すべきだった。用明太の逮捕を焦る必要などなかった。弾みとは言え、用明家の倉庫に無断で押し入る形となり、そこで不法に押収した物が、裁判で証拠として認められるはずがない。
完全に捜査員の勇み足と言えた。
それに、棟近が押収した紺の上着と帽子から、黒田麻衣殺害に繋がる物証は何も見つかってはいなかった。
「僕は殺人犯なんかじゃない。でも、紺の上着と帽子を持っていると言うだけで、麻衣ちゃん誘拐犯だと疑われてしまう。だから、早く捨ててしまいたかった」
夜中に上着と帽子を持って外出しようとした理由を、用明太はそう説明した。
上着と帽子は証拠能力が弱かったが、太がポケットに忍ばせていた女性用の小さな下着は捜査本部にとって痛恨の極みとなった。DNA鑑定の結果、下着は麻衣が使用していたものであると証明されたからだ。これが証拠品と採用されないとなると、警察側は太を犯人と特定する決め手を失ってしまうことになる。
用明太は戦利品である麻衣の下着を、上着や帽子とは別にポケットに隠し持っていた。捨ててしまうには惜しいと迷っていたからだろう。これが事態を更に深刻にさせた。立花は用明太が麻衣の下着を所有していたことに関し、驚くべき反証を用意していた。
「警察側が、用明太が所持していたと主張する下着に関して、刑事訴訟法で定める違法収集証拠排除法則により、その押収方法は非合法なものであり、証拠能力は無いと判断できます。弁護側として反論する必要はありませんが、被疑者、用明太の名誉を守る為に、事実を明らかにします」と宣言してから、証拠を押収した松中に対して辛辣な反証を行った。
――倉庫で太を抑え込んだ際、松中が麻衣の下着を太の口の中に押し込んだ。
という内容だった。
用明太は松中により倉庫の床に押さえつけられ、自由を奪われた。更に、松中がどこからか取り出した白い物体を口の中にねじ込んだと言うのだ。用明太は必死に抵抗したが、抗い切れなかった。これが立花の反証だった。
「倉庫で、俺は見た。あの刑事がポケットから白い布きれを取り出して、太の口に押し込もうとしているのを!やつは息子に濡れ衣を着せようとしたんだ」忠也はそう証言した。拘留中の用明太も「刑事に何か口の中に押し込まれた」と申し立てた。




