少年A②
学校が夏休みだった麻衣は母親の黒田美代に連れられて、近所のスーパーに買い物に来ていた。スーパーに着いて直ぐに、美代は知り合いの主婦につかまり、世間話の相手をさせられた。麻衣が「トイレに行きたい」と言うのを、美代は「ちょっと待って」と制したが、麻衣は「漏れちゃう」と一人でスーパーのトイレに向かって走って行った。
「麻衣ちゃん、一人で大丈夫だよね?」
後ろから声をかけると、麻衣は「大丈夫、大丈夫」と背中で答えた。麻衣は当時八歳、トイレに一人で行くことができる年齢だった。
「麻衣ちゃん、遅いわね」
世間話の合間に知り合いの主婦が言った一言で、美代は我に返った。麻衣がまだトイレから戻って来ていなかった。急に麻衣が心配になり、美代はトイレまで麻衣を探しに行った。だが、麻衣の姿はどこにも無かった。
「麻衣、麻衣――!」美代は異常を感じた。
サービス・カウンターに行き、迷子のアナウンスも流してもらったが、それでも麻衣は姿を現さなかった。
美代は半狂乱になった。
係員が警察に通報し、直ぐに警官が駆けつけて来た。
警官が係員と共に、スーパー内を隈なく捜索してくれたが、麻衣の姿は見つからなかった。美代は不安に押し潰されてしまいそうだった。警官と係員は買い物客に、「八歳くらいの女の子を見なかったか?」と尋ねて回った。
――誘拐。
誰もがその言葉を想像したが、取り乱す美代を前に、口にすることができなかった。麻衣はこの日を境に行方不明となった。
警察の聞き込みで、当日、小さな女の子を連れた若い男を目撃したという情報が寄せられた。買い物に来た主婦が、ジーパンにスーパーの店員が羽織るような青い服を着た男が、小さな女の子の手を引いて、スーパーから出て行く姿を目撃していた。
男は黒か紺色の野球帽を目深に被っており、人相がはっきりとしなかった。
男がスーパーの制服か制服と見間違うような青色の上着を着ていたことから、スーパーの関係者、若しくは過去にスーパーで働いたことがある者が、捜査対象となった。いずれにしろ麻衣は若い男をスーパーの店員と勘違いをして、男について行ったものと思われた。
連絡を受けた麻衣の父親、黒田重信は急ぎ帰宅すると、誘拐犯からの接触を待った。ところが、待てど暮らせど、誘拐犯からの連絡は無かった。営利目的の誘拐ではなく、悪戯目的で麻衣を連れ去ったのではないかと危惧された。
――となると、麻衣の命が危ない。
美代はスーパーで我が子から目を離してしまったことを悔い、自分を責め続けた。食事が喉を通らず、泣き明かす毎日で、幽鬼のような姿に変わり果てた。
「動きがあったのは、誘拐事件発生から三日後だった」
捜査員の懸命な捜査にも係らず、スーパーの関係者や過去にスーパーで働いたことのある者の中に、怪しい人物は見当たらなかった。捜査員はスーパーの周りに住む小児性愛者に捜査対象を広げた。
「捜査員は不眠不休で捜査していたが、俺たちも情報を求めて、寝る間を惜しんで走り回ったよ。そんな中、黒田麻衣ちゃんと思われる遺体が発見されたというニュースが飛び込んで来た」
鶴見川の支流である恩田川の河川敷の叢の中で、女の子の遺体が発見された。
早朝、愛犬を連れて散歩に来た老人が、叢に向かって吠えたてる愛犬を不審に思い、雑草を分け行って女の子の遺体を発見した。
麻衣が誘拐されたスーパーから恩田川の河川敷まで、二百メートルほどの距離だ。スーパーの裏口から駐車場を抜けると河川敷に出ることができる。そこから川を一キロ程度下った叢の中で遺体が発見された。
通報を受けた警察官がかけつけて確認したところ、年恰好から麻衣ではないかと思われた。直ぐに誘拐事件の捜査員が河川敷に駆けつけた。
「女の子は黒田麻衣ちゃんだった。可哀そうに・・・」
死因は鼻と口を強く押えられたことによる窒息死だった。悪戯目的で誘拐したが、途中で騒がれたので、口を封じようと鼻と口を押えつけたところ、窒息死してしまった。捜査本部では殺害時の状況をそう分析した。
検死が行われ、遺体が両親に引き渡された。
「父親は娘の変わり果てた姿を見て慟哭し、母親はまるで発狂してしまったかのように娘の遺骸に取りすがって、娘の名前を呼び続けたそうだ。なんとも痛ましい事件だった」
「その事件の容疑者が用明太だったのですか?」
「用明太? ちょっと待ってくれ」と言って、久手はキャビネットにファイルを取りに行った。分厚いファイルを手に戻ってくると、「ああ、そうだ。用明太だ。当時、十八歳、未成年だった。だから、少年Aとしてしか報道できなかった」と悔しそうに言った。
用明太の名前は伏せられた。だから、西脇は彼の名前を記憶していなかったのだ。
「確か、容疑者、捕まったのではなかったですか?」
「ああ。最初は高校生の目撃証言だった」
事件の三日前、麻衣が誘拐されたスーパーで店員と見紛う恰好で、紺の帽子を目深に被った用明とすれ違ったという高校の同級生が現れた。
「はっきりと顔を見た訳ではありませんが、あれは絶対に用明でした」
高校の同級生はそう証言した。
「事件の三日前だ。用明はスーパーに下見に行ったか、或いは獲物を物色してスーパーに行ったのではないか。そして、獲物が見つからずに、その日は退散したのではないかと捜査員は考えたようだ」
用明は配管工をしている父、忠也と母、晶子の間に生まれた。一人息子で、地元の高校に通う高校三年生だった。細面で顎が鋭角に尖っていた。目が小さく離れており、八の字型の眉毛が、用明を気の弱い、優しそうな青年に見せているが、薄い唇が酷薄な性格をよく表していた。
高校卒業後は父親の経営する配管屋を継ぐことが決まっており、周囲が受験勉強に忙殺される中、悠々自適、夏休みを謳歌していた。
早速、捜査員が用明家に向かった。忠也が在宅しており、事情聴取のために訪れた捜査員に、「俺の息子は何も悪いことなんかしちゃいない! お前らと話をしなければならない義務はない」と凄み、目を血走らせながら追い返してしまった。




