近すぎた距離
敦兄の向かいの席に座り、並んだおかずに箸を伸ばす。
昌枝さんが作り置きしてくれていた料理だ。
今日は少し多めらしい。
箸を置いて立ち上がる。
「飲み物入れるね」
「サンキュ」
背中に、敦兄の声が飛んできた。
「そういえばさ、お前、ガキの頃からよくキッチンに立ってたよな」
「そうだね」
冷蔵庫を開けながら答える。
「最初はお母さんが家事苦手だからやってただけだけど、今はわりと好きかも」
昌枝さんの横で、よく料理を教えてもらっていた。
「おいおい、りあたん、俺に内緒で嫁に行くんじゃないぞ」
「何言ってんの、お茶でいい?」
「おお」
久しぶりに聞くその呼び方が、少しくすぐったい。
冷蔵庫に視線を戻すと、奥に炭酸の缶が見えた。
……なんか、炭酸飲みたい気分かも。
「ねえ、あっちゃん。これ飲んでいい?」
「いいよいいよ。なんでも食って飲め」
敦兄は顔も上げずに言った。
「プリン以外はな」
「分かってる」
……そういえば昔、勝手に食べてしまって、珍しく拗ねられたことがあった。
お茶を敦兄に渡し、席に戻る。
プシュッ。
炭酸の缶を開けて、一口飲む。
「……あれ」
少し眉をひそめる。
「なんかこれ、ちょっと変な味するかも」
「ん?」
敦兄が顔を上げて、
「――あ!!」
「え?」
勢いよく立ち上がった。
「お前それっ!」
持っていた缶をひったくられる。
「昌枝ちゃんの酒!!」
敦兄が缶をひっくり返して見る。
「って空だし!」
視界が、ゆっくり揺れる。
「……あれ」
敦兄の顔がぼやける。
「なんか、あっちゃんが二人に見える……いや、三人……?」
「っやばいなこれ」
慌てて立ち上がる敦兄。
すぐに戻ると、コップを口元に押し当てられた。
「ほら、飲め」
水が口に流れ込む。
むせそうになりながら、なんとか飲み込む。
口元からこぼれた水を、敦兄がティッシュで乱暴に拭いた。
「大丈夫か?」
「うーん……」
頭が重い。
「……ちょっと頭痛い……」
敦兄は空になった缶を見ると、顔をしかめた。
「……くそ」
小さく舌打ちすると、立ち上がった。
「ちょっとここで大人しくしててくれ!」
そして、玄関の方へ急ぎながら振り返る。
「酔い止め買ってくる!」
――バタン。
ドアが勢いよく閉まった。
その音が消えると、家の中は急に静かになった。
……あれ。
なんだか、急に心細い。
頭がぼんやりする。
ダイニングの椅子にもたれながら、ぼーっと天井を見上げた。
ぼんやりする頭の中で、帰国してからのことがぐるぐる回る。
あっちゃん。安心。
俊兄。優しい。
颯太。生意気だけど、可愛い。
そして――
隼人。
私は、ゆらりと立ち上がった。
「外の空気……吸いたい……」
ふらふらと廊下へ出る。
歩きながら、さっきの兄弟たちの顔が頭の中でぐるぐる回る。
あっちゃん。プリン。
俊兄。うさぎ。
颯太。バカヤロウ。
そして――
隼人。川。
……そうだ。
隼人。
廊下に出た、その時。
玄関の方から、人影が見えた。
「……なに」
低い声がする。
隼人だ。
私はぼんやりその顔を見る。
「隼人――」
隼人は一瞬驚いた顔をするが、すぐに視線を外すと、そのまま私の横を通り過ぎようとした。
背中を見て、ふと思い出す。
――そうだ。
隼人に、言いたいことがある。
胸の奥が熱くなる。
「……おい!隼人ぉ!」
気づけば叫んでいた。
隼人の足が止まり、振り返る。
「……は?」
私はそのまま、ふらふらと近づく。
そして――
隼人の胸ぐらを、ぐっと掴んだ。
「っ!」
その瞬間、体がぐらりと傾く。
足元の感覚が、消えた。
「あ――」
倒れる。
そう思った瞬間――
隼人の腕が、反射的に私の腰を掴んだ。
体が引き寄せられ、ぐるっと回る。
ドン。
床に何かがぶつかった音。
――気づけば、私は隼人の上にいた。
一瞬だけ、隼人の手が私の腰を支えた。
でもすぐに、その手が離れる。
「……隼人」
ぼんやりしたまま、上半身を起こす。
すぐ下に、隼人の顔。
近い。
思ったより、ずっと近い。
「……っ」
隼人の息が止まった気がした。
目が、合う。
きれいな黒い瞳が、わずかに揺れる。
あと少しで触れそうな距離。
隼人の喉が、小さく動いた。
「……隼人」
私は小さく続けた。
「っごめんね……」
ずっと言えなかった言葉だった。
声が、少し震えた。
「……!」
隼人の目が大きくなる。
その瞬間、力が抜けた。
私はそのまま、隼人の胸に倒れ込んだ。
顔が、その胸元に埋まる。
思ったより硬い。
細く見えるのに、ちゃんと男の人の体だった。
「っ……おい」
隼人の体が少し固くなる。
背中に手が触れそうで――
止まる。
「……気持ち、悪い」
「……は?」
「うっ――」
けろけろけろ。
「っ!!」
その時――
ガチャリ、と玄関のドアが開く音。
「なんでそんなことなってんだよ」
「だからそれは――」
兄たちの声が重なる。
足音が廊下に近づく。
「……は?」
俊兄の声。
「え、ちょ、待って!どういうこと??」
敦兄の声もする。
その向こうから、もう一つ。
「はっ!!」
颯太の声が跳ねた。
「姉ちゃんが隼人兄に襲われてる!!」
「……おい」
すぐ下から隼人の声がする。
「どこをどう見たらそうなるんだ」
ばたばたと足音が近づく。
「おーい、りあ!りあ!」
敦兄の声がすぐ上から降りかかる。
「……あー、こりゃダメだな」
体がふわっと軽くなる。
「颯太、運ぶの手伝え」
「げっ、やだよ!ゲロまみれになんじゃん!」
「いいから!まず拭くもん持ってこい」
「げー」
足音がばたばたと遠ざかっていく。
「隼人」
俊兄の声。
「お前もシャワー浴びてこい」
「……」
布の擦れる音。
足音が遠ざかる――。
たぶん、隼人だ。
そして、私の体が揺れる。
遠くで誰かの声がする。
でも、もうよく分からない。
私はそのまま、意識の奥に沈んでいった。




