再会の匂い
「――ずっとそばにいるから」
泣きそうな、男の子の声。
……この声を、私は知っている気がした。
そっと握られた手は、ひやりと冷たくて。
でも、不思議と安心していた。
――夢だ。
きっと、あの日のまま止まっている夢。
ふわふわして、気持ちいい。
このまま目が覚めなければいいのに、と一瞬だけ思った。
『まもなく着陸いたします。座席にお戻りいただき、シートベルトをお締めください』
機内アナウンスが、現実を引き戻す。
ゆっくり目を開けた。
日本に、戻ってきた。
逃げるためじゃない。
ちゃんと、向き合うために。
空港を出て、タクシーに乗り込む。
向かうのは――あの家。
四年ぶりの、桐生家。
敦兄は去年、シンガポールまで会いに来てくれたけど、他のみんなとは、それきりだ。
……でも、体感はもっと長い。
見慣れていたはずの大きな門が、少しだけ遠く感じる。
門の前に立つと、胸の奥がきゅっと縮んだ。
緊張と不安。
その奥に、ほんの少しの期待。
誤魔化すように空を見上げる。
今日は、雲ひとつない晴天。
……こんな日に帰ってくるなんて、運がいいはず。
よし、大丈夫。
自分に言い聞かせるように息を吐き、インターホンを押した。
ピンポーン。
心臓が跳ねる。
呼吸を整えて、もう一度。
ピンポーン。
……あれ?
反応がない。
一気に不安が膨らむ。
どういうこと……?
固まっていても仕方ない。
スーツケースを開け、震える指で鍵を探した。
「お邪魔します……」
自分の家なのに、声がよそよそしい。
玄関を上がる。
広い廊下は薄暗く、しんと静まり返っていた。
「え……」
もしかして――
本当に、誰もいない?
靴を脱ぐ音が、やけに大きく響く。
「あっちゃん! 俊兄! 隼人! 颯太!」
声は高い天井に吸い込まれていく。
返事は、ない。
「嘘でしょ……」
出迎えなんて期待してなかった。
それでも――ほんの少しだけ。
帰る場所であってほしかった。
胸の奥が、ちくりと痛む。
その時――
ガチャリ。
玄関のドアが開く音。
「あ……」
反射的に顔を上げる。
そこに立っていたのは――
「隼人……」
一瞬、目が合う。
わずかに、驚いたような表情。
でも次の瞬間には、何もなかったみたいに消えていた。
前より、背が伸びている。
暗めのアッシュの髪が、少し長くなっていた。
無駄のない肩のラインに、思わず目が止まる。
整いすぎた横顔が、やけに大人びて見えた。
見慣れていたはずなのに、どこか遠い。
胸の奥が、小さく跳ねる。
「……隼人。た、ただいま……」
思ったよりも弱い声だった。
「……ああ」
短い返事。
そのまま、隼人は私の横をすり抜けていく。
――ほんのわずかに、間があった。
視線が、私の顔をなぞる。
……確かめるみたいに。
次の瞬間には、もう逸らされていた。
ふわり、と香水のような匂いがかすめる。
知らない匂い。
前は、こんな匂いじゃなかった。
胸の奥が、ひり、と痛む。
「ちょっと――」
手を伸ばすと、隼人の足が止まる。
「……なに」
低い声が返ってくる。
振り返った目は静かで、冷たい。
――でも。
呼吸が、少しだけ浅い気がした。
「……っ」
何を言えばいいのか、分からない。
謝る?
笑う?
それとも、何もなかったみたいに振る舞う?
言葉は、全部喉の奥で絡まった。
隼人はそれ以上何も言わず、階段を上っていく。
二段ほど上ったところで、ほんの一瞬だけ足が止まった。
……でも、振り返ることはなかった。
背中が遠ざかる。
手を伸ばせば届きそうなのに、届かない距離。
『――りあを海外に連れていってほしい。もう、限界だ』
あの日の声が、胸の奥で蘇る。
震えていた声。
……ちゃんと、話せる日なんて来るのかな。
静まり返った廊下に、自分の鼓動だけが響く。
その時――
玄関のドアが、もう一度開いた。
「……ん? 誰か帰ってる?」
聞き慣れた、少し軽い調子の声。
「あ……」
振り向くと、
「――りあ!?」
弾けるような声が、廊下に響く。
そして次の瞬間――
「うわっ」
ぐい、と体を引き寄せられた。
気づけば、思いきり抱きしめられている。
「……っお前、ほんとにりあかよ」
喉の奥でくぐもるような笑い。
少し癖のある、ダークブラウンの髪が視界に入る。
「帰ってきたんだな」
耳元で、やさしく囁かれる。
「ただいま、あっちゃん」
敦兄は、昔と変わらない笑顔で、私の頭をくしゃりと撫でた。




