第4話 最初の夜
午後5時14分。
玄関扉の向こうから聞こえた引っ掻くような音は、一度きりだった。
それなのに、悠真には何度も繰り返される足音より不気味に思えた。扉一枚を隔てた向こう側に、昼間は地平線の近くにいたはずの巨大な生き物がいる。しかも偶然通りかかったのではなく、こちらの存在に気づき、家そのものを確かめるように触れている。
ハクは玄関から数メートル離れた場所で立ったまま、低く唸っていた。美月の腕の中ではノアが耳を伏せ、教授も鳥かごの止まり木から扉を凝視している。琴葉と蓮は悠真のすぐ後ろにいて、誰も動こうとはしなかった。
「ハク、まだいる?」
悠真が小声で尋ねると、ハクは鼻を動かしてから頷いた。
「いる。すぐそこ」
「こっちを狙ってる感じ?」
「分からない。でも匂いを嗅いでる。僕たちの匂いも、食べ物の匂いも混ざってると思う」
悠真はキッチンの方を見た。
つい先ほど、夕食のために昨日の夕飯の残りを冷蔵庫から出したところだった。密閉された家の中とはいえ、換気口や扉の隙間から匂いが漏れる可能性はある。あの生き物がどれほど嗅覚に優れているのかは分からないが、少なくともハクには外の匂いが分かるのだから、逆も十分あり得る。
「今日は肉やめよう」
悠真が言った。
美月と蓮が一瞬だけ残念そうな顔をしたものの、すぐに頷いた。
「俺もそう思う」
「私も」
「火も使わない方がいいかな」
琴葉が尋ねる。
「少なくとも、あれが離れるまでは待とう。匂いを増やしたくない」
夕食どころではなくなってしまった。
しかし、このままただ怯えているわけにもいかない。
悠真は玄関を見ながら頭の中で考えいた。一般的な住宅の玄関扉がどれほど頑丈なのか、シロクマなら壊せるのか、昼間見た巨大な生き物ならどうなのか。
わからないことばかりだった。
でもだからこそ、できることだけをやるしかない。
「琴葉、みんなをリビングの奥に集めてくれる?」
「お兄ちゃんは?」
「玄関の近くにある物を少し動かしたら俺も行くよ。一人では残らないから大丈夫」
琴葉は少し迷ったが、頷いた。
「絶対だよ」
「うん」
悠真は玄関へ近づきすぎないよう注意しながら、廊下に置いてあった姿見や傘立てを移動させた。もし扉が破られた場合、倒れて割れる物が近くにある方が危険だと思ったからだ。
そのとき、扉の向こうから鼻息のような音が聞こえた。
悠真の手が止まる。
ハクが低く言った。
「悠真、もう離れて」
「……うん」
本当は玄関扉の前にも家具等を置いて塞ぎたかったが、ハクの声には逆らわなかった。
悠真はすぐにリビングへ戻り、廊下とリビングを隔てる扉を閉めた。鍵はない。ただの室内扉なので防壁にはならないが、それでも玄関が直接見えなくなっただけで、美月の表情がわずかに和らいだ。
「蓮」
小声で蓮を呼ぶ。
「どうしたの?」
「ドアをの前にダイニングテーブルを運ぼう。静かにね」
「なるほど。おけ」
6人用のダイニングテーブルはそれなりの重さだ。
ゆっくりとドアの前に運び、7人はようやく少し安堵した。でももちろん、息は潜めたままである。
やがて外からまた足音がした。
雪を押し潰す重い音が、玄関前から家の側面へ移動していく。
一歩ごとに遠ざかるのではない。
家の周囲を回っている。
「裏に行ってる」
ハクが囁いた。
数秒後、リビングの窓の向こうで何かが動いた。
カーテンを閉めているため姿は見えない。ただ、外から入っていた僅かな夕方の光が一瞬遮られ、窓の向こう側を巨大な影が通過したことだけは分かった。
美月が悠真の服の袖を掴む。
悠真は何も言わず、その手に自分の手を重ねた。
「……大丈夫。見に行かなくていいからね」
悠真自身、気にはなったが今は見たいと思わなかった。
正体を知ることより、今は刺激しないことの方が重要だった。
もうしばらくして、窓の向こうから音がした。
ガリッ。
今度は玄関ではない。
外壁だった。
硬い爪のようなものが壁を擦ったあと、何かが押しつけられたのか、家そのものがほんの僅かに軋んだ。
「家って……こんな音出るんだ。初めて聞いた」
蓮が引きつった声で言う。
教授が答えた。
「通常、このような状況下自体が発生しませんからな」
「そりゃそうだけど」
ノアが美月の腕の中から顔だけ出した。
「教授、静かにして」
「承知しました」
この状況でも三匹が普段と完全には変わらないことが、妙にありがたかった。
それから十分ほど、巨大な生き物は家の周囲を歩き回った。
壁。
窓。
物置の方向。
そして再び玄関。
しかし、強く体当たりしてくることはなかった。
何かを探しているようにも、未知の物体である家を調べているようにも思える。ただの好奇心なのか。
そして午後5時38分。
「離れていく」
ハクが言った。
誰もすぐには喜ばなかった。
「本当に?」
琴葉が尋ねる。
「うん。でもまだ近い。かなり近い」
「じゃあ、まだこのままでいよう」
悠真は時計を確認した。
「最低一時間は外を確認するのもなし」
その判断に全員が従った。
この世界へ来てから半日も経っていないのに、彼らの中にはすでに一つの共通認識が生まれていた。
知らない世界では、好奇心より何より安全を優先する。
それが、この家の最初のルールになった。
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午後6時20分。
外は完全に暗くなっていた。
ハクによれば巨大な生き物の匂いはかなり遠ざかっているらしい。ようやく全員が少しだけ肩の力を抜き、遅れていた夕食を取ることになった。
冷蔵庫の中で傷みやすい物から使うという方針は変えない。ただし匂いが強くなる焼き料理は避け、昨日の残り物と冷蔵庫にあった作り置きを中心に食べることにした。
「電気止まってる冷蔵庫、何日くらい持つんだろ」
美月が言う。
琴葉は冷蔵庫の扉をすぐ閉めた。
「開ける回数を減らそう。中身もノートに書いたから、何があるか見るために開けるの禁止」
「そのうち冷蔵庫が要らないほど冷えそうだけど」
蓮が言う。
「嫌なこと言わないでよ!勝手に開けたら罰金だからね」
「お金もう使う場所ないじゃん」
「じゃあ皿洗い」
「水使うよ」
「あ」
一瞬の沈黙のあと、悠真が吹き出した。
「罰ゲーム考えるのも難しくなったね」
結局、罰則は「教授の鳥かご掃除」に決まった。
教授だけが強く抗議していた。
夕食はいつもより静かだったが、決して暗いものではなかった。食卓ではなくリビングのローテーブルを囲み、七人全員ができるだけ近くに集まる。ハクにはいつものフードを少し節約した量で与え、ノアにもキャットフード、教授には専用のペレットと少量の果物を用意した。
そこで琴葉が、動物たちの食料も改めて数えなければならないことに気づく。
「明日ちゃんと計算しよう。人間だけ30日もっても意味ないもん」
「僕のご飯、結構大きい袋あるよ」
ハクが言う。
「ノアは?」
「いっぱいある」
「具体的には?」
「知らない」
「教授は?」
「私も把握しておりません」
琴葉はため息をついた。
「明日の棚卸し第二弾ね」
悠真は笑った。
「やること増えたなあ」
けれど、その「明日やることがある」という感覚が、不思議と安心を与えてくれた。
明日がある前提で話をする。
それだけで、この世界に生活が生まれるのだ。
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午後7時5分。
琴葉が棚卸しノートの端に、今日消費した物を書き加えた。
飲料水は調理をしなかったこともあり、まだほとんど残っている。ただし4人と3匹が飲めば、確実に近いうちに足りなくなる。カセットボンベは雪を溶かす実験に使った一本をそのまま使用中で、残りの未使用品は五本。カイロはまだ一つも使っていなかった。
「今夜、カイロ使う?」
美月が尋ねる。
その問いに、全員が少し悩んだ。
三十個ある。
四人で使えば、一晩に四個。
単純計算なら七日程度しか持たない。
「今日はなしで試してみようか」
悠真が言った。
「寒くて眠れなかったら使おう。最初から使うんじゃなくて、本当に必要になった人だけ」
「私はハクでいいよ」
美月がハクに抱きつきながら言う。
「僕?」
「天然湯たんぽ」
「蹴らない?」
「蹴らない」
「怪しい」
「蓮!」
ハクはしばらく考えてから、美月の布団の横へ移動した。
「じゃあいいよ」
「やった」
ノアも当然のようにその布団へ入る。
蓮が抗議した。
「美月だけ装備豪華じゃん」
「日頃の行い」
「ノア貸して」
「嫌」
「姉ちゃんが言うなよ!」
ノアは毛布から顔を出した。
「嫌」
「即答か…」
また笑いが起きた。
昼間まで普通の住宅だったリビングには、4人分の布団と二つの寝袋が並び、窓には毛布が掛けられ、ソファの位置が少し変わっている。
見た目はひどいが、少し暖かい。
そして何より、全員が見える。
悠真はそれが一番いいと思った。
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午後8時18分。
室温は少しずつ下がっていた。
電池を節約するため、LEDランタンは一つだけ。スマートフォンも基本的に電源を切り、必要があるときだけ誰か一台を使うことにした。
テレビだけは例外だった。
電源がないにもかかわらず、黒い画面に白い数字を表示し続けている。
「どうせならドラマでもやってくくればいいのにー」
美月が文句が言う。
29:09:34:07
蓮がその数字を眺めていた。
「これさ」
「うん?」
悠真が返事をする。
「30日経ったら、次の場所行くんだよな」
「テレビが嘘じゃなければね」
「戻るってことはないの?」
「うーん、0では無いだろうけど楽観視はしない方がいいと思うな」
「次も雪だったりして」
「それは嫌!てかそれだと転送の意味よ」
美月が即答する。
「…1番はもちろん戻ることだけど、それが無理なら南の島がいいな。プライベートビーチ的な!水問題も解決!」
「海水は飲めませんぞ…」
教授が口を挟む。
「じゃあ綺麗な川がある南の島」
「また猛獣いるかもよ」
ノアが言う。
「虫もいるでしょうね」
「「虫は無理!」」
琴葉と蓮がすぐさま反応した。
「……やっぱり普通の住宅街がいいよう」
その時悠真はテレビを見ながら別のことを考えていた。
30日後にこの家がまた転送される。
画面には「本邸および接続構造物」と表示されていた。
つまり。
「琴葉」
「何?」
「接続構造物って、この家に何かくっつけたらそれも次に持っていけるってことかな」
琴葉もテレビを見る。
「接続構造物……?」
「例えば物置を家と繋いだら?」
蓮が身体を起こした。
「物置も一緒にワープする?」
「分からない。でも可能性はある」
「じゃあ家デカくできるじゃん」
その言葉で、全員の視線がテレビへ集まった。
普通の一軒家。
しかし30日ごとに違う世界へ行くなら、この家はただ住むだけでは足りない。
水を蓄えられるようにする。
発電できるようにする。
窓を守る。
物資を保管する場所を増やす。
安全に外へ出られる通路を作る。
世界が変わっても、それらを持っていけるのなら
「……育てられるのかも」
悠真が呟いた。
美月が首を傾げる。
「家を?」
「うん。この家をもっと安全にして、便利にして、それを次の世界にも持っていく」
蓮の目が少し輝いた。
「要塞みたいに?」
「そこまでできるか分からないけど」
「要塞にしようよ」
「急に楽しそうになったね」
琴葉が笑う。
「こういうの結構好き。秘密基地作るみたいな感覚」
教授が胸を張った。
「移動要塞邸宅ですな」
「名前ダサいわ」
ノアが言った。
「失敬な」
ほんの少しだけ、30日後が怖いだけのものではなくなったかもしれない。
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午後10時46分。
問題は、眠る直前に起きた。
ハクが突然顔を上げた。
悠真も気づいた。
「どうした?」
「外にいる」
その言葉だけで、リビングの空気が変わった。
「さっきの?また戻ってきたってこと?」
「違う」
ハクは耳を動かす。
「小さい。さっきのよりずっと小さい。でも……」
しばらく鼻を動かしたあと、ハクが続ける。
「いっぱいいる」
朝から言っていた匂い。
悠真はすぐに思い出した。
巨大生物とは別に、ハクが最初から感じていた複数の動物。
外から、かすかな音が聞こえ始めた。
雪を踏む。
一つではない。
複数いる。
それらは家の周囲を直接歩き回るのではなく、少し離れた場所を移動しているらしい。やがて一匹が低い声で鳴くと、離れた場所から別の声が返った。
「……オオカミ?」
琴葉が小声で言った。
ハクは首を傾げた。
「似てる。でも僕が知ってる匂いと少し違う」
悠真は窓へ近づかなかった。
「全員ここで寝よう。トイレ行くときも声かけて」
誰も反対しなかった。
その夜、4人は一つのリビングで眠った。
だが正確には、ほとんど眠れなかった。
風が壁を叩くたびに誰かが目を覚まし、遠くで動物が鳴くたびにハクが耳を立てる。ノアは美月の布団から一度も出ず、教授も普段なら夜中に物音へ文句を言うくせに、この夜だけは静かだった。
悠真も何度も目を覚ました。
そのたびに周囲を見る。
琴葉、美月、蓮、ハク、ノア、教授
全員いる。
それを確認すると、また目を閉じるのだった。
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午前6時12分。
最初の夜が終わった。
悠真が目を覚ましたとき、カーテンの隙間から薄い朝の光が入っていた。
昨日と同じ家。
昨日とは違う世界。
そして全員、生きている。
「……朝だ」
その声でハクが顔を上げた。
「おはよう」
「おはよう。何かいる?」
ハクはしばらく外の匂いを確認した。
「近くにはいないと思う」
悠真はそこでようやく息を吐いた。
その後、全員が起きてから2階へ上がり、今日初めて外を確認した。
シロクマはいない。
巨大生物も、オオカミらしき群れもいない。
代わりに、雪の上には大量の足跡が残っていた。
庭の外側を囲むように、いくつもの足跡が続いている。
そして玄関。
悠真たちは扉を開けず、室内側から状態を確認した。
幸い扉は壊れていない。
しかし、昨日聞こえた音の位置には、外側から何か硬いものを当てられたらしい僅かな歪みが生じていた。
「これ……もう一回来たら大丈夫かな」
美月が言う。
悠真はすぐには答えなかった。いや答えれられなかった。
大丈夫とはとても言いきれない。
だからといって、怖がらせる必要もない。
「直そう」
悠真は言った。
「それから、もっと強くしよう」
「どうやって?」
蓮が尋ねる。
「まず物置を見る。昨日行けなかったところ」
琴葉が窓の外を確認する。
「今日は行く?」
悠真は頷いた。
「うん。でも、服装をと持ち物を決めて、万一戻れなくなった場合まで考えてから行こう。それにハクが少しでも危ないって言ったら中止だ」
「俺も行く」
蓮が言った。
悠真は少し考える。
「よし。ただしお互い絶対に離れないこと」
「おっけー」
美月が手を挙げた。
「私は?」
「琴葉と家にいてほしい。俺たちが戻ったらすぐ入れられるように玄関担当お願い」
「……分かった」
不満そうではあったが、美月も頷いた。
ノアが悠真の足元へ来た。
「私は?」
「留守番です」
「狭いところ担当なのに」
「物置の中に入ってから必要だったら考えるよ」
「仕方ないわね」
教授が鳥かごから言った。
「私は当然、司令部でしょうな」
蓮が振り返る。
「という名の留守番な」
「言い方の問題です」
朝食の準備を始める。
その途中、悠真は2階の窓からもう一度庭を見た。
物置、わずか10メートル。
昨日までなら、サンダルでも行けた距離だ。
今日はそこへ行くために、命を守る準備が必要になる。
だが、そこまでしていく物置も、父と母が管理していたため、何が入っているかは何となくでしか覚えていなかった。
父の工具。
園芸用品。
脚立。
ロープ。
雪かき用のスコップ。
もしかすると灯油。
家を強化できる物が、何かあるかもしれない。
そして悠真は、物置よりさらに向こうへ視線を移した。
昨日の吹雪が止まり、遠くまで見えるようになっている。
そこで彼は、初めて気づいた。
雪原の彼方、白い丘のように見えていた場所から、何かが突き出している。
人工物だった。
赤と白の四角い看板の上端。
雪に半分以上埋まりながら、それでも確かに残っている。
悠真は双眼鏡を手に取り、倍率を合わせる。
看板に書かれた文字の一部が見えた。
――HOME――
悠真の心臓が跳ねた。
ホームセンター。
完全な形で残っているかは分からない。
どれほど離れているのかも、まだ分からない。
そして、なぜこんなところにあるのか。
自分達と同じく転送されたものなのか。
しかしそんな疑問以上に、もし店内に商品が残っているならといった期待の膨らみの方が遥かに大きかった。
木材、工具、水、食料、
発電機、燃料、防寒用品
挙げたら暇がないほどだ。
この家を、劇的に変えられるかもしれない。
「琴葉!ちょっと来て!」
悠真が呼んだ。
「どうしたの」
琴葉に双眼鏡を渡す。
琴葉は直ぐに覗き込んだ。
数秒後。
「……行きたい」
「うん」
「でも怖い」
「俺も」
二人は顔を見合わせた。
すぐには行けない。
行けるようにするためにも、まずは物置だ。
家の防御もしなければならない。
ホームセンターは希望だが、この世界では希望のある場所へ辿り着くまでの雪原そのものが危険なのだ。
テレビのカウントダウンは、今日も静かに進んでいる。
28:23:31:09
DAY 2
最初の目標は、庭にあるたった10メートル先の物置。
そしてその向こうには、この家を本当に要塞へ変えられるかもしれない希望の場所が、雪の中に眠っていた。




