第3話 家から出ないための作戦
午後12時24分。
遠くの雪原に見えていた黒い影は、もう岩と見間違えることのできるものではなくなっていた。
悠真は2階の男子部屋から双眼鏡を覗き込み、窓の向こうを慎重に観察していた。双眼鏡は父が旅行用に買った安物で、野鳥観察用の本格的なものではない。それでも肉眼では輪郭しか分からなかった影が、少なくとも「動いている生き物」であることだけは確認できた。
ただし、何なのかは分からない。
4本の脚で歩いているようにも見える。身体は黒に近い灰色で、雪原の上に異様なほど大きな輪郭を浮かび上がらせていた。距離がありすぎて正確な大きさは判断できないが、先ほど家の近くを通ったシロクマより小さいということだけは絶対になさそうだった。
「どう?」
後ろから琴葉が尋ねた。
悠真はしばらく答えず、影がこちらへ進んでいるのかを確認してから双眼鏡を下ろした。
「分からない。でも、たぶんこっち方面には来てる」
「家を狙ってる?」
「そこまでは分からないな。たまたま進行方向が同じだけかもしれないし」
悠真はそう言ってから、もう一度窓の外を見た。必要以上に怖がらせたくはなかったが、楽観もできなかった。もしあれが肉食動物なら、この家から漏れる食べ物の匂いや、ハクたちの匂いを感知する可能性だってある。
階下へ戻ると、ダイニングでは美月と蓮が待っていた。ハクは玄関付近で伏せ、ノアは階段の途中から外の音を聞いている。教授だけは鳥かごの止まり木に陣取り、いかにも会議に参加する準備が整っていますという顔をしていた。
「とりあえず現時点では近くまで来ていないけど、今日外に出ないのは変わらない」
悠真が言うと、反対する者はいなかった。
「物置は諦めるの?」
蓮が尋ねる。
「諦めるんじゃなくて、後回し。今すぐ必要な物は家の中にもあるから、正体不明のデカいやつが近づいてる状態で取りに行く必要はないと思う」
「では最重要問題は水の調達ですな」
教授が口を挟んだ。
「うん。だからまず、家の中に残ってる水を更に調べよう。それと、外へ出なくても雪を取れる方法がないかも考えたい」
琴葉が棚卸しノートを開いた。
飲料水は48L。それとは別に冷蔵庫やパントリーの牛乳、豆乳、お茶やジュースがある。しかしそれらを水分として数えたところで、4人と3匹が30日を過ごすには到底足りない。洗濯や料理にも水は必要だし、ハクは身体が大きいぶん飲む量も多い。
「給湯器とか配管の水って取れないのかな」
美月が言った。
「調べてみよう」
悠真はスマートフォンを手にしたものの、当然インターネットには繋がらない。幸い父が家の設備関係の説明書をまとめて保管していたことを琴葉が思い出し、リビング収納から分厚いファイルが発掘された。
それから一時間ほど、4人は家中の「水」を探した。
トイレのタンクには水が残っていたが、これは衛生用として温存することにした。給湯器については説明書を読みながら確認し、内部に残っている水を非常時に取り出せる可能性があることが分かった。ただし設備を壊してしまえば元に戻せないため、今すぐ手を付けるのではなく最後の予備として残す。
浴槽には、昨夜の風呂の残り湯が3/4ほどあった。
「お湯抜かなくてよかったわ……!」
琴葉が心底安堵した声を出した。
飲用には使わない。それでもトイレや洗浄用に使えるだけで、貴重な飲料水を生活用水へ回さずに済む。
悠真は浴槽の蓋を閉めながら、「母さんがいつも朝まで残しておく派でよかったね」と笑った。こんな状況なのに、母親のちょっとした習慣に助けられている。そのことが妙に可笑しく、同時に少しだけ寂しかった。
海外にいる父と母は、今頃どうしているのだろう。
この家が消えたことに気づいているのだろうか。
今ここにいてくれたらどれほど心強いか。
悠真は考えかけて、やめた。
今は、ここにいる家族を守ることだけ考えればいい。
いつか絶対また会える。そう信じている。
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午後2時。
次に始まったのは「家から出ずに雪を取る方法会議」だった。
「はい。2階の窓からバケツを下ろす」
蓮が最初に提案した。
「雪まで届かないでしょ」
琴葉が即座に却下する。
「ロープ長くすれば?」
「真下は庭じゃなくて1階の屋根があるよ」
「じゃあ1階の窓から」
「窓を開けた瞬間めちゃくちゃ寒くなる」
「結局全部ダメじゃーん」
蓮が椅子へ沈む。
美月はしばらく考えてから、庭に面した掃き出し窓を指差した。
「ここから棒を伸ばして雪取れない?」
全員が窓を見る。
敷地内にも雪は吹き込んでおり、庭の端には薄く積もり始めている。ただ、窓のすぐ前はウッドデッキになっているため、室内から手が届く範囲にはほとんど雪がない。
「長い棒……」
悠真が呟いた。
「物干し竿は?」
琴葉が言った。
数分後。
家の中から、伸縮式の物干し竿、洗濯かご、ガムテープ、結束バンド、古いタオルが集められた。
「まさか物干し竿がサバイバル用品になるとは」
美月が感心する。
教授が羽を整えながら答えた。
「文明とは本来、用途を限定して使うものではありません」
「教授、なんか今日ずっと賢そうなこと言ってない?」
「賢そうなではありません。私は常に賢いのです」
「昨日ティッシュ箱に頭突っ込んで抜けなくなってたじゃん」
「過去を蒸し返すのは感心しませんな」
悠真が笑いながら、物干し竿の先端へ小さめのプラスチックかごを固定していく。
即席の「雪取り棒」だった。
見た目は頼りない。
しかし窓を数十センチ開け、そこから竿だけを外へ伸ばせば、人間が庭へ出る必要はない。
「やってみようか」
「待って」
ハクが立ち上がった。
「その前に外、確認するよ」
ハクは掃き出し窓へ近づき、しばらく鼻を動かした。
「近くに熊はいないと思う。でも、朝の匂いは残ってる」
「じゃあ窓は少しだけ。ハクも離れてて」
「分かった」
悠真は全員を窓から離れさせ、琴葉にカーテンを持ってもらった。窓の鍵を外して数センチ開けた瞬間、冷気が刃物のように室内へ流れ込んできた。
「うわっ……!」
美月が思わず声を上げる。
寒いというより痛い。
悠真は慌てず竿を外へ伸ばし、庭の雪が積もっている場所まで先端を運んだ。かごを伏せるように押し込み、そのまま雪を掬い上げる。
1回目、空。
「案外難しいな」
2回目、ほんの少し。
3回目、ようやく、かご半分ほどの雪が取れた。
「入った!」
蓮が喜ぶ。
悠真は竿を引き戻し、窓を閉めた。
時間にしてわずか1分程度しか開けていなかったのに、窓際の空気は明らかに冷えている。
かごの雪を鍋へ移す。
「これ溶かしたらどれくらい?」
美月が期待する。
教授が鍋を覗いた。
「雪は見た目ほど水になりませんぞ」
実際、カセットコンロで加熱してみると、鍋いっぱいに見えた雪は驚くほど少量の水にしかならなかった。
「……え、これだけ?」
蓮が落胆する。
悠真は苦笑した。
「でもゼロじゃないよ」
琴葉も頷く。
「何回も取ればいいのよ。それに今は練習だからね」
最重要課題が少しだけ前進した。
完全ではないし効率も悪い。
カセットボンベも消費する。
それでも、「外に出なければ水を得られない」という状態からは一歩進んだのだ。
そして、この小さな成功が4人の考え方を変えた。
今ある物を、本来の用途だけで考える必要はない。
この家そのものを、環境に合わせて変えていけばいい。
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午後3時40分。
最初の拠点改造が始まった。
目的は防寒だった。
電気が止まったため、家全体を暖めることはできない。それなら逆に、生活する場所を小さくすればいい。
「夜は全員リビングで寝ない?」
琴葉が提案した。
悠真はすぐに意味を理解する。
「2階を使わないで、暖める範囲を一階だけにするってこと?」
「そう。基本的にリビングとダイニングだけにするの」
廊下へ繋がる扉を閉め、使っていない部屋への出入りを最低限にする。窓にはカーテンだけでなく、両親の寝室から持ってきた毛布やアルミブランケットを追加した。
床には2階から運んだ布団を敷き、その下へラグや使っていない毛布を重ねる。
ソファ、クッション、寝袋、掛け布団、毛布、ブランケット、ダウン。
暖を取れそうなものは次々に置かれていき、
気づけば、普段はそれなりに広く感じていたリビングが巨大な寝床のようになっていた。
「こたつがあれば最強だったのになー」蓮が少し落胆したように呟いた。
「完全同意だけど、いかんせん電気がないからなあ。でもこたつ用の毛布は結構温かいぞ」
「なんか修学旅行みたい〜」
美月が布団へ転がる。
「修学旅行かあ。懐かしいわ」
「僕、ここ」
ハクが一番厚いラグを選ぶ。
「早い者勝ち」
ノアはすでにソファの毛布へ潜っていた。
「お前ら適応早くない?」
蓮が呆れる。
教授の鳥かごも、窓際からリビング中央へ移された。
「暖房はないけど、全員ここにいれば多少は暖かいかな」
悠真が言う。
「でも夜はもっと冷えると思う」
それに対して琴葉が暗めの表情で答えた。
「カイロもあるけど、30個しかないから毎日は使えないしね」
「お姉ちゃん湯たんぽ持ってなかったっけ?バナナみたいなぬいぐるみのやつ」
「ハシビロコウね。でも中身のお湯を用意するのに燃料がいるからなあ」
「姉ちゃん今どき湯たんぽなんか持ってんの?」
「あら、結構使い勝手いいのよ?可愛いのもたくさん売ってるし!」
「バナナ?」
「ハシビロコウ」
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「寝袋2つはどうするの?2人ずつ入るかな?」
美月が言う。
「流石に無理でしょ」
「ハク入れたら暖かそう」
「僕?」
ハクが顔を上げる。
悠真は笑った。
「ハクはこれから人気者になりそうだね」
「僕、寝てるとき蹴られるの嫌だよ」
「じゃあ蓮の隣は避けよう」
「イメージで決めるな。俺は寝相がいい」
全員が笑った。
ほんの数時間前まで、家の外に住宅街があった。
コンビニへ行けば何でも買えた。
寒ければエアコンを点ければよかった。
蛇口をひねれば水が出た。
そんな当たり前が全部なくなったのに、彼らはもう、この異常な環境の中で生活する方法を考え始めている。笑えている
悠真は少しだけ安心した。
みんなは思っていたより強い。
そして自分も、ひとりで全部背負う必要はないのかもしれない。
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午後4時26分。
外の光が少しずつ弱くなってきた。
悠真は二階へ上がり、もう一度双眼鏡を手に取った。
巨大な影を確認するためだった。
窓辺へ近づく。
双眼鏡を覗く。
「……あれ?」
いない。
昼にいた場所には、何もなかった。
悠真は左右へ視線を動かす。
白い雪原。
岩。
雪。
そして――見つけた。
「……嘘だろ」
影は、想像していたより遥かに近くへ移動していた。
輪郭が少し分かる。
四足歩行。
巨大な肩。
異様に太い前脚。
全身を覆う灰色の毛。
しかし悠真が知っている熊とは、身体の比率が違う。
そして何より、その生き物は、家の方向を向いていた。
悠真が双眼鏡を下ろした瞬間、階下からハクの吠える声が響いた。
「悠真!」
普段のハクなら出さないほど切迫した声だった。
悠真は階段を駆け下りた。
「どうした?」
ハクは玄関へ向かって唸っている。
「匂いが強くなった」
琴葉が顔を上げる。
「どれくらい近いか分かる?」
「分からない。でも昼よりはずっと近い」
ノアも尻尾を膨らませていた。
教授は鳥かごの中で羽を身体へ密着させている。
悠真は時計を見た。
日没まで、それほど時間はない。
「窓、全部確認しよう。カーテン閉めて、食べ物も窓から離して。玄関は絶対開けない」
蓮が立ち上がる。
「俺、2階やってくる」
「1人で行かなくていいよ。一緒に行こう」
「でも1階は?」
「琴葉たちとハクがいるから大丈夫。分担した方が早い」
2人は階段を上がった。
男子部屋、女子部屋、両親の寝室。
すべての窓を施錠し、カーテンを閉める。
最後に悠真は、両親の寝室の窓からほんの少しだけ外を確認したが、何も見えなかった。
さっきまで影がいた方向も、吹雪き始めた雪に覆われている。
視界が急激に悪くなっていた。
それは良いことなのか。
悪いことなのか。
今はまだ分からない。
そのとき、庭の向こうから、低い音が響いた。
――ォォォォォ……。
風ではなかった。
長く、腹の底へ響くような声。
悠真と蓮が同時に動きを止める。
「……兄ちゃん」
いつもはお調子者の蓮も、さすがに声が小さく不安そうだ。
悠真は弟の肩へ手を置いた。
「大丈夫。下へ行こう」
二人が階段を降りると、琴葉たちも聞いていたらしい。
美月はハクの横に座り、ノアを抱いている。
「今の……何?」
「分からない」
悠真は正直に答えた。
「とりあえずみんなで家の中で固まっていよう。今はそれでいい」
外では風が強くなっていた。
やがて窓の向こうは完全な白に包まれ、数m先さえ見えなくなる。
家の中では7つの命が、一つのリビングへ集まっていた。
飲料水、食料、生活用品、キャンプ用品、
そして、普通の木造住宅。
今持っているものは、この環境下で生き延びるには心許ない。
それでも悠真には、この家が急に頼もしく思えた。
壁一枚の向こうに何がいようと、今は家族全員ここにいる。
「今日はここで夕飯食べようか」
悠真が言った。
琴葉が顔を上げる。
「何食べる?」
「冷蔵庫の物から使わないとね」
美月が立ち上がった。
「じゃあ肉と野菜!悪くなる前にいっぱい使っちゃおう!」
「豪華じゃん」
蓮の表情が少し戻る。
「初日くらいいいっしょー!」
「でも昨日の夕飯の残りを消費するのが最優先じゃない?」琴葉。
「「そんなー!」」美月と蓮落胆。
悠真が笑った。
「教授は?」
「果物を所望します」
「ノアは?」
「魚」
「ハクは?」
「僕は肉!」
「分かりやすいなあ」
夕食の話をしている間は、少しだけいつもの家に戻った気がした。
しかし、午後5時14分。
琴葉がキッチンから肉を取り出した、その瞬間だった。
ハクが勢いよく立ち上がった。
「待って」
全員が止まる。
ハクは玄関を見ていた。
鼻を動かす。
一度、
二度。
そして悠真を見る。
「……いる」
「どこ?」
ハクは答えるまで数秒かかった。
「家の前」
誰も喋らなかった。
吹雪の音だけが家を包む。
やがて、その音に混じって――別の音がした。
玄関の外。
雪を踏む音。
それは朝のシロクマよりも、ずっと重かった。
一歩。
また一歩。
そして、玄関扉の向こう側で、音が止まった。
ノアが美月の腕の中で固まる。?な
教授も一言も発しない。
悠真は弟妹を自分より後ろへ下げながら、玄関を見つめた。
ドアノブは動かない。
扉も揺れない。
何も起きない。
10秒。
20秒。
30秒。
たったそれだけの時間がやけに長く感じられた。
ハクが小さな声で言う。
「……匂いを嗅いでる」
悠真たちの背筋に冷たいものが走った。
外の生き物は、偶然ここを通ったのではない。
この家を調べてにきた?
次の瞬間、玄関扉の下から聞こえていた風の音が消えた。
何か巨大なものが、扉のすぐ前へ身体を寄せたのだ。
そして外側から――。
ガリ……。
硬いものが、玄関扉をゆっくり引っ掻いた。
一度だけ。
それ以上は何もしない。
だが、その一度で十分だった。
悠真はようやく理解した。
彼らが最初にすべきことは、雪を取る道具作りでも、もちろん夕食作りでもない。
この普通の家を、この世界の夜に耐えられる家へ変えなければならない。
テレビの数字は静かに減り続けていた。
29:14:46:31
最初の夜まで、あとわずか。
そして玄関の向こうには、まだ何かがいる。




