第5話 10mの遠征
DAY 2、午前7時42分。
朝食を終えたダイニングテーブルには、食器の代わりに家中から集められた防寒具と道具が並んでいた。目的地は庭の物置。玄関から直線距離なら十メートルほどしかなく、昨日までならゴミを出しに行くより短い距離だったが、今ではその十メートルの途中に何が現れるか分からない。
悠真と蓮は父親の厚手のダウンジャケットを借り、その下にもセーターやフリースを重ねた。手袋は二重、靴下も二枚。蓮は首元にマフラーを巻きながら「これ絶対動きにくいやつ」とぼやいていたが、悠真は笑って「動きやすさより凍らない方が大事だから」と返した。
問題は足元だった。2人とも雪国用の本格的なブーツなど持っていなかったため、家にあった中で最も防水性の高そうな靴を選び、その上から裾をテープで軽く固定する。長時間の雪原探索には到底使えない装備だが、今回は物置まで往復するだけだ。
琴葉はノートを片手に、二人の装備を確認していた。
「スマホは?」
「持った。電源は切ってある」
「懐中電灯」
「1本ある」
「家の鍵」
「持った」
「何かいたらすぐ戻ってきて」
「もちろん。すぐ戻る」
「よし」
美月は玄関近くで待機しながら、悠真のダウンの袖を引いた。
「絶対、物置にこだわらないでね」
「うん。危なそうなら何も取らず戻るよ」
「蓮も」
「分かってるって」
「お兄ちゃんから離れない」
「はいはい」
「返事が軽い」
「はい!」
悠真が笑いながら蓮の肩を軽く叩いた。
「俺も蓮から離れないから大丈夫」
ハクはそのやり取りを聞きながら玄関の前に立ち、何度も鼻を動かしていた。外へ出る二人以上に、ハクの判断が重要になる。しばらくして彼は耳を立てたまま振り返った。
「今は近くに大きい匂いはないよ。昨日の群れの匂いは残ってるけど、新しく近づいてきてる感じもしない」
「どのくらいまで分かる?」
悠真が尋ねると、ハクは少し考えた。
「風で変わるから絶対じゃない。だから僕が大丈夫って言っても、本当に何もいないとは思わないで」
「分かった。ありがとう」
教授が鳥かごから首を伸ばした。
「つまり現代技術で言えば、高性能だが誤差のある生体センサーということですな」
「僕、犬なんだけど」
「存じております」
ノアが欠伸をしながら口を挟んだ。
「教授は難しく言いたいだけ」
「知性とは往々にして理解されぬものです」
「はいはい」
悠真はそんな3匹を見て少し笑ったあと、玄関扉へ手を掛けた。
初めて、この世界へ出る。
それを意識した途端、10mという距離がひどく遠く感じられた。
「行ってくるね」
「気をつけて」
琴葉の声を背中に受け、悠真はゆっくり扉を開いた。
冷気が一気に入り込んできた。
昨日、雪取り棒を使ったときにも感じた寒さだったが、全身で浴びるとまるで違う。鼻から吸った空気が喉の奥を刺し、露出している頬が数秒で痛くなる。悠真は思わず息を止めそうになりながら外へ踏み出し、続いて蓮が出ると、美月がすぐ玄関扉を閉めた。
家の中の音が消えた。
代わりに聞こえてくるのは風だけだった。
「……やば」
蓮の声がマフラー越しにくぐもる。
「寒い?」
「寒いっていうか痛い」
「同じ」
二人は笑えなかった。
玄関前の雪には、昨日の巨大生物が残した痕跡があった。悠真の靴より遥かに大きな窪みがいくつも続き、その一つは玄関扉のすぐ近くに残っている。雪が崩れて形は曖昧になっていたが、少なくとも人間の手のひらを軽く超える幅があった。
蓮がそれを見て黙った。
悠真も立ち止まりそうになったが、長居する方が危険だと思い直した。
「行こう。今は物置だけに集中しよう」
「うん」
10メートル。
一歩。
二歩。
積雪の浅い庭側を選んで進む。家の敷地内には昨日までの地面がそのまま残っているらしく、雪原ほど深く積もってはいない。それでも吹き込んだ雪が靴の周囲へまとわりつき、普段の倍以上歩きにくかった。
半分まで来たところで、悠真が一度止まった。
周囲を見る。
白い。
あまりにも白い。
家の裏側には昨日まで隣家があったはずなのに、今は何もない。庭のフェンスの向こうからそのまま雪原が続き、遠くの地形まで遮る物が一つもなかった。
だからこそ、怖かった。
隠れる場所がない。
もし今、遠くからシロクマが走ってきたら、家に戻るのは間に合うのだろうか。
「兄ちゃん」
蓮が小声で呼んだ。
「うん?」
「早く行こう」
悠真は弟の表情を見て頷いた。
「そうだね」
2人は残りの距離を進み、物置へ到着した。
鍵は掛かっていない。
父親が普段から園芸用品や工具を入れていた市販のスチール物置で、2人が並んで入れば少し狭い程度の大きさだった。
悠真は一度家を見る。
リビングの窓からハクの顔が見えた。
まだ警告はない。
「開けるよ」
物置の扉を引いた。
凍りついているのか、最初は動かなかった。
2人で力を掛ける。
ガッ、と音を立てて扉が開いた。
「うわ……」
蓮が中を見て声を漏らした。
少し埃っぽい匂いだ。
でも思ったよりものが、ある。
壁には父親が使っていたスコップや園芸道具が掛かり、棚には工具箱、ロープ、ビニールシート、バケツ、折り畳みコンテナ、ガムテープ、養生テープ、結束バンドなどが並んでいた。奥には脚立が立て掛けられ、その隣には使いかけの木材まで残っている。
悠真はスマートフォンの電源を入れ、写真だけ撮った。
「全部持って帰るのは無理だから、まず何があるか記録しよう」
「工具箱は絶対いるよな」
「うん。あとスコップ」
「ブルーシートも?」
「欲しい」
「ロープ」
「欲しい」
「欲しくないものがないな」
「そうなんだよね」
二人は顔を見合わせた。
昨日までならガラクタ同然のような物が、今では宝の山だった。
蓮が棚の下段を覗く。
「兄ちゃん、これ」
「何?」
「灯油缶」
悠真の表情が変わった。
赤いポリタンクが二つ。
一つは空だったが、もう一つを持ち上げると明らかに重い。
「入ってる」
「ストーブあったっけ?」
「家の中にはなかったと思う。でも……」
悠真は物置のさらに奥を見る。
そこに、布を被せられた四角い物があった。
2人で布を取る。
古い石油ストーブ。
蓮が目を見開いた。
「神?」
「父さんだよ」
「父さんナイスすぎ」
実家では何年も使われていないものだった。電気を必要としないタイプに見えるが、正常に動く保証はない。灯油もいつ入れたものなのか分からないため、そのまま使うのは怖い。
それでも「暖房になるかもしれない物」が見つかったことは嬉しかった。
「帰ってから説明書探そう」
「持ってく?」
悠真は迷った。
ストーブ。
工具箱。
スコップ。
ブルーシート。
どれも欲しい。
だが、一度に運べば動きが遅くなる。
「今日は工具箱とスコップだけにしよう。他は次来た時だ」
「灯油は?」
「重いし、次かな」
蓮は少し残念そうだったが頷いた。
そのとき。
家の方から音がした。
ドン、ドン、ドン。
窓を叩く音。
悠真が振り返る。
リビングの窓の向こうで、美月が大きく腕を振っていた。
その隣にハクがいる。
悠真の背筋が冷えた。
「蓮、戻るよ」
「何か来た?」
「分からない。持てる物だけ持っていこう」
悠真は工具箱を掴み、蓮はスコップを持った。物置の扉を閉める時間すら惜しく感じたが、雪が入り込めば中の物が使えなくなる可能性がある。悠真は扉を引き、完全に閉まったことだけ確認して家へ向かった。
走りたいくて仕方がなかったが我慢せず走らずに歩く。
雪の上で転ぶ方が危険だ。
ただ可能な限り速く歩く。
玄関まで、8m、6m、4m、
そのとき、蓮が突然止まった。
「兄ちゃん」
声が震えていた。
悠真は弟の視線を追った。
庭のフェンスの向こう。
雪原のかなり離れた場所に、何かがいた。
一匹ではない。
灰色の影が5つ、いや6つ。
犬に似ているが大きい。
大型犬のハクと同じくらいか、それ以上あるように見えた。やはり狼なのか。
「見るな。家入ろう」
悠真は蓮の肩へ手を置いた。
2人が玄関へ近づくと、内側からすぐ扉が開いた。
「早く!」
琴葉だった。
その言葉で2人が家の中へ飛び込む。
それと同時に素早く扉を閉め、鍵とチェーンをかけた。
美月がカーテンを閉める。
悠真は工具箱を床へ置き、その場に座り込んだ。
「……ただいま」
琴葉がしゃがみ込む。
「おかえり」
その一言だけで十分だった。
蓮も床へ座り、マフラーを外しながら大きく息を吐いた。
「10m、遠すぎ」
「ほんとだね」
悠真は笑った。
わずか数分の外出だった。
それなのに、身体中の力が抜けていた。
ハクは窓から離れず、外の匂いを確認している。
「昨日の群れ」
「やっぱり?」
「うん。でもまだこっちには来てない」
「俺らに気づいてる?」
蓮が尋ねる。
ハクは少し考えた。
「分からない。でも、風向きが変わったら匂いは届くと思う」
悠真はすぐに答えた。
「じゃあ今日はもう外には出ない」
「ストーブは?」
蓮が言う。
「明日でいい」
「でも寒いよ」
「うん。でもまだ危険な寒さじゃないし、今の状況でわざわざ取りに行くのはやめよう。機を待つんだ」
蓮は数秒黙ったあと、頷いた。
「……了解」
悠真は弟の濡れた肩の雪を払いながら笑った。
「物置の場所は逃げないからね」
「…こんな意味わかんない世界、物置が逃げ出しても驚かないかも」
「確かにな」
美月が吹き出した。
緊張していた琴葉まで笑い、教授も「自走式物置とは興味深い」と余計なことを言っていた。
ノアだけが暖かい毛布の上から悠真と蓮を見ていた。
「寒そう」
「寒かったよ」
「極限まで寒いと痛いということを知った」
「私は行かなくてよかった」
「正解だよ」
「知ってる」
初めての遠征(10m)は、結果的には成功だった。
工具箱に雪かき用のスコップ。
そして物置の中に、まだ大量の資材があることが分かった。
何より大きかったのは、灯油と石油ストーブだった。
その代わりにこの世界では、庭さえ安全地帯ではないこのを改めて実感させられたのだった。
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午前9時30分。
工具箱の中身をダイニングテーブルへ広げると、父親が思った以上に道具を揃えていたことが分かった。金槌、ドライバー各種、ペンチ、ニッパー、モンキーレンチ、メジャー、小型ノコギリ、六角レンチ、釘、ネジ。電動ドライバーも入っていたが、充電式なので残量がなくなれば終わりだった。
「これで玄関強くできる?」
美月が尋ねる。
悠真は玄関を見ながら答えた。
「できる範囲では」
昨夜、巨大生物に触れられた扉。
壊れてはいないが、次回もそうとは限らない。
「家の中にある家具、使えないかな」
琴葉が言った。
「家具?」
「玄関を完全に塞ぐんじゃなくて、夜だけ内側から補強するの。靴箱とか、そのままじゃ重すぎるけど」
悠真は少し考えた。
「突っ張る感じ?」
「そう。扉が内側に開くなら、何かで押さえられないかなって」
蓮が工具箱からメジャーを取った。
「測ろうぜ」
4人は玄関へ移動した。
扉の幅、廊下の幅、壁までの距離、家具の高さ。
家にある物だけで、扉そのものを強化できないか考える。
最終的に目を付けたのは、使っていなかった頑丈なダイニングベンチと、物置で見つけた木材だった。
もちろん、まだ木材は外にある。
だから今日完成することはない。
「これ、物置と家を安全に繋げられたら楽なのに」
美月が何気なく言った。
悠真が顔を上げた。
「繋げる?」
「だって毎回あの10m走るの怖いじゃん。屋根と壁がある通路みたいなので繋げたらなって」
蓮も振り返った。
「それ作ったら物置も家と接続扱いになるんじゃね?」
全員がテレビを見る。
:
《次回転送時、本邸および接続構造物を転送対象とします》
悠真はゆっくり頷いた。
「……ありかも」
琴葉がノートを開く。
「でも10mの通路を作る材料なんて、家にはないよ」
「今はね」
蓮が窓の向こうを見る。
遠くに、雪から突き出したホームセンターの看板がある。
「向こうにはある」
誰もすぐには返事をしなかった。
ホームセンター。
あそこまで行ければ、木材も断熱材も金具も手に入るかもしれない。今後必要なものが何だって残っている可能性がある。
しかし今日、たった10mの往復で群れに遭遇した。
ホームセンターは、その何十倍も遠い。
「すぐにな行かないよ」
悠真が言った。
蓮が振り返る。
「分かってる。でもいつかは行くでしょ?」
「うん」
悠真も窓を見る。
「行けるようにする」
無謀に挑むのではない。
行ける条件を一つずつ作る。
それが悠真のやり方だった。
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午前11時15分。
物資の棚卸し第二弾が始まった。
今回は3匹の食料が中心だった。ハクのドッグフードは開封済みの大袋に加え、未開封の袋が一つ。ノアのキャットフードもストックがあり、教授のペレットも未開封品が残っていた。
琴葉がそれぞれの量を確認し、普段の1日分から大まかな日数を計算する。
結果。
ハクは約26日分。
ノアは約35日分。
教授は40日以上。
「僕だけ30日に届いてない」
ハクが悲しそうに言った。
「人間の食べ物で補える物もあるから大丈夫だよ」
悠真が頭を撫でる。
「でもハクの分を優先確保するのも目標に追加だね」
「ありがとう」
「私は余裕」
ノアが言う。
教授も胸を張った。
「私も備蓄優等生ですな」
蓮が呆れた顔をする。
「お前ら自分で買ってないだろ」
「飼い主の管理能力もペットの実力に含まれます」
「含まれねえよ」
琴葉は笑いながら、棚卸しノートに新しい項目を書き加えた。
《ハクの食料:要追加確保》
人間だけではない。
この家では3匹ももちろん家族だった。
だから一匹でも足りないなら、それは「食料が足りない」ということになる。
そして次に琴葉は、飲料水の欄を確認した。
昨日から確実に減っている。
節約しているとはいえ、水を飲まないわけにはいかない。外には文字通り無限に近い量の雪があるが、それを安全な水に変えるには回収し、溶かし、必要なら煮沸するための燃料が要る。
カセットボンベは未使用5本。
この数字も、減れば戻らない。
「ストーブ見つかったけど、灯油も有限なんだよね」
美月が言った。
「うん」
琴葉が答える。
「暖かくなったからってずっと使うわけにはいかないと思う」
「全部、残量を気にしないとなんだよなー」
蓮が呟いた。
何を使っても減る。
この世界へ来る前なら、なくなれば買えばよかった。
今は違う。
遠くにホームセンターは見えている。
けれど、そこへ行けば買えるわけではない。
辿り着き、生きて戻って初めて手に入る。
悠真は棚卸しノートを見ながら、ようやくこの世界での「物の価値」が分かり始めていた。
1本のカセットボンベ。
1リットルの水。
1枚の毛布。
1つのネジ。
どれも、もうただの日用品ではない。
自分たちの命を繋ぐものになるのだ。
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午後1時40分。
昼食を終えたころ、ハクが窓の方へ歩いていった。
悠真が気づく。
「どうした?」
「群れ、いなくなったと思う」
「本当?」
「匂いは残ってる。でも離れた」
蓮が立ち上がりかけた。
「じゃあストーブ――」
「待って」
悠真が止める。
「行くならもう一回ちゃんと準備してから」
「またあの装備?」
「もちろん」
「めんどくさい世界になったなほんと」
「嫌なら俺一人で――」
悠真は言いかけて止まった。
昨日、自分で決めた。
ひとりでは行かない。
「……いや、ひとりでは行かせない。俺も面倒だけど着るよ」
蓮も同じ考えだった。琴葉が微笑んだ。
結局、午後2時に第二次物置遠征を行うことになった。
今度は悠真と琴葉。
「かっこつけてたけど結局留守番だね」
「美月うるさい」
蓮は少し不満そうだったが、午前中に外へ出ているため休ませることにしたのだ。
目的は明確だった。
石油ストーブ、灯油、ブルーシート、
ロープに木材、可能なら脚立。
でも欲張らない。
持てる分だけ。
何より、安全第一。
午後2時3分。
ハクの確認を受け、二人は外へ出た。
午前より風が弱い。
雪原は静かだった。
物置までの10メートルを進み、扉を開ける。
琴葉は中を見るなり目を輝かせた。
「ほんとに宝庫じゃん」
「でしょ」
「お父さん、何でこんなに色々持ってるの」
「父さん休日にホームセンター行くの好きだったからなー」
「それが今になって……」
琴葉は棚を確認する。
そして、悠真が午前中には気づかなかった物を見つけた。
「お兄ちゃん」
「何?」
「これ」
棚の奥に折り畳まれた銀色のシートがあった。
悠真が取り出す。
パッケージには、簡易的な説明が残っていた。
断熱用・厚手シート
窓や床にも使える。
二人は顔を見合わせた。
「持って帰ろう」
「最優先!」
さらに奥から、防水性のある厚手の作業用手袋、保護ゴーグル、ヘッドライトまで見つかった。
「ホームセンター行く前に、まずここ全部調べた方がいいわね」
「俺もそう思ってた」
「昨日までただの物置だったのに」
「今はうちの宝庫だね」
この宝庫(物置)、今はまだ家とは別の建物だ。
30日後、もし転送対象が本当に「本邸および接続構造物」だけなら、この物置は置いていかれる可能性がある。
「……やっぱり繋げたいな」
悠真が呟く。
琴葉も意味を理解した。
「この物置?」
「うん。中身だけ家に移すこともできるけど、物置そのものが持っていけたらずっと使える」
「10メートルの通路付きで?」
「そう」
二人は物置の入口から家を見る。
普通の二階建て住宅。
その横に、小さな物置。
間にある10メートルの庭。
今はただ離れている。
でもいつか、そこに壁と屋根のある通路ができたら、外へ出ずに物置へ行ける。
もし例のホームセンターに行けたらできる限りの物資を補充したいし、保管場所はより大事になる。
「最初の増築はこれかな」
琴葉が言った。
悠真は笑った。
「まだ材料ないけどね」
その瞬間だった。
物置の外で、雪が鳴った。
二人とも黙った。
風ではない。
近い。
悠真は琴葉へ目を向ける。
声を出さず、入口から離れるよう手で示した。
もう一度、
ぎゅっっと雪を踏む音がした。
物置のすぐ外ではない。
しかし、家との間に何かがいる可能性がある。
琴葉が小さな声で尋ねた。
「ハク、鳴いてた?」
「聞こえなかった」
家の窓はここから見える。
しかしハクの姿がない。
悠真は物置の扉を数センチだけ残して閉め、隙間から外を確認した。
白い庭に家、他には何もいない。
そう思った。
次の瞬間、敷地の端を何かが横切った。
午前中に見た群れの一匹だった。
家へ向かってはいない。
こちらにも気づいていないらしい。
しかし問題は、その後だった。
もう一匹、さらに一匹。
灰色の獣たちが、庭の外側を次々と横切っていく。
悠真は息を殺した。
琴葉も動かない。
全部で七匹。
最後の一匹が通過する。
そのまま遠ざかるかと思った。
だが最後尾の個体だけが、途中で足を止めた。
頭が動く。
鼻先が持ち上がる。
匂いを嗅いでいる。
悠真の手が、ゆっくり物置の扉へ伸びた。
数センチだけ開けていた扉を、音を立てないよう閉める。
気づかれぬよう、静かにゆっくり閉める。
残り5cm、その時、外から低い唸り声が聞こえた。
気づかれた。
琴葉が悠真を見る。
悠真は震えそうになる手を押さえながら、扉を閉じ切った。
薄いスチールの扉一枚。
家までは10m。
そしてその10mの途中に、野生の獣がいる。
悠真は声を潜めた。
「琴葉」
「うん」
「ひとまずここでやり過ごそう」
「分かったわ」
二人は物置の奥へ下がった。
外では雪を踏む音が、一歩ずつ近づいてくる。
家の中では、その頃ようやくハクが異変に気づいていた。
「蓮」
ハクが立ち上がる。
「何?」
「戻ってきてる」
「誰が?」
ハクは窓へ駆け寄った。
「朝の群れ」
蓮の表情が変わる。
美月も立ち上がった。
「お兄ちゃんたちは?」
誰も答えられない。
庭の物置はわずか10m先の距離だ。
しかし今、その10mは世界で一番遠い場所になっていた。




