波乱はつきもの 前編
次の日、リチャードはずっとあの羽ばたき音がなんだったのか気になっていた。
そしてもう一つ、ドラゴンを取り逃してしまったのかもしれないというほんのりとした恐怖と罪悪感が彼の心をナイーブにしていた。
それはじわじわと実務に影響を与えていて、書類作成も手がつかず、集中力を欠いていた。
「おいリチャード、ここ間違ってんぜ」
ヴァージルがリチャードの後ろからパソコンを覗くように話しかけてきた。
「え?」
リチャードはハッとしてパソコンを見る。
ヴァージルが指をさしていた箇所を確認すると、確かに打ち間違いがあった。
しかも、普段はやらかさないようなイージーミスだ。
「らしくないなぁ、しっかりしてくれよ?」
「……すいません」
ヴァージルは少し茶化し気味にそう言ったつもりだが、リチャードは普段やらないミスだからかそんな茶化しさえ少し間に受けすぎていた。
「まあ、なんだ……書類が終わったら少しブラつこうや」
「そ、そうですね」
リチャードは微笑んで返答した。
だが、その笑みは少し無理をして作っている。
しばらくパソコンを見つめ、書類を作成し終えると、その書類を事務に渡す。
「はい、受け取りました。にしても、今日は元気ないですね」
事務の女性社員が指摘したきた。
「ちょっとミスっちゃって……」
リチャードは覇気なくそう吐露した。
「切り替えていきましょう」
女性社員はニコニコと対応したが、リチャードはどこか沈んだままだった。
手早くローブを羽織り、ヴァージルの元へ合流する。
その手早さにもどこか焦りが見て取れる。
ブラつくとは言っても、あくまで名目上はパトロール。
その上、ドラゴンの襲来が人間の都合を読むことなど無い。彼らはいつ襲ってくるか分からないのだ。
二人は街に繰り出す。
ほうきにまたがって浮き上がれば、視界が建物からロンドンの街を俯瞰するようなものに変わる。
少し高いところから眺めるロンドンは、今日もまた変わらず歴史的な気品ある都会を演じている。
サッと高いところまで上がったヴァージルだったが、リチャードの浮上には少し陰りが見える。
ヴァージルも流石にこの元気のなさはなにかおかしいと感じ取り、リチャードに問いかけた。
「おい、今日どうした?」
「え?」
「いや、その……元気無いだろ」
「……はぁ」
「なんかあったのか?」
「いや、特には……」
リチャードが何かを隠しているのは分かっている。
だが、何を隠しているかは分からないので、ヴァージルは今のうちは特に追求しないでおくことにした。
「なんかあったら言っとけよ?相談に乗ることもバディの仕事だ」
そう言うとヴァージルとほうきはパトロールのために前進する。
元気の無いリチャードはそれに追従する。
飛行中もリチャードの気は優れない。
それどころか、ヴァージルの手を煩わせてしまっている事に、リチャードはさらに焦りが出てくるのだ。
やっぱりこの不安を伝えておくべきだ。
そう感じて、リチャードは口を開いた。
「ヴァージルさん」
「……どうした?リチャード」
「実は……」
いざ口に出そうとしても腹を括れない。
思い切って言おうと思ったのだが、ドラゴンを逃がして失望されたくない。
だが、勇気を振り絞って声を上げた。
「ドラゴンを……逃がしてしまったかもしれないんです……」
その声は振り絞った勇気にも満たないほど小さな声だった。
リチャードが目を開けてヴァージルを見ると、ヴァージルは天を仰いでいた。
失望されてしまっただろうか。そう思った次の瞬間、ヴァージルが口を開く。
「……匂うな」
「え?」
「なんか変じゃないか?」
「な、何がですか?」
リチャードは混乱した。文脈が繋がってこない。
「ぼーっとするな。身構えろ」
その言葉でようやく事態を把握する。
張り詰めていた雰囲気が解けると、まるでマンホールの奥側がそのまま地上に発露したような刺激臭が風に乗って鼻に入り込んだ。
「ウっ!」
そのあまりのキツい匂いにリチャードは顔をしかめて、反射的に鼻をつまんだ。
眼下に目をやると、そこにあったのは世界的な観光名所、タワーブリッジの上空だ。
普段なら多くの観光客がいるのだが、今日はまばらにしか人がいない。
それに残っている人々の雰囲気もおかしい。
やけに鼻口を抑えている。
「リチャード、降りるぞ」
ヴァージルの目は既に魔法使いのそれに変わっている。
地上に降りると先程上空で感じていた悪臭がより濃くキツくなってきた。
「ウェストミンスター・ヴァージル・A・キース、テムズ川流域にドラゴンを確認。タワーブリッジ周辺の区画に避難規制をお願いします。また、ドックランズに応援を要請します」
ヴァージルは通信機で連絡を取り、討伐の準備を進める。
悪臭は橋の更に下から立ち込めるようにしてくる。
悪臭の発生源は明白だった。
その日のテムズ川は何色かとは形容しづらいが、とにかく汚らしくくたびれた色をしている。
ヴァージルは辺りを見回して、そして見つける。
色の悪い水面が斑点のように煌めいていた。
その斑点に目を凝らせば、それは翻った魚の死骸だと分かる。
そして、その奥の川が流れと逆行して波打っている。
とてもゆっくりだが、その波の規模は決して小さくはない。
「こいつは大物だ……」
刺激するのはよくない。
そう思いながらヴァージルが呟いた次の瞬間だった。
その波を目掛けて火の玉が飛んでいった。
「は?」
その火の玉は波の奥を撃ち抜くと、それまで穏やかかつ長い波長だった波が不均等かつ小刻みに荒ぶった。
ヴァージルが火の玉の発生方向を見ると、構えた杖から僅かな煙を上げるリチャードがそこにいた。
「おい、なにやって──」
刹那、テムズ川の丁度タワーブリッジの足元の辺りの水が盛り上がる。
そして、そこを中心に川に大波を立てて、大きな鯰のような顔のドラゴンが顔を覗かせた。
ヴァージルは再び視線をリチャードからテムズ川へ向けることになる。
顔からわかるがあまりに大きな体躯を有しているのは間違いない。
「ぶあああぁぁぁ!」
ドラゴンの咆哮と共に、開いた大口からドラゴンの消化器官由来の吐息とドブ溜りの匂いが合わさり、酷い悪臭が辺りに漂う。
川の悪臭と合わせて辺りはとても人が居れるような空気をしていない。
「これはマズイな……リチャード、一時撤退だ!」
ヴァージルは声を上げた。
とても今の巡回用の軽装備で討伐できる相手ではないと踏んだのだ。
しかし、リチャードは撤退する素振りを見せない。
それどころか、魔法を撃とうと杖を構えていた。
「リチャード!」
ヴァージルの制止も彼には届かない。
リチャードは更に杖に力を込めた。
しかし、魔法は不発に終わる。
「なんで……魔法が出ない……」
リチャードは杖におかしな部分はないかを探しだした。
ドラゴンは隙を晒しているリチャードに気がつくと突然「グエッグエッ」と喉を鳴らし始める。
「危ねぇ!」
次の瞬間には、リチャードは投げ飛ばされていた。
直後、つい先程までリチャードがいた場所を含め周囲に大量のヘドロがぶちまけられた。
そのヘドロからは悪臭が立ち込めた。
しかし、リチャードの感情は困惑から怒りに変わっていた。
「おい、なんで魔法を撃たない」
リチャードは杖を問い詰めていた。
「今は放つべきではない。あの青年が助けていなければ死んでいたぞ?」
「使い手を無視するのか?」
「……ああ、理性的な判断をくだせないような主は、認めることはできかねる」
リチャードの口ぶりはまるで別人のようだった。
明らかな気の動転が見られる。
リチャードが杖を責めていると、突然胸元に重力が発生したように引っ張られ、彼の体はその重力に宙吊りにされたようになる
ヴァージルがリチャードの胸ぐらを掴んでいた。
リチャードがもがくと、ヴァージルはすぐに手を離し、リチャードは地球の重力に帰された。
「あぁッ……何するんですか!」
「お前、もう帰っとけ」
「はあ!?」
「調子悪いなら帰れってんだ。足を引っ張るな」
「なに言い出すんですか?俺はただ──」
「様子見もせずドラゴンに攻撃を仕掛ける事になんの意味がある?お前がやろうとしてる事は……無駄なんだ。ドラゴン討伐に無駄なやつはいらない」
「……」
「とりあえず俺も一旦会社に戻る。あいつは俺一人で狩るから、お前は会社で大人しくしてろ」
いつもの態度からは考えられない反抗的な態度を見たヴァージルは、歯を砕けてしまいそうな程に強く食いしばっていた。
彼は強い言葉を使わないように感情を押し殺しながら話していた。




