第四十七話「青に舞う影」
──1945年6月、鹿児島上空。
空は驚くほど深く澄み、まるで何事もない平和の象徴のように青かった。
しかし、その静けさの底には、戦火の匂いが確かに潜んでいる。
冬の冷気を含んだ風が頬を裂き、機体の金属を震わせるたび、鉄と油の匂いが鼻腔にまとわりついた。
零戦の操縦桿を握る薫の耳に、あまりにも場違いな声が飛び込んでくる。
【薫〜、この前の干し芋、まだ隠してあるでしょ?】
──ハルカアオイ。
未来から届いたAIの声。
戦場の空には不釣り合いなほど、柔らかく、温かい。
「飛行中に干し芋の話か……敵に聞かれたら笑われるぞ」
「いいじゃん。敵も食べたくなるかもよ〜」
薫は鼻で笑い、口元をわずかに緩めた。
こんなやりとりができるのは、この瞬間だけが平穏だからだ──そう思った、そのとき。
視界の端、薄靄を抜ける一条の光が、空を切り裂いた。
(うんっ……何だ?)
遠方に戦闘機の機影。
敵か味方かはまだわからない。
だが、その動きは異様だった。
急降下、背面旋回、垂直上昇。
まるで空そのものと戯れるような、滑らかで美しい軌道──神業としか言いようのない飛行。
その機影が、太陽を背にしてこちらへ一直線に向かってくる。
照らされた機体越しに見えた輪郭──
「……楓……?」
富神 楓が飛んでいた。
その目は冷酷で、何のためらいもなく殺しに来る目だった。
次の瞬間、楓の機体が背後へと回り込む。
機首の機銃が閃き、曳光弾が白い軌跡を描いて空を裂いた。
金属の悲鳴。
衝撃で視界が跳ね、計器盤の針が震える。
エンジンから黒煙が噴き、機体全体に振動が走った。
「待てっ! ……なんでこんな、楓……!」
返事の代わりに、さらに鋭い一撃。
楓の動きは研ぎ澄まされ、予測すら許さない。
薫は必死に操縦桿を引き、右へ左へと急旋回する。
背中に汗が滲み、手のひらは冷たく湿っていた。
息が詰まる。
脈打つ鼓動が、エンジンの振動と重なった。
楓は縦横無尽に空を舞い、薫の背後を取り続ける。
一瞬たりとも、射線から逃れられない。
(…殺される……)
だが、その時だった。
楓が急旋回の途中で、ほんの一瞬、動きを止めた。
(今だ……)
薫は機首を振り向け、背後を奪う。
視界いっぱいに楓の零戦を捉える。
喉から野獣のような咆哮が溢れた。
「クソっ……あああああッ!!」
引き金を絞る。
弾丸が炎となり、楓の機体を貫く。
翼が裂け、爆ぜた火花が青空を染めた。
墜ちていく楓の零戦。
薫は衝動のまま並走し、必死に叫ぶ。
「なんでだよッ、楓!! なんでこんなことを──!」
煙の中から、楓の口が動いた。
「──オマエはそれでいいんだ…。
空を信じろ。
オマエを信じろ。
守り抜いて、そして繋げよ。
……ありがとうな。薫」
その瞬間、楓の顔がふっと柔らかくなった。
まるで長年の重荷を降ろすような微笑み。
そして、機影は陽炎のように溶け、青に消えていった。
気がつけば、薫の零戦にはかすり傷ひとつなかった。
計器も正常、エンジン音も澄んでいる。
まるで、最初から何もなかったかのように。
風が吹き抜け、ひとひらの白い雲が、静かに青を流れていった。
【…楓ったら………何も、変わらないね…】
To be continued…




