第四十五話「青の記憶、まだ春遠く」
──1945年3月、東京。
時代は、ゆっくりと音を立てて崩れていた。
桜にはまだ早い東京の街を、ひとりの青年が歩いていた。
軍服の袖には、中尉の階級章。
だが、どこか場違いなほど、その青年はよく笑っていた。
悠木 薫──。
そして今、生きてこの街へ帰ってきた。
「……ま、まさか、ほんとにお前?…」
定食屋の暖簾が跳ね上がり、最初に声をあげたのは城だった。
「おう、ただいまって言ったら、飯ぐらい奢ってくれるか?」
そう言って笑った薫の顔は、軍人というより、どこか無垢な少年のようだった。
「薫くん……!」
雪乃が口を押さえ、涙をこらえるように目を細める。
颯は何も言えずに立ち尽くした。
「………くっ…」
あの日見送った背中が、こうしてもう一度目の前にある──それだけで、時間が止まったようだった。
やがて四人は店の奥に腰を下ろし、久しぶりの再会を祝して茶をすすった。
「まったく……どれだけぶりだよ、こうして一緒に飯食うのは」
城が茶碗を軽く叩きながら笑う。
「なあんも、変わんねえな」
薫とみんなの笑い声が弾けた。
戦争を忘れた、わずかな時間。
──だが、薫はふと箸を置いた。
「……なぁ、ちょっといいか」
声が、少しだけ低かった。
「オレさ、志願したんだ。……特攻に」
空気が、音をなくす。
最初に動いたのは、城だった。
「はあ!? ……なに、言ってんだよ……!」
そう言って、テーブル越しに拳を突き出す。
頬に鋭い音が響く。
雪乃が息を呑み、颯が立ち上がろうとする。
だが、薫は殴られたまま笑った。
「ありがとな、城……それ、オマエの“答え”だな」
「ふざけるな、薫……! 死にに行くのか!? それで何が守れるってんだよ!!」
「守れねぇよ、何も…でも…何もせずにはいられねえんだよ」
颯が叫んだ。
喉が裂けるように。
「お願い……薫兄ちゃん……死なないでよ……」
雪乃は沈黙していた。
ただ、薫の横顔を見つめていた。
──その横顔に、あの青年の面影が重なる。
楽しくて、明るくて、バカみたいにまっすぐだった……青年の顔が。
そして──
その記憶は、何故か雪乃だけでなく、颯にも、城にも、薫にも流れ込んできた。
青い空の下、誰よりも高くジャンプして、笑っていた。
神社の境内で逆立ちをして、転んで笑っていた。
一度も会ったことがないはずの薫の胸にも、その“記憶”が、はっきりと灯った。
「……クソっ、またか、アイツ」
ぽつりと、薫が言った。
その時だった。
店の隅の畳席にいた、雪乃の父──寡黙な店主が、ゆっくりと口を開いた。
「中尉殿はな……お前たちを…お前たちを、ただ、守りたいだけなんだよ」
全員の視線が、店主に向く。
「……男ってのはな、不器用なんだ。言葉でなんか伝えられねぇんだよ。行動と命で示すことしか、できねぇんだよ」
静かに茶をすするその手は、少しだけ震えていた。
そしてまた、静けさが戻る。
だがその空気の中に、それぞれの想いが、確かに灯っていた。
外に出ると、空は鈍く、どこか仄暗かった。
だけどその雲の向こうには、あの青い空が広がっているはずだ。
──青は、いつも平和の象徴だった。
「じゃあ、またな…みんなで食べる飯は、やっぱり、うまいもんだな」
薫は、笑いながら何気ない別れのように言って、歩き出した。
その背中を、誰も呼び止められなかった。
心のどこかで、わかっていたから。
これは、もう決めてしまった、決意した背中なのだと。
To be continued…




