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第三十六話「風に溶けゆく声」

縁側の簾が、夕暮れの風にふわりと揺れた。

煤けた光が木目の床を斜めに照らし、どこか懐かしい影を落としている。


台所からは、出汁の匂いがほのかに漂っていた。

雪乃は火加減を見る手を止め、ふと耳を澄ます。


「そろそろ、帰ってくる頃かしら?」


「うん、もうくるよ」


隣で答えた颯の声は、まだ幼さを残しながらも、不思議と大人びていた。

玄関をじっと見つめる目には、期待と不安がないまぜになっている。


──戸の開く音。


「ただいま」


城の低い声に続いて、明るくはじけるような笑い声が重なった。


「いやあ、昼寝には贅沢すぎる青空だったな」


「……馬鹿かお前は」


そう言いながらも、城の口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。

どこか、置き忘れていたものを取り戻したような、そんな顔だった。



ちゃぶ台を囲むと、座敷いっぱいに夕陽が差し込んでいた。

陶器の茶碗に盛られた白いご飯、香ばしく焼けた鯖の塩焼き。

ぬか漬けの香り、煮物の湯気、湯呑みの中で立ちのぼる緑茶の匂い。


ただそれだけの夕餉が、今夜はどうしようもなく尊く思えた。


「……明日の朝、鹿児島に向かうんだ」


ぽつりと、薫が言った。

空気が、箸を止めた音とともに静まる。


「……もう、次の任務なの?」


雪乃の声は柔らかかったが、その奥にある震えに薫は気づいた。


「うん。しばらく南方の空を飛ぶことになりそうでさ。次は……たぶん、ガダルカナルかな」


薫は明るく笑って見せた。

まるで修学旅行の行き先でも話しているかのように。


しかしその笑顔の“奥”に、城だけは気づいていた。


「……お前、本当は何を考えてる?」


低く、静かな声だった。


「へ?……なんのこと?」


「とぼけるな。お前の目は嘘をつけない。あの空を見てたときと、まったく同じだった」


薫は苦笑した。


「……鋭いな、城くんは。うん、ちょっとだけ、自分の中で覚悟したことがあって」


「……死ぬつもりか?」


「違うさ。……でも、命の終わりが近い場所に自分が行くことは、これからたぶん、もう避けられないと思う」


「そんなこと、誰が決めた?」


「……まぁ、戦争だからね」


そう言って、薫は湯呑みを手に取った。

手の中で熱がじんわりと広がる。


「この空を、未来に残したいって思った」


「未来?」


薫の声は静かだった。


「そう。今はまだ、戦争しか知らないこの空に……ほんとは、笑い声や風鈴の音や、恋のひとつやふたつが重なる世界があるって、信じたいんだ」


「……うん」


その声の静けさは、夜の闇ではなく──夜明けを待つ空気に似ていた。


「誰かが、そんな未来を信じてた。……オレも、その続きを見たい」


颯がぽろりと泣いた。

声も出さずに、ただ涙が頬を伝っていた。


「薫兄ちゃん……死なないでよ」


「……大丈夫。死ぬために行くんじゃないんだ。

生きて帰る“つもり”で、飛ぶ。……だから、待っててな」



夜になっても、風はやまずに縁側を吹き抜けていた。

ちゃぶ台には食器が片づけられ、みな眠りについていたが──城だけが、眠れずに天井を見上げていた。


ふと、視界の端で“黒い板”が淡く光を放った。

板面には、文字がゆっくりと浮かび上がっていく。


《System Ready》

《Resonance Detected》


Target: YUUKI KAORU


《Next Protocol Scheduled》


──時は動き出している。

誰かの“想い”を載せて。



その夜の空は、不思議と静かだった。

戦火を忘れたような、透きとおる藍色の空。


遠く、どこかで蝉の声が聞こえる。

それすらも、優しい祈りに聞こえた。



To be continued…


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