第三十五話「空に眠る影」
蝉の声が、どこか遠くでまだ鳴いていた。
それは夏の終わりを告げる名残のようで、空の高みへ溶けていく。
東京の空は、すすけた灰青色。
けれど、その奥底には、確かにかすかな“青”が潜んでいた。
焦げた風が河原をかすめ、焼け石の匂いをひとつ乗せて吹き抜ける。
「……昼寝とは、ずいぶん呑気だな。英雄さん」
その声に、寝転んでいた青年がうっすらと片目を開ける。
「……お、城くんじゃん!ん…浴衣、似合ってるよ」
「うるせぇ。商売道具だ」
城は、カランと下駄を鳴らしながら河原へと歩み寄る。
実家の呉服屋を手伝う日々で馴染んだ所作は、どこか穏やかで、少しだけ柔らかかった。
「こんなところで寝てる馬鹿がどこにいる」
「だってさ、今日は空がやけに綺麗なんだ。ほら、見てみ?」
薫は両手を後頭部に組んだまま、空を仰いだ。
青というより、うす水色。
それでも──確かに平和という名の“残響”が、どこかに揺れていた。
「……昔、あいつもそんなことを言っていた」
「ん?アイツ?」
「“空が綺麗だ”って……。戦争さえなければ、飛ぶだけでよかったんだって──」
薫の瞳が、微かに動く。
だが城は、視線を空に向けたまま言葉を続けた。
「当時はさ、正直わからなかった。“願い”とか“信じる”とか、そんな子どもじみたことを、真顔で言える奴でさ……オレは未来から来たんだぁ、とか…なんであんなに真っすぐでいられるのか……」
夕陽が、川面を茜に染めていた。
その光は、かつてあの日“未来”を語った、あの青年の面影を浮かび上がらせる。
「……でもな、今なら少し分かる。あいつが見てた空って──もしかして、俺たちも今、見上げてるのかもしれない」
薫のほうに目を向け、城は首を横に振る。
「そもそも、“そっくり”なんだよ、お前……姿も、声も、笑い方も……全部が、あいつそのものなんだよ」
風が頬をなでていく。
草いきれに混じって、どこかの家から夕飯の煮炊きの匂いが漂ってきた。
「……そうか…だったらオレ、まだ大丈夫だ」
薫が、ふっと笑った。
その笑顔はどこまでも陽気で、けれど確かな芯があった。
「そいつが信じた“続きを”……オレがちゃんと見てきてやる!そう思えるよ」
城はポケットに手を入れ、煙草に触れかけて──やめた。
何も燃やしたくなかった。ただ、この静かな空だけは。
「かえ、薫……怖いか?」
「いきなり、なに?」
「戦うのがさ」
城の問いかける声は、やけに穏やかだった。
薫はゆっくりと頷いた。
「怖いに決まってる…でも──誰かが言ってた。“見たい空”があるって。……だから、それを見たくなっただけさ。戦うためじゃなくて、見届けるために、飛ぶんだ」
薫の笑みが、静かに崩れた。
「……本音、言っていい?」
「言ってみろ。」
「……戦争なんてさ、やっぱりイヤだわな。殺し合いも、誰かが死んだり、ぜんぶ……ウンザリだわ」
声が途切れ、風だけが川辺を吹き渡った。
「けどさ……それでも、今守らないといけないことがある。命かけてでも、この空に“何か”を残したいって思ってる…」
続けて。
「城くん……おそらく、日本は負けるよ…だから、早くしないとな」
ふたりの間に、言葉にできない沈黙が流れた。
「……さ、くだらねぇ話は終わり!腹減った。飯だ、飯!変なこと言ってると憲兵ににらまれるぞ」
薫が立ち上がり、城も肩をすくめながら並ぶ。
歳月も時代も異なるはずなのに──ふたりが見上げた空は、同じだった。
どこまでも青くて、静かで、優しい。
本当は戦争など知らないはずの空。
雪乃の実家の座敷。
障子の向こう、暮れかけた光の中。
机の上にぽつんと置かれた“黒い板”が、規則的に淡い光を点滅させていた。
【HARUKA AOI】
System Recovery in Progress…
Backup Support System
[YUKINO SHIRO]
…
Activating.
かすかな電子音が、まるで遠い未来から届く呼吸のように部屋の隅で脈打っていた。
それは、過去と未来を繋ぐ記憶の灯火だった。
この空の下で、静かにひとつの“想い”が息を吹き返そうとしていた──
To be continued…




