第三十四話「ひとつの陽だまりにて」
昭和十七年、八月。
港に吹く風が、ひとときの再会を告げていた。
夏の終わりの陽射しは、どこか翳りを帯びていたが──それでも、空はまだ、青かった。
「紹介するよ!この人が……悠木 薫、薫兄ちゃん!」
颯の声は高鳴り、頬は喜びに紅をさしていた。
その瞳に映る青年の姿は、誰よりも明るく、まるで陽だまりを連れてきたようだった。
「悠木 薫です。お邪魔してます──って言えばいいのかな?」
焼けた肌に白い歯を覗かせて、薫は軽く頭を下げた。
その笑顔には、戦場の泥も硝煙も似合わなかった。
あるのは、ただひとつ──夏の木陰のような、人を和ませるあたたかさだけだった。
(……どうして、こんなに……)
雪乃が息を呑む。
目の前の青年の輪郭は、あまりにも楓と重なっていた。
(……似てる。いや……まるで、あいつだ)
城もまた、目を伏せた。
あのとき、青空へと消えていった青年の残像が、今ここに立っているようだった。
「……えっ、顔に何かついてます?」
照れたように薫が笑う。
だが、その仕草さえも──あの青年だった。
四人は連れ立って、夕暮れの下町を歩いた。
トタン屋根を叩く蝉の声、打ち水が染み込む土の匂い、風鈴の小さな音。
どれもが、戦時下とは思えないほど、懐かしく、穏やかだった。
「ここか、颯がさっき話してた定食屋ってのは?」
「うん!母ちゃんと父ちゃんが作る飯、本当にうまいんだ!」
「そいつは期待しちゃうなぁ」
木戸をくぐった瞬間、鼻腔をくすぐる“だし”の香りが、薫の足を止めた。
「……懐かしいな。こりゃ、泣いちゃうかも」
薫の表情がほころぶ。
それはまるで、遠く離れた故郷に帰ってきた幼さ残る少年のような無垢な顔だった。
「おかえりなさい! さあ、上がってちょうだい!」
雪乃の母が割烹着姿のまま駆け寄り、笑顔で出迎えた。
父も新聞をたたみ、「立派な海軍さんですな」と目尻を下げる。
そこへ泉沢がひょこっと顔を出す。
「おっ、今夜は宴か?戦地から戻った者に乾杯か?今日は飲ませろよ、なあ城!」
陽気に笑った。
「……俺は酒、飲めないんだがな」
「雰囲気ってやつよ、雰囲気!」
ちゃぶ台の上には湯呑みと漬け物、小鉢の煮物。
母の手で炊かれた白飯の湯気が、部屋中にやさしく満ちてゆく。
笑い声、箸の音、誰かの冗談に吹き出す声──
それは、ほんのひとときの“平和”そのものだった。
「……戦地は、どうだった?」
ふいに城が問いかけた。
湯呑みの音が止まり、空気がわずかに沈む。
薫は湯をひと口すすってから、視線をそっと窓の外へ向けた。
「んー、そうだな…言うなら……まあ、地獄みたいなもんかな」
明るく軽い口調、けれど、嘘はなかった。
「それでも、俺は飛ぶよ。守りたいものがある限り」
薫の目は澄んでいた。
それは“生き残った”者の目ではない──
──“信じて、空を越えてきた”者の目だった。
「空は広くて、まぁ正直、戦うの怖いけどさ。でも、たまに静かで……青くて…時間が止まってるみたいなんだ」
その言葉に、雪乃の胸がちくりと痛んだ。
どこかで、まったく同じ言葉を聞いたことがある。
──空を信じろ、と。
城は静かにうつむいた。
英雄の仮面を被り、孤独を隠していたあの頃の自分。
強さの影に、怯えた心を隠していた自分。
目の前の男は、空に祈りを乗せ、恐れずに飛んでいた。
「……おまえ、バカみたいにまっすぐだな」
「おいおい、それ褒めてんのか?」
「……ちょっとだけ、うらやましいよ」
そうつぶやいた城の声には、澱みがなかった。
長い雲をようやく抜けたような、晴れやかな響きだった。
夜は更け、湯呑みが空になるころ、誰かが座敷で舟をこぎ始めた。
雪乃はそっと席を立ち、縁側へと出る。
夜風が肌を撫で、空には淡く星が瞬いていた。
──あの空の向こうに、まだ誰かがいる。
そう信じられるのは、きっと今、ここに“帰ってくるべき人”が戻ってきたからだ。
(……楓…)
「……ありがとう、戻ってきてくれて」
その小さな声に、薫は背を向けたまま微笑んだ。
「オレも、誰かに“ありがとう”って言いたかったんだ」
──誰に、とは言わなかった。
けれど雪乃にも、城にも、颯にも、それが“誰”かはもう分かっていたような気がした。
そのとき──
奥の部屋。
机の上に置かれた黒い板が、ふっと青く光を放った。
板面には、英語で文字が浮かび上がる。
HARUKA AOI System Loading...
続いて、見慣れた名前が現れた。
Support System: YUKINO SHIRO – Online.
青白い光が、静かに部屋を照らした。
過去と未来が、再びつながろうとしていた。
To be continued…




