第三十三話「空の果て、波の音の中で」
蝉の声が、まるで記憶の奥に遠のいてゆくようだった。
風にさらわれた潮の匂いとともに、夏は静かに息を潜めようとしている。
──ミッドウェー。
その地名が口にされるたび、誰もが言葉を呑んだ。
あの海戦の傷痕は、数字では語れぬほど深く、重かった。
大本営は「大勝利」と謳いあげたが、現実は──否応なく沈みゆく空母〈赤城〉とともに、日本という国もまた、敗北という闇に足を踏み入れていた。
東京の空は、どこか色褪せて見えた。
青さは残っていたが、あれはもう、誰かの願いを映す空ではなかった。
──それでも、颯は信じていた。
(薫兄ちゃんは、きっと必ず生きて帰ってくる。空を信じる人だから。)
「今日な、港に海軍の帰還兵が戻るらしいぞ」
「まさか〈赤城〉の生き残りか……?」
「いや、別の航空隊に転属されたらしい。“東京の風”が戻ってくるって噂だ」
雪乃の実家、定食屋は、朝から常連客たちのざわめきであふれていた。
茶碗の音、味噌汁の湯気、ざらついた新聞紙。
戦時下の日常の中に、ほんの少しだけ、希望のような熱が混ざっている。
その言葉に、ひとりの少年の箸が止まった。
──“東京の風”。
「……薫兄ちゃん……?」
颯は、音もなく立ち上がると、奥の間に駆け込んだ。
「雪乃! 城! 一緒に来て!」
「颯? どうしたの?」
「薫兄ちゃんが、……生きて帰ってくるかもしれない!」
港へと向かう道すがら、空はじっとりと曇っていた。
けれど、波止場に近づくにつれ、光が差し始める。
母親たちが手を振り、少女が花束を握りしめ、男たちが軍帽を胸に抱える。
誰もが誰かを待ち、ただ一隻の帰還を信じている。
汽笛が、遠くで鳴った。
それは、戦場から日常への境界をなぞるような音だった。
人の波をかき分け、ひとりの青年が駆けてくる。
陽に焼けた肌、斜めにかぶった軍帽。
風のような笑顔──
「……やっぱり、来てたな……颯ーっ!!おおい、元気にしてたかああ?」
声の主に、颯は目を見開いたまま、動けずにいた。
「うう……薫兄ちゃん……」
「おまえ、泣くなよ……男だろ?」
焼けた手が、いつかと変わらぬ温度で颯の頭をくしゃりと撫でた。
それは──
確かに、悠木 薫だった。
「……生きて、帰ってきた……ほんとに…帰ってきてくれた……」
「当たり前だろ!空を信じていれば、ちゃんと帰れるって教えたの、誰だっけ?…忘れたのか?」
颯は声を震わせ、薫の胸に顔をうずめた。
波止場の片隅で、雪乃と城は立ちすくんでいた。
「…え……あれ……なんで……」
「……楓?、同じ……?」
陽炎の揺らめきの向こうに、立つひとりの青年。
その姿は──かつて未来から舞い降りた青年と、まったく同じ顔と容姿だった。
しかし、ただひとつだけ、違っていた。
──薫は、“未来”を知らない。
だからこそ、その笑顔はどこまでも真っ直ぐで、迷いがなかった。
けれどふたりの胸には、同じ名前がよぎっていた。
──楓。
あの青い空を見上げ、消えていった青年。
その面影が、いま、昭和の陽光の中に重なる。
港に、風が吹いた。
薫は目を細めて空を仰ぎ、ぽつりと呟く。
「……まだ、飛べるさ。守りたい人がいて、信じたい空があるなら」
見上げた空は、夏の終わりの色をしていた。
けれどその奥には、きっと──遥かな約束が生きている。
「空は、しっかり覚えてる」
誰かがかつて、そう言っていた。
そして今、またひとり、信じる者がここにいた。
To be continued…




