第三十二話「空を喰う炎」
波が砕ける音が、耳の奥で反響していた。
金属がきしみ、血のように赤い夕陽が甲板を染める。
硝煙と焼けた油の臭いが、吐き気を誘うほど濃く漂っていた。
──昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃。
それは、日本という国が、狂気の扉を開けた日だった。
「……敵艦隊、撃沈確認!」
甲高い声が飛び交う管制室の奥、薫は無言のまま、濡れた飛行帽を外していた。
額から滴る汗か血かも分からぬ液体が、制服の襟元をじっとりと濡らす。
先ほどまで、機体はまるで意思を持つかのように空を裂いていた。
気流を読み、風を滑り、敵の高角砲をすり抜けた。
──もう、飛んでいたのは自分ではない。
空と機体と、そして“何か”が、一つに溶け合っていた。
「……帰ってきたか、“天狗”」
整備兵が呆れたように笑う。
薫の異常とも言える飛行スキルは、仲間の間で“風の化身”と噂されていた。
「二番機!未帰還です!」
その報告に、薫の喉が音を立てて鳴る。
思い出すのは、最後に無線越しに聞いたあの声。
「……お国のために……天皇陛下万歳…!」
震える声で、仲間は機体ごと海へ落ちていった。
まだ二十にもならない顔だった。
笑うとえくぼができて、東京で蕎麦屋を継ぐのが夢だと語っていた。
それが、たった一度の出撃で──“記憶”に変わる。
「薫少尉、艦長が呼んでいます」
「……ああ」
濡れた床に足を引きずるようにして向かった先で、艦長は短く言った。
「よくやった。君の技量は、この戦果の中でも際立っている」
「ありがとうございます」
薫の声は低く、澱んでいた。
「この戦争は始まったばかりだ。君のような若者が、今後の空戦を支え、そして日本国を勝利へと導く。期待しているぞ。……これは平和と、支配から解放するための戦だ」
「……はい」
平和のため──
その言葉が、胸に小さく鈍く響く。
戦って、殺して、焼き払って……それで、誰が笑顔になる?
誰の未来が、守られる?
思考の隙間に、ふいに一人の少年の顔が浮かんだ。
──颯。
あの、空を見上げて笑っていた少年。
「薫兄ちゃん、飛行機ってさ、空を信じてるから飛べるんだろ?」
そんな言葉を、ふとした日に無邪気に言った。
あの日の空は、雲一つない青だった。
けれど、今見上げる空は、煤けた灰と血の混じった鉄のように、重く冷たく淀んでいる。
それからの数ヶ月──
薫は狂ったように飛び続けた。
南方へ、ミッドウェーへ、ソロモンへ。
機体を乗り換え、基地を転々としながら、戦果を重ねるたび、“英雄”の名が付き纏った。
「さすがだ、悠木少尉!」
「また落としたのかよ、薫、何機目だ?」
そんな声にも、もはや笑いで返す余力はなかったが、明るく振る舞い、笑いにかえる薫がいた。
ひとたび空に上がれば、己がどこまで風と一体になれるか、それだけを試すように。
──人の心を失くす代わりに、空の声を聴くようになっていた。
そして、半年以上が過ぎたある日。
「少尉。帰省が許可されたぞ。東京へ戻っていいそうだ」
副官がそう告げた瞬間、薫は何かを取りこぼしたように視線を落とした。
東京──
あの空の朝に別れを告げてから、何人の命を見送ったか。
どれだけ多くの空を、火で染めてきたか。
彼の中で、“空”は、もはや誰かの願いを運ぶ場ではなかった。
それは、叫びを飲み込み、命を奪う黒い喰らい空だった。
けれど、それでも。
(──帰ろう)
颯に。
あの空に。
“信じる”ということを、もう一度だけ問いたくて。
そうして、悠木 薫は操縦桿を降ろし、燃えた空の記憶を胸に、東京へ戻る決意をした。
To be continued…




