第三十七話「青の残響」
──風が鳴っていた。
東京の朝。
八月とは思えぬほど空気は冷たく、けれどどこか優しく肌に触れた。
空は澄み切っていた。
まるで“いってらっしゃい“を言ってくれているかのように。
「……じゃあ、行ってくる」
薫は、肩にかけた軍用の革鞄を軽く揺らしながら、三和土に立った。
帽子の庇が朝日にきらめき、その下の瞳には、一切の迷いがなかった。
雪乃は静かに頷いた。
泣くまいと、唇を噛んだまま。
城は無言で立ち尽くしていた。
ただその眼差しの奥で、何かが強く、深く揺れていた。
颯は、小さな声で言った。
「……薫兄ちゃん……また、帰ってくるんだよな?」
薫は笑った。
それは、戦地に赴く兵士の笑みではなかった。
少年の頃から何も変わらぬ、まっすぐな“人間”としての笑顔だった。
「もちろんだとも。またここで、飯でも食おうな」
その言葉に、城がわずかに顔をそむけた。
──それは、
優しすぎる嘘だったのかもしれない。
薫が玄関を出た瞬間だった。
家の奥から、
「ピィィ──ッ……」と、耳障りな高音が鳴り響いた。
「……っ!?」
雪乃が駆ける。
音の発信源──それは、あの“黒い板”だった。
座敷の隅、埃をかぶっていたはずのそれが、まるで命を得たように脈打っている。
画面の中心に浮かび上がったのは、冷たい白の光。
やがて、英語の文字が表示された。
《System Boot Complete》
《HARUKA AOI/Support Intelligence》
《YUKINOSHIRO/Backup Module Engaged》
「……え?」
音声が流れる。
それは、どこか懐かしく、でも決して聞いたことのない──不思議な“人の声”だった。
【雪乃さん、あなたにお願いがあります】
「……あなたは、誰……?」
【私はハルカアオイ。かつて、あなた方の未来を託された存在。そして……ユキノシロ、バックアップAIです】
もうひとつの声が重なる。
【この時代で稼働できる時間は限られています。お願いです。私たちを、薫さんに、いえ…楓さんに託して下さい】
「……どういう、こと?」
雪乃の手が震えた。
【彼が辿る道は、決して平坦ではありません。
けれど彼だけが、“時の継承者”として、記憶と希望を未来へ繋げられる】
画面に、薫の姿が浮かび上がった。
過去の映像ではない。
まさに今、玄関の向こうを歩いている、その後ろ姿。
【時間がありません。すぐに、彼の手に──】
雪乃は何も考えず、板を両手で抱えた。
まだ温もりのようなものが残っていた。
「……薫っ!!」
叫ぶように声を上げ、雪乃は玄関を飛び出した。
朝焼けの中、去りゆく彼の背中が、もう小さくなりかけている。
「──待って!!!」
その声に、薫が振り返った。
振り返りながら、彼は小さく微笑んだ。
雪乃は板を差し出した。
「これを……! あなたに、託してほしいって……! “未来”から……!!」
薫は驚いたように目を見開いた。
だがすぐに、その手をそっと雪乃の指に重ね、板を受け取った。
「わかった。きっと、大事な“なにか”なんだな」
「……絶対、帰ってきて。お願い」
薫は無言で頷いた。
ただその目には、いつまでも揺るがない決意と、深い祈りが宿っていた。
彼が再び歩き出したとき、
空は、一段と青さを増していた。
その青は、誰かの記憶。
その青は、これから紡がれる未来。
“黒い板”の中では、光が静かに脈を刻み続けていた。
そして──風が吹いた。
それは、遠い未来から来た風。
まだ誰も知らない、希望の名を連れて。
To be continued…




