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第二十九話「父と母のいる場所」

遠くで汽笛が鳴いた。

その音は、冬の始まりを祝福するかのように、東京の街に溶けていった。


昭和十六年十二月七日──

戦争の火が海の向こうで灯る、ほんの数時間前のことだった。


「……おい、こっち!」


富神 颯は息を切らしながら、裏通りへと身を隠した。

城と雪乃もその後に続く。

駆ける足音、乱れる息、路地の石畳を打つ靴音が、やけに鮮明だった。


空はまだ焼けていない。

けれど、どこかざわついている。

太陽が静かに沈みゆく中で、街並みは黄金色のフィルムをかぶったように見えた。


「……はぁ……ふぅ……もう大丈夫だよ」


颯が小さく笑ったその横顔に、雪乃は息をのんだ。

どこか、あの青年に似ていた。

いや──その影を宿していた。


「颯……君は、どうして追われていたの?」


そう尋ねると、颯はしばらく黙って空を見上げた。

冬が始まる前の、冴えた青がそこに広がっていた。


「……知らないほうがいいよ。けど……たぶん、これ、渡しとかなきゃって、さっき思った」


そう言って、颯は懐から黒く細長い板を取り出した。

それは、雪乃にとってあまりに見覚えのある──


「……それ……」


「道で拾った。光っててさ。なんか、呼ばれた気がしたんだ」


雪乃の手が震えながら、それを受け取る。

黒いガラス面に映ったのは、自分の顔──と、その奥にある何か深い記憶だった。


──ユキノシロ。

──そして、青年の声。


三人は、裏通りを抜け、見覚えのある角を曲がった。


ふと鼻をくすぐる、香ばしい出汁の香り。

甘辛い煮物の匂いに、雪乃の足が止まった。


そこにあったのは──


「……うそ……」


暖簾が揺れる、小さな定食屋。

磨き込まれた木の看板には、見慣れた屋号が書かれていた。


店の奥から、湯気が立ちのぼる。

その向こうに──


「おかえり、ゆきの」


柔らかく、懐かしい声が聞こえた。


涙が、あとからあとから零れた。

見えなくなるほど涙が溢れても、雪乃はそこから一歩も動けなかった。


「…お父さん……お母さん……」


震える声で呟いたとき、二人の影が雪乃を包んだ。


温かく、あの日に置いてきた、別れたままの姿で。

父は味噌汁をかき混ぜ、母は割烹着のまま笑っていた。


「いきなり、どうしたんだい、変な子だね」


「今日は寒いから、粕汁にしたのよ」


「雪乃の好きな…」


──時間がほどけていく。

喪失の傷が、少しずつ、ぬくもりに変わっていく。


雪乃は、頬を濡らしたまま微笑んだ。

そこにあるものすべてが、幻でもかまわないと思った。


「城くんもご飯食べてくかい?」


そして、少年にも穏やかに声をかける。


「坊やも、よかったら一緒にどう?」


少年──颯は戸惑いながらも、こくりと頷いた。


「……いただきます」


その夜、定食屋の灯りの下、三人、そして父と母、ちゃぶ台を囲んで食事をした。

颯は、ご飯を頬張りながら言葉をこぼす。


「こんなご飯、はじめてだあ」


「坊主…!嬉しいこと言ってくれるねえ」


「颯……君は、家族は?」


雪乃が問うと、颯は一瞬だけ箸を止めた。


「……生まれたときから、誰の顔も知らない。名前と、手帳と、ひとつだけ夢──それだけだ」


「夢……?」


「うん…! 青い空が見たい、って思ったんだ!誰にも邪魔されない、ほんとの空が。……なんでか分かんないけど…でも見たいって!」


雪乃と城は、黙ってうなずいた。


青い空──

それは、誰かがずっと願い続けていた景色。

今、確かに、目の前の少年に受け継がれていた。


夜のとばりが静かに落ちる。


蝉の声はだいぶ前に遠のき、代わりに虫の音が土の匂いとともに響く。


颯が手帳に何かを書いていた。

細い文字で、ゆっくりと、確かに。


「なにを書いてるの?」


「……ん。忘れないようにさ。今日、ちゃんと“家族”がいたってこと」


雪乃はふと、母の手を握った。

もう一度だけ、この世界を信じてみたい──そう思った。

あの青年が信じたこと。


──たとえ、それが夢でも。



To be continued…


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