第二十八話「青の記憶」
蝉が、命を燃やすように鳴いていた。
焦げつくような夏の光が、病室の白いカーテン越しに滲んでいる。
それは、まるで誰かを呼ぶかのような、遠く、懐かしい音だった。
──昭和二十年、七月。
終戦まで、あとひと月もなかった。
窓の外に広がる空は、どこまでも蒼く、雲ひとつない。
それは、あの青年が最後に見たであろう“空”に、少しだけ似ていた。
病院の一室。
雪乃は、火傷を負った腕を包帯でくるみながら、簡素なベッドの上に横たわっていた。
細い呼吸。伏せられた瞼。けれどその顔は、どこか穏やかだった。
その傍らで、車椅子に座った城が、そっと彼女の手を握っている。
戦火で焼かれたその手は指が欠け、肌にはいくつもの痕が残っていたが、
その握りしめる力は、確かに生きていた。
「……今、空を見てたの」
かすかに動いた唇が、空気を震わせる。
雪乃の声は、か細いながらも、はっきりと届いた。
「楓の……最後の記憶が、見えた気がする。雲の上で……笑ってた。泣いてた。……空を見てた」
「……ああ、俺もだ」
城が、ぽつりと応えた。
「信じられないような空だった。誰にも汚されてない、本当の……青い空だ」
雪乃の瞳に、ひとすじ、涙が伝う。
「こんな世界じゃなければ……もっと、普通に生きられたのにね」
「でも、最後まで……笑ってたよな、あいつ」
「……うん」
──その瞬間だった。
雪乃の目が、見開かれる。
瞳の奥で、何かがはじけるように光る。
網膜に、まるでフィルムが焼きつくように、無数の情景が流れ込んでいく。
青い空。
爆煙。
血の色。
雲の裂け目。
あの日、楓が見たすべてが、私が見たすべてが、凄まじい速度で彼女の意識に流れ込んでいく。
瞳が、左右に高速で揺れた。
【バックアップデータ検出──】
「……え……?」
【環境座標データ照合中……】
【条件一致。】
【転送プロトコル“ユキノシロ、リザレクション”を起動します】
【時刻調整中:1941年12月7日──】
「まって……何が起きてるの……!?」
雪乃に流れ込む視界の隅で、あの黒い板──スマートフォンが青く点滅していた。
「雪乃! おい、雪乃、しっかりしろ!」
城が焦り、彼女の手を握り直す。
【進行度98%──まもなく完了】
【記憶名称:“青の記憶”】
【送信先:ユキノシロ(β)】
──バチッ。
音もなく、閃光が病室を包んだ。
空間が、歪む。
時間が、軋む音を立てながら、ねじれていく。
世界が、深い青に染まった。
──そして、目を開けると、
すべてが“違って”いた。
風の匂いが違う。
草の色、陽のにじみ方、セミの鳴き声はなく、そこはひと昔前のそれだった。
「……ここは……」
城が、息を呑む。
ふたりは、舗装されていない土の道に立っていた。
電柱の形、家屋の造り、看板の文字──
それは、まぎれもなく焼ける前の、戦前の東京だった。
「…えっ…戻って……きたの?…信じられない」
雪乃が呟いた、そのとき。
向こうから、誰かが駆けてくる。
ひとりの少年。
学生服姿。
息を切らせ、必死の形相で、こちらに向かって走ってくる。
その背後には、怒声をあげる憲兵たち。
「──待てえッ!!」
「まずい、まずい、まずい……!」
少年の声は震えていたが、その目にはどこかで見た“強い光”があった。
「……あれ……!」
雪乃が目を見開く。
少年はふたりの前で急に足を止めた。
汗だくの顔で、真っ直ぐこちらを見つめ訴えかける。
「ちょっ……助けてくれ! お願い!」
そのときだった。
城の手が、自然と少年へ差し出されていた。
少年は息を荒げながらも、安堵の表情を浮かべた。
「ここまでくれば……とりあえず大丈夫、だろ……」
「……名前を、教えてくれるか?」
そう問うと、少年は微笑むように、どこか懐かしげな口調で言った。
「俺、颯。富神 颯っていうんだ。あんたらは?」
その名前に、雪乃は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
──富神 楓。
あの空へ向かった、青年と、同じ名字。
「まさか……あなた……」
言葉は続かなかった。
ふと見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。
まだ戦火に焼かれていない、どこまでも澄んだ空──
まるで、誰かがずっと願い続けていた、“青い空”そのものだった。
それは確かに、ここから始まる何かを、祝福しているようだった。
To be continued…




