第二十七話「遥か、青い」
空は、泣いていた。
いや、そう見えただけかもしれない。
積乱雲の切れ間から射す光が、楓の機体を淡く照らしていた。
──燃料は、片道分しか積まれていない。
帰るつもりのない旅。
いや、帰ることなど最初から想定されていなかった。
それでも楓は、笑っていた。
操縦席に深く身を沈め、前方の空をじっと見つめていた。
【楓……やっぱり、死ぬつもりだったんだね】
少女のような声が、無機質な機内にそっと染み込む。
ハルカアオイ。
彼の相棒であり、彼の記憶を知るAI。
「だから言ってんだろ。死なねぇって」
【でも……帰れない。これじゃ、まるで──】
「何度言わせんだよ」
楓の声は、湿った風を切るように鋭かった。
「オレはな……アイツらに見せてぇんだよ」
【……うん】
「探してたんだ、ずっと。戦争の中でみんなが見失った“空”を…オレが、見つけて見せる。だから死なねぇよ」
彼の目は、真っ直ぐだった。
雲の裂け目、その先にある“何か”を見据えていた。
機体が震える。
目標空域に突入した。
空はもう、空ではなかった。
無数の弾痕と黒煙、閃光と怒号で、塗り潰されていた。
味方機が、次々と落ちていく。
重い爆弾を抱えたその姿は、まるで弔いの鐘のように海面へ消えていった。
「……くそっ……!」
唇を噛みしめ、楓は操縦桿を引いた。
敵機が、五、六機──背後から旋回してくる。
だが、楓は撃たない。
引き金に指をかけず、ただ、風を裂くように飛ぶ。
「戦争しに来たんじゃねぇ……空を見せに来たんだよ」
機体は、蛇のように空を這い、翻弄する。
視界の隅で、仲間たちが最後の突撃を遂げていく。
それでも敵艦は遠く、ただ、海に花を散らすように炎が舞う。
その死は、栄光ではない。
──記憶だった。
【楓!! もう、やめて!!】
ハルカアオイの声が、ノイズ混じりに叫ぶ。
その声は、涙を堪えた少女のように震えていた。
【死ぬんでしょ!?もう頑張らなくていい……!もっと喋りたかった、喧嘩もしたかった……!だから……お願い……もう……】
楓は、静かだった。
ただ口元にわずかな笑みを浮かべ、前を見据えた。
敵艦が、目前に迫る。
空気が緊張する。
艦砲射撃、敵機の咆哮。
英語が混じった無線が、鼓膜を打った。
「Shoot him down!! NOW!! What the hell is that thing!?」
「……あれは……まさか……!あの“亡霊”……!」
城。
かつて、空を“異常な技術”で駆けた英雄。
その幻影が、今ここに、重なる。
「The ghost is back…」
その瞬間、楓は、誰もいないはずの右翼側に手を振り、操縦桿を一気に引いた。
機体は垂直に上昇し、青白い雲を突き抜けていく。
警告灯が赤く点滅し、スマートウォッチが悲鳴のような振動を走らせる。
──その先。
「……これだ……」
目が、潤んだ。
「これが……城が失った…空……」
──雲の上。
そこには、何もなかった。
そして、静寂。
ただ一面の、透きとおるような青。
誰にも汚されていない、遥かなる空。
「…雪乃……城……」
ひび割れたスマートフォンを見つめながら、彼は呟いた。
「見えてるか……?この空!」
「なぁ、ハルカアオイさんよーーーっ!!」
その叫びと同時に、両端末が初期化モードに入る。
【初期化中……】
【こんにちは。私の名前は──ハルカアオイ】
【素晴らしい名前。宝物にします】
楓は、涙を拭いながら笑った。
「……雪乃……城……」
その名前をつぶやいた瞬間──
【ユキノシロですね。】
【了解しました。】
【補助AI“ユキノシロ”を生成します】
「ちが……まぁ、いいか……頼むぞ」
「撮影、頼んだ」
【はい】
──カシャ。
シャッター音が、最後の空を閉じ込める。
「…ふぅ……」
「じゃあ……戻るとしますか!」
彼は静かに、操縦桿を押し込んだ。
機体は、真っ逆さまに垂直降下を始める。
敵艦の上空。
砲弾が風を裂き、黒煙が渦を巻く。
「うひょおおお………!」
その中、楓の左肩を一発の弾丸が貫いた。
「いてえええ!…っ……くそっ……!」
計器に血が滲む。
【楓さん、死ぬ予定ですか?】
「……最後の最後で、まともな口ききやがって……今更、お利口さんですか?」
彼は、笑った。
「雪乃……城……泉沢……オレさ、お前らがいなかったら、こんなオレ、今、いなかったんだよ」
「だから、あと頼むわ……」
「……」
「この空を……あの空を……見せてやってくれ……」
「──じゃ、そういうことで」
──高度100メートル。
「遥か、青い」
楓の声が、風の中に消えた。
【楓さん……】
【…送信:ハルカアオイ】
【……バックアップ…機能実行:ユキ…ノシ……ロ】
次の瞬間。
艦上が、爆発した。
真っ赤な閃光が敵艦を呑み込み、その余波が、雲の上の空にまで届く。
残ったのは、たった一枚の写真。
遥か、青い空。
──ただ、それだけ。
To be continued…




