第二十六話「まだ、飛べる」
──夜明け前の兵舎は、まるで“息をひそめる死者の箱庭”のように、静まり返っていた。
むせるような湿気が、敷布の裏まで染み込んでいる。
遠くで草いきれに混じって、蝉が一匹だけ、場違いに鳴いた。
それは、夏が終わることさえ知らない無邪気な命の声だった。
薄灯りの下、楓はベッドに腰をかけ、手首のスマートウォッチをじっと見つめていた。
その光が彼の頬をわずかに照らし、古びた木の床に長く影を落とす。
ふいに、少女の声が浮かぶ。
【ねぇ楓。もし今が、ゲームのラストステージだったら……どんな選択肢、選ぶ?】
「んー……ぜんぶ無視して、裏技でバグ攻略かな」
【それ、ズルじゃん】
「だろ?」
微かな笑い声が、ふたりの間に流れた。
くだらない会話。
けれど、それが愛おしい。
戦火のただ中でさえ、青春はまだここにあった。
【思い出すね……あの夜。布団の中で話してた。窓開けて、星を見ながら】
「懐かしいな」
【でもさ、星の光って、何億年も前の命でしょ?もしかしたら、もう消えちゃった星の光かもって……そう考えるとさ──】
「……だから何だよ」
【ううん。なんか、楓っぽいなって思っただけ】
「オレ、消えてねーし」
【──うん、そうだった】
少女の声は、少しだけ震えた。
そして、朝が来る。
ぼんやりと白み始めた空の下、格納庫の脇に、隊員たちが一列に並ぶ。
誰もが無言だった。
機体はその背後に静かに佇み、まるで土に突き刺さった墓標のようだった。
見送る士官たちの中に、若い一人の将校がいた。
楓と同じ年頃の、少し背の低い男が一歩前へ出て、軽く敬礼を解く。
「ありがとう……。戦争のない時代に、貴様と飛びたかったよ」
楓はその言葉を一瞬だけ噛み締め、それから軽く肩をすくめ、笑った。
「何言ってるんですか。まだ死にませんよ、オレ」
少年のようなその声に、列の緊張がわずかにほどける。
楓は機体へ向かって、小走りに駆けた。
日の光を反射する鋼の塊が、朝露に濡れ、まるで獣のように息を潜めていた。
操縦室に滑り込みながら、彼はポケットに手を差し入れる。
取り出したのは、ひび割れた黒い板、スマートフォンだった。
画面は黒く沈黙したままだったが、楓はそれを計器の上、正面の空が一望できる場所に、そっと置いた。
まるで、失われた“誰か”の目を、空へ向けるかのように。
【……どうして、それ持ってるの?】
ノイズ混じりの声が問うた。
ハルカアオイだった。
「病院行ったときに、拝借ってか、盗んできた。……っつーか、元々オレのだしな」
【ふふっ、そうだっけ……。なんだか、みんな、また一つになれた気がする】
「だな」
楓は笑い、安全帯を締め、絞弁把柄に手を添えた。
「──よし!じゃあ……最高の景色、見に行くとしますか」
【……うん!】
滑走路が、地を揺らす爆音とともに消えていく。
機体は朝の空へ向かって、まるで“約束”に導かれるように飛翔した。
そして、急降下し地上すれすれを滑るように急旋回。
そのまま楓は、空に向かって宙返りのアクロバットを決めた。
「──な……なにを……!」
「やっぱりアイツ、最後の最後まで……」
士官たちがざわつく中、誰かがぽつりと呟いた。
楓の機体は、ぐるりと風を巻き込みながら、青空へと抜けていく。
──生きている。
──まだ、終わってなどいない。
To be continued…




