第二十五話「誰も知らない空の下で」
──空が、燃えていた。
鉛のような曇天に、火の粉が舞っていた。
湿気を孕んだ風が、焦げた機体の匂いを運ぶ。
エンジンの震動が、鼓膜の奥にまで響いていた。
操縦桿を握る楓の手が、機体の震えと共鳴して微かに震える。
彼はただ、前を見据えていた。
濁った海の向こう。
敵艦隊が列をなし、まるで無機質な壁のように静かに待ち構えている。
その向こうへ──仲間たちの小さな機影が、一機、また一機と吸い込まれてゆく。
「……行くなよ」
誰にも聞こえないほど小さく、楓はつぶやいた。
だがその声は、届くべき相手などいなかった。
いや──届いては、ならなかった。
これは“任務”。
楓の機体は偵察機。
仲間を導き、見届け、そして……決して介入してはならない存在。
最も残酷な役目だった。
雲の切れ間。
敵機が現れた。
三機編隊。
獣のように、鋭い軌道で楓を包囲する。
「……来やがったか」
楓の手元は揺れない。
視線も、恐怖すらも、まるで別の次元にあるかのように静かだった。
現代で磨いた反射神経と空間感覚が、骨と血にまで染みついていた。
機体は一気に上昇し、重力を裏切るように雲を突き抜け──次の瞬間には背面から急降下し、敵の射線をかすめながら抜ける。
視界の端で閃光が弾けた。
だが、被弾はしない。
「ふっ……やっぱ鈍ぇな」
敵機の一つが背後につく。
機銃の感触が指に伝わるが、引き金は引かない。
「……バババババッ、っとな──撃たねえよ、バーーーカ」
自嘲気味に笑いながら、機体を斜めに傾けてかわす。
死と隣り合わせの空で、軽口ひとつ。
──撃たない…殺さない。
──オレは、見せるために飛んでいるんだ。
その想いが、心の中心で静かに脈打っていた。
⸻
そのとき──
背後で、白く眩い閃光が空を裂いた。
仲間の一機が、敵艦に突っ込んだのだ。
爆音…振動……空が呻いた。
「……っ、バカやろう……」
楓は声を震わせ、唇を噛む。
指先に力が入る。
だが、それでも撃たなかった。
ただ見ていることしかできない。
仲間が、次々と散っていくその現実から目を背けられない。
彼は空に浮かぶ、唯一の“生存者”であり、沈黙の証人だった。
(……なんでオレだけ……生きてんだよ……)
ゴーグルの内側に、涙が滲む。
曇ったレンズの向こう、空はただ、青とも灰ともつかぬ色をしていた。
再び敵機が迫る。
楓は逃げず、あえて機銃の雨へと身を投じた。
撃たれようとも構わない。
仲間の亡骸に刃を向けさせぬよう、己の命で矢面に立つ。
「……ごめん……ごめんな……」
叫んだ声は、誰にも届かず、風に消えた。
最後の一機が、火柱となって崩れ落ちる。
──もう、誰もいない。
楓のまわりには、空と、雲と、死の残り香だけがあった。
無線は沈黙。
応答はない。
それでも楓は、ひとり空を舞い続けた。
帰還指令などない。
敵機はなおも追ってくる。
だが──もう、撃ち返す気はなかった。
いや……最初から、なかった。
戦うためじゃない。
殺すためでもない。
ただ、“空”を見せたかった。
まだ青を知らぬ誰かに。
地上に残した、あの人に。
──だから、飛び続けた。
海面すれすれを超低空できり抜ける。
雲をなぞるように旋回し、風の音だけが耳に残る。
“あの空”を──
“誰も知らない、大空”を──
この目と心に、焼きつけるために。
帰還したとき、楓の機体はほとんど壊れていた。
翼は穴だらけで、計器は狂い、燃料は底を尽きかけていた。
だが──彼は、
誰も、殺さなかった。
ただ──
飛び続けた。
それだけだった。
「…おい。……見ろよ。……弾が、全弾…残ってる。…
アイツ……一発も、撃たなかったのか……」
整備兵達が驚きの表情で青ざめていた。
To be continued…




