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第三十話「青の一滴、波の向こう」

あの日と同じ──冬晴れの朝だった。


昭和十六年十二月八日。

真珠湾攻撃が成功し、日本中が喝采に沸くその朝も、

この小さな定食屋では、いつもと変わらぬ一日が始まっていた。


炊きたての米が湯気を立て、味噌汁の出汁がやわらかく鼻腔をくすぐる。

柱時計が「コチコチ」と律儀に時を刻み、窓の外には霜柱を踏む足音が消えていく。


「ごはん、できたわよ」


台所から母の声が響く。

割烹着の白布が揺れ、湯呑みに注がれるお茶の音が、朝の空気に静かに染みこんでいく。


ちゃぶ台を囲む面々の中、ひとりだけ異質な空気をまとう少年がいた。


「……うまっ……! こりゃ、ごちそうだ……」


富神 颯。

その名のとおり、風のように現れ、今はこの家で朝ごはんをかきこんでいる。


炊きたての白米、甘辛いきんぴら、昆布の佃煮。

初めて口にする味に、彼はひと匙ごとに目を見開き、何度も何度も頷いていた。


「そんなに急がなくても、ご飯は逃げないわよ」


母が笑うと、颯は気恥ずかしそうに頬をかいた。


「ご、ごめんなさい……でも、うまくて……つい……」


「当たり前だ。母ちゃんの飯は、この辺じゃ評判なんだ」


父が新聞をたたみながら言うと、雪乃がふっと笑った。

その横顔には、懐かしさと小さな安堵がにじんでいた。


朝食を終えたあと、ちゃぶ台を拭きながら颯がぽつりと尋ねた。


「……ここに、しばらく…いてもいいの?」


湯呑みを手にした父は、短く頷いた。


「悪さをしなきゃ、それでいい。皿洗いでも掃除でも、やる気があるなら歓迎だ」


「うん! なんでもやるよ!」


そうして、颯の“日常”が始まった。


朝は仕込み、昼は接客、夕方には買い出し。

慣れない手つきで洗い物をしては、失敗して水を飛ばし、店中を笑わせた。


それでも不思議と、誰も怒らなかった。


彼がそこにいるだけで、この家には、どこか温かな“記憶にある風”が流れ込んでいた。

そう、あの頃のように。


その夜──


店を閉め、縁側に並んで腰掛けた雪乃と颯は、静かな星空を仰いでいた。


風が落ち着き、遠くからは汽笛の余韻が聞こえる。

焚き火のような月明かりが、ふたりの影を庭先に落としていた。


「……雪乃さん、ちょっと話していい?」


「うん、なに?」


「俺、小さい頃から……ずっと一人でさ、両親の顔も知らない。」


「うん…」


「でも……一人だけ、よく遊んでくれた近所の兄ちゃんがいたんだ。名前は、悠木 薫っていうんだけどさ……」


その名に、雪乃はかすかになぜか反応する。


「薫兄ちゃんは、空が好きでさ、紙飛行機を飛ばしながら、よく言ってたんだ。

“飛行機は、空を信じてるから飛べるんだ”って」


颯の目が、夜空を見据える。


「昨日、噂で聞いたんだ……その薫兄ちゃんが、真珠湾ってとこへ戦いに行ったって…零戦に乗って。だから昨日、兵隊のヤツらのところへ乗り込んだんだ。薫兄ちゃんを返してくれって。そしたら追いかけられて……」


彼の拳が、着物の裾をぎゅっと握りしめる。


「人が死ぬのは……嫌なんだ。でも、それが“当たり前”になるのは、もっと嫌だ…」


「……颯」


雪乃の声は、微かに震えていた。


「……薫兄ちゃん、生きて帰ってくるかな……」


静寂の中、風がひとすじ吹き抜けた。

ひらりと枯葉が舞い降り、ふたりのあいだに落ちた。


「──戻ってくるよ」


雪乃の声は、優しく、それでいて確かだった。


「その人は“空を信じてる”って言ったんでしょ?なら、大丈夫。空が覚えてくれてる。彼が見たあの空が、きっと守ってくれるから」


「彼?…」


「ううん、なんでもない」


颯は、小さく頷いた。

その目に、ふっと光が宿ったようだった。


縁側の木に、ぽたりと小さな雫が落ちた。

それは──涙か、あるいは夜露か。


けれど、確かにそこに残った“青の一滴”は、過去と未来をつなぐ“願い”だった。



夜の静けさに、どこか遠く、波の音が重なる気がした。


誰かがかつて願い、そして誰かがこれから託す空の色。


──青。

それは、奪われてはならない“記憶”であり、希望の名をした、“空”の名残だった。



To be continued…


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