第二十三話「遥か、向こうへ」
空は、もはや“青さ”という言葉さえ忘れてしまったかのようだった。
六月の湿気を孕んだ空気は重く、空全体が鈍く霞んでいる。
蝉の声すら、どこか遠くでくぐもっていた。
日本は、静かに敗北へと傾きつつあった。
だが、誰もそれを口にしようとはしなかった。
軍靴と命令が、言葉の自由を押し潰していたからだ。
──それでも、楓は飛んでいた。
茨城の山間にある特攻訓練基地。
畦道の奥、田植えもされぬ田んぼを囲むように広がる滑走路。
そこでは、毎日“死ぬための飛行”が繰り返されていた。
だが、楓の飛び方は──何かが違っていた。
爆音をあげて駆ける訓練機は、まるで生き物のようにしなやかに風を切り裂き、空を撫でるように舞った。
教本に書かれていない旋回角。
誰も教えていない重心移動。
それは、現代のゲームで磨かれた空間認識と反射の産物だった。
滑走路脇でそれを見ていた士官たちは、何も言えず目を見開いていた。
「……死なせるには、もったいないな」
誰かが、ぼそりと呟いた。
だが、その声は風にかき消されるように、空の彼方へと消えていった。
夜。
兵舎の窓からは、虫の声だけがかすかに入り込んでくる。
【ねぇ、楓。……最近、楽しそうだね】
ハルカアオイの声が、耳元に柔らかく響いた。
その声音には、どこか皮肉めいた笑みが混じっていた。
【まさかね、あのクソ将校に感謝することになるなんて……。こんなに輝いちゃって、生き生きしてるじゃん。】
楓は寝台に横たわったまま、乾いた笑いを一つだけ漏らした。
「違ぇよ。……違うんだ」
暗がりの天井を見上げながら、楓は低く、ゆっくりと言葉を続けた。
「……オレは、城が果たせなかったことをやる。それだけなんだ。その先がどこに向かっていたとしてもさ」
ハルカアオイは、一瞬だけ黙った。
そのあとで、少しだけ声音を変えて、尋ねる。
【……それで、どうするの? 城が果たせなかったことって何?】
楓は目を閉じ、言った。
「遥か大空の、もっと先──そこに、“本当の青”があるはずなんだ…その青をこの目で見なきゃな」
ハルカアオイは、ほんのわずか息を吸い込んだかのように続けた。
そして、そのまま優しく答える。
【……そっか。遥か先、本当の青──ね。……楓の翼なら、そこまで必ず行けるよ。私は……信じてる。》
その声は、どこか寂しげだった。
けれど、寂しさを隠すように、明るさで包んでいた。
まるで、“別れ”の先を、予感しているかのように──。
翌朝。
筑波の空は、まだ眠たげな色をしていた。
だが、滑走路だけはざわめいていた。
楓の機体が、地を蹴った。
乾いた音とともに土埃を巻き上げ、機体は低空のまま飛び立った。
「低すぎる……!」
「馬鹿か、アイツ! あんなの、教本にねぇぞ!」
士官たちの叫びが飛び交うなか、楓は地面すれすれを、滑るように駆け抜けた。
一度、旋回。
そして高度を下げた飛行は、さらに低い。
その飛び方は、もはや訓練ではなかった。
規律も、命令も、国の理も関係なかった。
──ただ、彼は自分の“感覚”だけを信じていた。
かつてゲームの中で手にしていた、“自由な翼”。
その記憶を、現実の空に刻み付けるように。
爆音を響かせながら、楓の機体は一気に上昇し、空へ、空へと昇っていく。
遥か、青い──
まだ誰も知らない未来の、その入り口へ。
To be continued…




