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第五章 崖に咲く花

 明け方、男を背負って隠し扉から帰ってきたエルデモーナを、部屋で待ち受けていたハンナは泣きそうな顔で出迎えた。

「エリー‥。無事で良かった、昨夜戻らないから心配したわ。」

「ごめんね、ハンナ。」

 エルデモーナは男の体をベッドに下ろすと、箪笥を探って二人分の着替えを取り出した。自分が着替えている間に、ハンナに薬と湯の支度を頼んでいる。

 男は高熱を発し始めた体がだるく、口も利けないし意識も朦朧としてきた。

「まあ‥。結局連れ戻してきちゃったのね‥。それにしてもひどい怪我、そこらじゅう痣だらけで腫れてるわ。エリー、いくら何でもここまでしなくてもよかったんじゃないの? ちょっとかわいそう‥。」

 エルデモーナは実用的な服に着替えると、振り向き、ぷんとふくれた。

「人聞きの悪い、わたしがしたんじゃないわよ。危なかったの、ロワに人狩りが入りこんでいたんですもの。」

 ハンナは驚いた顔でエルデモーナを見返し、嫌そうに顔を歪めた。

「人狩り‥? まあ、嫌だ! そんなおぞましい連中がユシュリスを渡ってくるなんて!」

 エルデモーナは手を念入りに洗うと、彼の右の掌に強烈な匂いのする薬をたっぷりとすりこんだ。男はあまりの痛さに思わず身じろぐ。

「ちょっと我慢してね‥。熱はこの傷のせいだから。毒が塗ってあったみたいね、肘まで腫れあがっちゃってる。解毒しないと。」

「毒?」

 包帯にする布を用意しながら、ハンナが心配そうに訊ねた。

「そう。大したものじゃないけどね。三日もすれば抜けるわ。」

 エルデモーナが説明した毒は猪を痺れさせるために使用されるもので、弱毒性の茸から抽出する。

「二、三時間したら切って膿を出すわよ。いいわね、アリュイシオン? それまでこれ飲んで寝ててね。」

 煎じた薬を無理矢理飲まされる。

 まもなく猛烈な眠気が襲ってきて、そのまま男は泥のような眠りに落ちこんでしまった。


 目覚めた時は汗をびっしょりかいていた。西日が横からさしこんでいて、枕元でうとうとしているハンナの頬を赤く照らしている。かなり長い時間眠っていたようだが、おかげで熱は退き、体も軽い。

 目を覚ましたハンナは顔の汗を拭い、額に当てられた熱冷ましの布を取り替えてくれた。それから少しずつ水を飲ませてくれる。

 たどたどしいロワ語で何とか礼を言うと、ハンナは少しはにかんだような表情を浮かべ、いいえ、と答えた。

「三日も眠っていたのよ‥。今、エリーを呼んでくるから。待ってて。」

 そう言い残してハンナは部屋を出た。

 ―――三日も眠っていたとは‥! 毒のせいか? 体が鈍っているせいか‥。

 右の掌を目の前に翳してみると、腫れはほとんど退いていたけれど包帯の下でずきずきと傷が痛む。切って膿を出すと言っていたから、完全に接着するまではあまり動かさないほうがいいのだろう。

 気がつくと枷も鎖も填められていなかった。

 ―――まあ眠りこけていたのだから、必要なかったか。

 帰ってくる途中、エルデモーナは男の質問に答え、旧ヴェルドキア領内での奴隷狩りについて説明した。

 人狩りを禁じているのはロワ、バルド他二、三の国だけで、その他の国、特にセルジアと国境を接している小国はみな認めているという。本来はヴェルドキア語以外を話せる者は身分を保証する、また話せない者も特別居住区となったワランド及びその近隣十か村に集め、公用語や風俗を強制するだけのはずだったのに、いつのまにか特別居住区は奴隷市場と化してしまったそうだ。

「たった半年で?」

 聞き返した彼にエルデモーナは皮肉な口調で答えた。

「一ヶ月後にはそうなっていたわ。ガレシス王は盟約など最初から護る気はないのよ。ヴェルドキアの傲慢はまだ品が良かったけれど、セルジアの傲慢は下品で醜悪。面と向かって言うなってヨナンが止めるから言わないけれどね。」

 彼女は静かに続けた。

「‥‥こんな、憎悪を駆り立てるような施策は不穏なだけよ。いずれ反動が来るわ。セルジアにだって、ヴェルドキア人の友人がいたり婚姻を結んだりした領民はたくさんいたはず。小国であればあるほど、ヴェルドキアの影響を受けずにはいられなかったのだから、人も慣習も風俗もたくさん混じり合っているのよ‥。それを人狩りだなんておぞましい連中を使ってまで、無理に消そうとしてもね。ガレシス王が亡くなれば抑えが効かなくなって、膨張した憎悪だけが残るわ。セルジアは結局方向転換するか瓦解するかしかなくなるわね。大国だけにほんといい迷惑よ!」

 ロワの女王は吐き捨てるように言い捨てた。

 最後の言葉は男の胸にずんと響いた。

 彼女からすれば、ヴェルドキアが内紛の末に自滅したのもいい迷惑なのだろう。ましてやセルジアと王家どうしの私怨が原因だったのであれば尚更だ。

 ロワは、と彼女は溜息をついた。

「今回の戦でロワの兵は強い、と他国に印象づけることに成功したと思う。兄さまから受け継いだわたしの使命は十分果たせたわね。次はヨナンの番。兄さまが考えていた、山岳民族から新しいロワ国への変革。これはヨナンにしかできないわ。」

 だが月明かりに微笑んだエルデモーナの瞳は、誇らしげな声音とは裏腹にひどく寂しそうに見えた。

 ―――考えてみれば‥虚しいだろうな。あの女の行動は、理に合っているようでどこか不自然だ。   

 今ぼんやりと思い出してみても、エルデモーナの行動は何一つ彼女の意志ではないような気がする。なくなった兄の遺志を継ぐのはある意味では彼女の意志だろうが、結果はどうだろうか。

 実際にロワの『赤い疾風』が女王自身であるとも、大陸最強のロワの騎馬兵団が天才的な戦上手である女王の存在があってこそだと言う事実も、まったく聞こえてはこなかった。先王が既に亡くなっていて、女王が即位していたことさえあまり知られてはいないだろう。あまりにも存在感が薄い。

 弟に譲位するための布石かもしれないが、ならば最初から弟を王位に就けて自分は補佐として将軍になれば良かったのにと思う。その方がすっきりする話だ。

 賢い弟が、姉は常はとても分別のある人だと評していたのを思い出した。

 聞いた時点ではまったく共感できない意見だったが、あらためて考えれば納得がいく。闘い方を見れば解る。冷静で視野が広く、決めるべき瞬間を決して外さない。無駄な動きは一切なく、まるで舞のようで非常に―――美しい。

 そこへ当のエルデモーナが走りこんできた。

 考えを廻らせている男にいきなり抱きつき、目が覚めて良かった、と微笑む。

 ―――なのに‥こんな無益なことを、弟を困惑させてまでなぜだ?

 愛していると言うが、男には愛される覚えはまったくない。嫌がらせとしか思えない。しかしそれならば、なぜわざわざ自分で捜して連れ戻す? 人狩りに遭おうがのたれ死にしようが、逃げた者など捨ておけばいいのだ。

 何か理由があるはずだと、無邪気を装った笑顔をつくづくと見た。

 春になったら解放するとの言葉と考え合わせて、春まで彼を生かしておくと有益なことがエルデモーナにはあるのだろう。いったいそれは何だ?

「なあに‥? わたしの顔をじろじろ見たりして‥。」

「別に。また鎖で繋がれるのかとうんざりしただけだ。」

「ふふふ。まあね、仕方ないでしょ? 今日はまだ弱ってるからしないけど。」

 それから彼女は彼の頬を両手ではさんで、髭が伸びたわね、と言った。

「おまえが何も刃物を置いていかなかったからだ。邪魔だが仕方がない。」

「だって、どんな小さな刃物だって危ないもの。わたしは嫌いじゃないけど、邪魔なら剃ってあげるわね。愛しいアリュイシオン。」

 ―――解らない。(なぶ)るのが楽しいのか? 

 確かに心底楽しそうに見える。

「温泉は衰弱した体の回復に効くのよ。きれいにしてあげるから、さあ行きましょう。」

 まるで猫が捕らえた鼠を嬲るようだ。男は心中で呻いた。


 その夜のことだった。

 王宮へ続く扉の近くで、話し声が聞こえた。

 宵のうちから男はまた眠りこんでしまっていたが、時折まるで言い争っているかのように高くなる声に目が覚めた。天窓から星の位置を確認すると、もう夜半過ぎだ。日付の変わった頃かもしれない。

 ベッドを抜け出てそっと扉に身を寄せる。

 ロワ語なので聞き取りにくいが、二つとも男の声だ。エルデモーナではない。

「‥‥わたしに任せろと言ったはずだ。これ以上の口出しは、いくらおまえでも許さない。」

 ヨナンの声のようだ。

「あなたは女王に甘すぎる。あの人の傍若無人ぶりにはいいかげんみな、我慢の限界なのです。」

「みな? みなとは誰のことだ、言ってみるがいい!」

 二つめの声はぼそぼそと名を挙げている。七人目か八人目くらいで、ヨナンはもういい、と止めさせた。

「‥‥エリーにはもう一度話をする。それでいいだろう。」

「よくありません。こんな事が知れれば、兵にも民にも示しがつきません。あのヴェルドキア人が、ウファルで何人同胞を殺したと思っているんですか?  誰も納得しませんよ。」

 ヨナンは詰め寄ったようだった。

「知れれば、だろう? おまえが喋らなければ知れるはずもない。ハンナにはもう口止めしたのだから。」

 ふうっと吐息を吐いたのはもう一人の男だろうか。

「俺は喋りませんが‥。こんな事はいつまでも隠せるものじゃないです。まったく、これだから女じゃだめなんですよ。ロワには女王じゃなく、王が必要なんです。俺たちは皆、あなたが王になるべきだと‥‥。」

「止めろ。」

「ですが、宰相‥。」

「止めろと言っている! おまえが今こき下ろしているのは、わたしの姉だぞ!もう‥‥たった一人しかいない、血縁だ‥。」

 沈黙が下りた。

 一人分の足音が去っていく。

 残った一人が深い溜息をついた。

 男は足音を忍ばせてそうっとベッドに戻った。

 扉の前の気配は立ち去る様子がなかった。

 残ったのはヨナンではなく、もう一人の方で、部屋の監視をしているのかもしれない、と思い始めた頃、誰かが近づいてくる足音が響いた。

 足音は扉の前で立ち止まり、何か訊ねる。エルデモーナの声だ。姉上、と答えた声はやはりヨナンの声だった。

「姉上。お話があります。これからこの離宮にはあまり出入りしないようにしていただけませんか。」

 エルデモーナは笑ったようだった。

「あら。またあなたに苦情がいったのね。どうせゲオリカでしょう? 直接わたしに諌言する度胸はないのかしら! ロワの男も肚の小さい男ばかりになったこと。」

「姉さん‥。お願いですから、わたしをこれ以上追いつめないでください‥。」

 ヨナンの声は疲れ切って聞こえた。

「追いつめるだなんて。可愛い弟に意地悪するわけないでしょう、ヨナン。‥アリュイシオンのことはわたしの問題。あなたが抱えこむことはないのよ。直接言えって突き返せばいいわ。」

 それからエルデモーナは冷たく聞こえるほど静かに言った。

「それより、ハンナとの婚礼式をいつにするのか早くお決めなさいな。わたしはいつでも承諾書に署名するわよ。‥‥まさかあなたが、ハンナを捨てるような真似はしないわね?」

 弟は一瞬だじろいだようだったが、すぐに言い返した。

「それこそわたしの問題です。ご心配なく。」

「そう? それならばいいけれど。わたしの行動を探るために彼女を利用したのなら、引っぱたくわよ。」

「そんなあさましい真似をしたのならば、喜んで殴られますよ。エリー、あなたの行動は探るまでもない、むしろ少しは隠して欲しいくらいです。どちらにしても‥知りたい事があればわたしは直接聞きます。」

 きっぱり言い切った弟の声に、エルデモーナはふふっと満足げな笑い声を立てた。うなずいたのだろうか。

 男はベッドでそっと目を閉じた。

 エルデモーナが入ってくる気配がした。足音を忍ばせてベッドへ近づいてくる。

 ラベンダーの香りがふわりと漂い、隣に寄り添う体温を感じた。

 エルデモーナはいつかの庭園の時のように、彼の腕にしがみついて肩に顔を埋めた。

 ―――また泣いている。

 どうしても理解できなかった。

 泣くくらいならば弟の進言を受け入れればいい。男には彼女が、駄々をこねてわざと弟を困らせているようにしか見えない。そんな女じゃないくせに、と違和感ばかりが募る。

 しかし声を忍ばせて泣き続ける女の、涙の温度に体が勝手に動いた。

 暗闇の中で男は寝返りを打って横を向き、華奢な首筋にさりげなく手を触れる。手の中でびくっと震えた感触に、なぜか無性に抱きしめてやりたくなり、小さな頭をかき抱いた。

 彼女はそのままじっとしていた。

 驚いているのか。それとも男が寝ぼけているとでも思っているのだろうか。

 ともかくも身じろぎもせず、腕の中で静かに丸くなった。

 ―――こいつも‥‥孤独なのだな。

 男はしみじみと思った。

 背負うものが多すぎて、護るべきものも多すぎて、しばしば孤独に立ち竦む。それでも手探りでも前へ進まなければならない、それが王の宿命だ。

 天窓から降り注ぐ星明かりの下で、腕の中の嗚咽は少しずつ静かになっていった。後には規則正しい寝息がこぼれる。

 ―――鉄枷と鎖が外れている間だけ、休戦としようか。

 男は静かに目を閉じた。


 右手の包帯が取れると同時に、エルデモーナは男の手足に再び真新しい鉄枷を填めた。むろん鎖もついている。

 以前と同じ虜囚の日々が戻ってきた。

 違うのは、食事を運んできて掃除をするのは、完全にハンナの役目になったことぐらいだ。

 男は表面上は、まるで逆らう気力を失ったかのように唯々諾々と従った。

 その裏で一人になる午後には庭に出て、ひそやかに筋力の鍛錬に努めた。

 物は考えようで、重い枷と鎖は鍛錬のための負荷だとみなせばいい。つけたままでもある程度自由に動けるように、更には武器代わりに使えるくらいにまで鍛えれば、エルデモーナに勝てる力が手に入るかもしれない。

 鍛錬は最初は転倒するばかりで、小さな擦傷や痣が体のあちこちにできた。

 エルデモーナは日が落ちてからやってくる。そのため部屋には蝋燭のか細い灯りか、せいぜい月明かりしかない。何も訊かないところをみるとたぶん気づかれてはいないと思うが、彼女のことだからはっきりとは解らなかった。

 枷を填められた日、彼は自主的に塔部屋に戻ろうとした。するとエルデモーナは苦笑いを浮かべて引き留めた。

「ハンナから聞いたわ。貴方の気持ちは気高いと思うけれど、現状では少しでも体を(いたわ)る方が意味があるんじゃない?」

 あの言葉を思い出すと、彼がひそかに筋力の鍛錬をすることさえ彼女の想定の内なのではないかと考えざるを得ない。

 実に腹立たしい限りだが、それでも男は黙々と励んだ。

春まで待つ気などさらさらなかった。

 四阿の下の出入り口は封鎖されてしまったが、逃げる経路はもう一つある。塔部屋へ続く階段下に隠された扉だ。埃だらけだった状態から推測するに、エルデモーナでさえ知らないという可能性は高い。

 ―――ここが長らく王家専用の離宮であったならば、脱出路はいくつあっても不思議ではないはずだ。

 こんな山の上の王宮で、敵に包囲された場合を考えぬわけがない、と男は思う。

 他にもないかと城壁のあちこちを調べてみたが、石を積みあげた壁に隙間はなかった。北西の隅までたどりついて、銃眼に足をかけて何とか城壁の上に腹を押し上げ、下を覗いてみる。

 だがやはり切り立った崖しかない。階段が刻まれている場所はなかった。

 諦めて下りようと真下を向いた時、ほんの数歩分だけ離れた岩の割れ目に紅い色が揺れて見えた。

 目を凝らすとそれは、崖の隙間に一輪だけ咲いた名も知らぬ花だった。

 鳥が種を運んできたのだろうか。下から煽りくる風にゆらゆらと絶え間なく揺れ動きながら、必死に耐えて咲いている。

 しばらく花に目を留めて、やがてゆっくりと城壁を滑り降りた男の頭上を、鳥が悠然と通り過ぎていった。

 翌日から男は、更に真剣に毎日体を鍛えた。

 ユシュリスを越えれば人狩り連中はもっとたくさんいるはずだ。ワランド周辺では、恐らく先日の連中よりもっと(したた)かで凶悪な者たちが仕切っているのに違いなかった。国を失った民が虐げられている実態をこの目で確かめるためには、何より必要なのは―――強さだ。

 ―――今度逃げる時には馬と、できれば爆裂玉か火薬を手に入れられたら‥。

 だが馬はともかくも、さすがに火薬や爆裂玉は厳重に管理されているだろう。誰にも気づかれずに手に入れる方法があるとは思えなかった。

 そこで爆裂玉の製造方法が記載されている本の内容を、丹念に繰り返し読みこんだ。せめて知識だけでも精確に頭に刻みこまなければならない。

 青い空を見上げ、澄んだ空気に気を引き締める。風はひんやりと肌を撫でていく。秋の気配はそこかしこで色濃くなり始めていた。

 冬になる前にはここから抜け出さねば。男は胸に言い聞かせた。


 エルデモーナには常に臨戦気分になるが、食事と掃除の世話にやってくるハンナに対しては、もっと穏やかな感情を抱いた。

 ヴェルドキア人は嫌いだと言いながら、動けなかった彼の看病を親身にしてくれた。また女王の弟でロワの宰相である男に想いを寄せているらしいが、彼女自身は立場を越えるつもりはまったくないようで、一生どこへも嫁がずエルデモーナの侍女でいるのだと洩らしていた。素朴で気立てのいい、正直な女だと男はひそかに感心している。

 だから自然と礼の言葉が口をついて出るし、話しかけられれば微笑を返したりもする。ハンナの方も、男が覚えたてのロワ語でたどたどしく礼を言うのが好もしいようで、最初の頃とは違い、だんだんと親しみのこもった言葉や態度を向けてくるようになった。

 素直な侍女は打ち解けてくると、彼の発する片言の質問に答え、いろいろな話を教えてくれる。利用したくはないので、彼から訊ねてみるのはたとえば言葉の表現であったり、見慣れない食べ物の名であったりと他愛もないことだ。しかしハンナは大抵、質問の答よりも多くの内容をとりとめなく喋った。

 おかげで思いがけなくいろいろなことが解った。

 エルデモーナはヴェルドキアから返された時、婚姻により国に貢献するという王女としての務めを、『不細工』なために果たせなかったから、今後は代わりに軍人になって兄を支えることにしたと宣言したそうだった。

 ハンナはびっくりして、今に噂も消えるだろうから何も女だてらに軍人にならなくてもと止めたのだけれど、彼女の決心は変わらなかったという。

 はたきを振り回しながら、ハンナは溜息をつく。

「まあ‥。病気がちだった兄君さまと違って、小さい頃から野山を跳ね回っているのが好きだったからねえ‥。実際にたいていの男より何でもできちゃうし。」

 思わずうなずいてしまったが、ハンナは気づかなかったようだった。

「だけど問題はね、エリーがすっかり自分を不細工だって思いこんじゃったことなの。わたしはヴェルドキアに同行していないからわからないけど‥。」

 そこでハンナは男を振り向き、ためらいがちに訊ねた。

「あんたも黒髪で濃い青い目をしているけど。ヴェルドキア人は黒くてまっすぐな髪ばかりなの? エリーの赤い髪ってそんなに‥‥そのう、ヘンに見える?」

 返事に困った。そこで意味が半分しか解らなかったふりをして、黒くてまっすぐな髪が多い、とだけ片言で答えた。

 そう、とハンナはまた溜息をついた。

「エリーに酷いことを言ったあんたの国の王子さまって‥。すごく強い軍人だったんですってね。『ヴェルドキアの黒い鷹』って呼ばれていたとか。‥‥エリーはね、ロワで剣士として名を挙げられれば、ヴェルドキア本軍に呼ばれることもあるんじゃないかって夢見てたみたい。そうなったら妃には入れなくても、お(そば)に仕えられるかもしれないでしょ? それでね、いつか命を助けて、酷いことを言ったのを後悔させてやるわ、とか言っちゃって‥。結局夢は叶わなくて、王子さまは戦死なさったそうだけど。」

 後悔ならばたっぷりしている―――つまりエルデモーナの夢は叶ったわけだ。

 半分はひとりごとみたいに喋った後で、ハンナは同情的な視線を男に向けた。

「あんたは‥まあ、顔が似てたせいでとばっちりだけど。でもエリーはあんたが思うよりずっと、気の優しい人なの。ヴェルドキア人だっていうだけで殺されちゃうような、こんな荒んだ世の中から保護している意味もあるのよ。そのうちきっと外に出してくれると思うわ。」

 男はハンナの慰めに曖昧な微笑を返した。


 またある時、エルデモーナが二晩続けて顔を見せないことがあった。すると翌朝ハンナは、代わりに言い訳するようにもめ事があったのだと彼に説明した。

「エリーとヨナンさまの意見が合わないのよ。そういう時はたいてい、他の方々はみんなヨナンさまを支持するの。でもエリーが譲らない場合‥‥会議は長くなるのよ。」

 手際の良い手つきで拭き掃除をしながら、困った顔をしてつぶやく。

 ハンナのつぶやきを拾って整理してみると、どうやらロワでも女王は初めてで、エルデモーナの即位は兄である先王の遺言だったためにしぶしぶ承認されたようだ。だが他の主だった家臣連中は、女だてらに戦を率いる女王の存在が今ひとつ気に入らないらしい。

 ではなぜ先王は先例を破って、弟ではなく妹に譲位したのだろう?

 その答は簡単に得られた。

 ロワ王家の血統はエルデモーナの母が継いでいて、やはり女王即位に難色を示されたため有力氏族から婿を取って王としたのだという。ヨナンは先先代の王、つまりエルデモーナの父が王妃の侍女との間に設けた庶子で、王家の血統を外れているため、王妃の存命中は王位継承権を認められていなかった。

「今はね。エリーが婿なんか取らない、自分で王位に就くって決めた時に、正式にヨナンさまを王位継承者に指定したのよ。エリーはヨナンさまが王宮に迎えられるずっと前から、弟としてすごく可愛がっていたから‥。先王さまもそうね、とっても信頼なさってて相談役としてお(そば)に置いていたわ。」

 先王は病の床で、エルデモーナに対し、婿を取らずに自分で王位に就き、頃合いを見てヨナンに譲位するようにと伝えたそうだ。急遽即位してまだ四年、妃も迎えていなかったため、このままではエルデモーナの婿に入る氏族に王権を奪われると危惧したらしい。ヨナンに継承権を認めなかった王妃は、その数日前に息を引き取っていた。

 ハンナの話の中では、ヨナンは非の打ちどころのない人間だった。

 賢くて、いつも落ち着いていて、身分の上下に関わりなく誰にでも分け隔てなく優しい。態度は毅然としていて、おまけに容姿端麗だ。

 うっとりとほめあげてから、少し気恥ずかしげに、みんながそう言ってる、とハンナは付け加えた。

 ハンナの心情は無邪気なものだが、男の脳裏に浮かぶロワの宰相は、怜悧で明察な男だ。情で動くようにはまったく見えなかった。微妙な立場に生まれ、幼い頃から苦労をしているだろうから、(おの)ずと他人の機微(きび)を掴むのに()けているには違いない。だがどうやらあの男も、エルデモーナには頭が上がらないようだった。

 ―――追いつめないでくれと言っていたな‥。エルデモーナはいったい、弟に何をさせようとしているのだろう?

 どうやら自分の存在を、政争に利用されているようだと思えば面白くない。

「ハンナ‥。宰相の、恋人?」

 ためしに訊ねてみたら、ハンナは耳の付け根まで真っ赤になった。根が正直なので違うともそうだとも言えないらしく、口ごもっている。

 ―――奴隷相手に何ともまっすぐな女だ。関係ないと切り捨てればいいのに。

 人が良すぎると呆れながらも、枷と鎖をつけられた異国人をちゃんと人として見てくれる誠実さに、少しだけ救われた気がした。

「‥‥ヨナンさまはそう言ってくださるけど‥。でもわたしはとても王妃になれるような身分じゃないし。ロワではヴェルドキアみたいに妃を何人も持つ慣習はないし‥。身を退く覚悟はね、できてるの。」

 ハンナは自分に言い聞かせるように、やや震える声で話した。

「今ももうヨナンさまには、ロワの十八ある氏族のあちこちから氏族長の娘との縁談がきているわ。最も有力なのは、ゲオリカ将軍のお嬢さまで‥。十六だけどとてもきれいな方。将軍はヨナンさまのお小さい頃に後見をしていたし、王妃さまが婿を迎えた時、王さまと最後まで争った方だそうだし。エリーはもったいぶってて好きじゃないって言うけれど、重い立場なんだからあんまり軽いのもねえ、どうなのかしら? 立派な方なのだと思うわ。」

 正式に決まれば、自分はもうヨナンとは逢わないつもりなのだと、寂しそうにハンナは付け加えた。


 夜風が冷たく感じられるようになったある晩、いつもよりずっと早い時刻にエルデモーナが入ってきた。

 顔を見るなり思い切り眉をひそめた男に、彼女は苦笑いを向けた。

「相変わらずひどい人ね‥! いきなりそんな顔しなくてもいいでしょう?」

「‥おまえを見て微笑む気分にはなれないな。」

 靴を脱いで服を着替えたエルデモーナは、あはは、と笑った。

「最近ハンナとはすっかり仲良しみたいじゃない? ハンナってば貴方のこと、微笑んだ顔は品がいいのね、とか言ってたもの。わたしは見た事ないって言ったら、ごめんねですって。」 

 それから彼女は男の腕を掴んで、庭の湯浴み場へと引っぱっていった。

「今夜は満月で、空がとってもきれいなのよ。知ってた?」

 月明かりの下でやけにはしゃぐ彼女の顔は、顔いっぱいに笑みを浮かべているくせにどこか寂しげに見える。また何事かあったのだろうと察するが、所詮はロワ内部の話で、ロワ人ではない男には無関係だ。

「‥‥理解できない。」

「ん‥? なあに。」

「おまえのやっていることは、俺には無意味に遊んでいるだけにしか見えない。だが‥‥ほんとうはそんな女じゃないのだろう?」

 エルデモーナは面食らった顔をした。

「たった今は‥遊んでいるだけよ。貴方には不愉快かもしれないけど。」

「‥‥こんなことのどこが楽しい?」

「何度も言ってるじゃない、愛してるのよ。アリュイシオン。」

 頬を指でなぞって、唇を重ねてくる。

「だからそれが無意味だと言っている。俺は女に好かれたことなどない。ましておまえには、恨まれる理由しか思い当たらない。‥‥いい加減に本音を言え。何のために俺を生かしておく?」

 エルデモーナの緑色の大きな瞳は、月光を宿して燦めいた。

「だって‥何人もお妃がいたでしょ? その方たちはみな貴方を愛していたはずよ。そんな言い方、あんまりじゃない?」

 男は呆れ顔で軽い溜息をついた。

「おまえはいろいろと勘違いしている。王家の婚姻では好悪(こうお)の感情は二の次だ。少なくとも俺の室に入った女はみな、王太子だったから嫁いできたんだ。俺は宮宰長が選んだ女だから抱いただけで、美人も何もない。あの日機嫌が悪くなければおまえのことも妃にしただろう。それだけのことだ。」

 エルデモーナはまじまじと彼を見返し、一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた。

 男は淡々と続ける。

「妃たちも誰一人、俺を愛しているなんて戯言(たわごと)を口走った者はいない。正妃は顔を見れば冷たくて情がないと俺を責めた。弟が王太子だったら幸せだったのにと口を揃えて言っていたよ。弟は俺とは違い、誰にでも本心から優しい人間だったからな。」

 いきなり首に両手を回して、エルデモーナは強く男を抱きしめた。

「アリュイシオン‥。じゃあ‥王太子ではない貴方はどこにいたの?」

「は?」

「どこかにいたでしょ。王太子じゃなくてひとりの人間として、素直に感じたり考えたりした時間があるはず。それはどこにいた時?」

「‥‥何の話だ。意味が解らない。」

 エルデモーナは顔を上げて彼を切なげに見つめた。

「十年前にたった一度だけ会った貴方は、堂々として輝いて見えた。澄んだ青い瞳にとても力強い光が宿っていて‥。この上なく美しいと思ったのよ。」

 彼女はじっと見つめたまま、何度も何度もまばたきを繰り返す。

「心を持たない人にあんな輝きは宿らないわ‥。ウファルでも貴方の瞳には変わらぬ強さが輝いていた。王太子の(しる)しは何も身につけていなくても、あの戦闘で貴方の声と戦う姿勢に兵は鼓舞され、士気を取り戻していたじゃない? 報告を後方で聞いて、わたしは貴方を‥‥誰とも解らぬ勇敢な兵を仕留めるために出ていったんですもの。あの時の貴方は誰? 貴方の心はどこにあるの?」

 男はエルデモーナの手を強く振り払った。

「俺は‥ヴェルドキア人だ。今はそれだけだがそれでいい。」

 ウファルではただ祖国のために戦うことしか考えていなかった。死ぬつもりだったからだ。しかし生き残ってしまった今はどうなのだろう?

 身分がなくとも名がなくとも―――俺は俺だ。

 男は肚の底からそう思う。

 エルデモーナは月光を浴びてにっこりと満面の笑みを浮かべた。

「そう‥。そうなのね。‥貴方がどう思おうと、やっぱりわたしは貴方が好きだわ。腹づもりなんか何もないの、ただ少しでも長く一緒にいたいだけよ。運命の許す限り。」

 濡れた赤い髪がきらきらと輝いて、夜風にふわりと揺れた。

 エルデモーナは緩やかなしぐさで再び男を抱きしめる。

 ふと断崖の岩の割れ目に、ぽつんと咲いていた紅い花を思い出した。

 あの花も今頃は月光を浴びて輝いているだろうか。それとももう枯れてしまったのか。

 頬に触れる柔らかい髪。

 月明かりに浮かびあがるその色は、なぜだかやけに儚く美しく、まるで満月に酔ったかのように、男は衝動的にその髪にそっと口づけた。

 エルデモーナは気づかないまま嘆息をこぼす。

「アリュイシオン‥・。ほんとは‥憎まれない程度に好かれたかったけれど。まあ、今更無理だものね。」

 仕方がないわ、と女王は、ぽつんとつぶやいた。

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