第六章 山犬狩り
その日は朝から風がざわめいていた。
山の上の庭園にも、麓で何か騒いでいる大勢の声が切れ切れに届く。
ハンナは朝の掃除に来なかった。何事かが起きたようだと男は気を引き締める。
昼を過ぎた頃、麓で騒いでいる声が静かになった。その前に軍靴の音がうっすら響いていた気がするから、民衆を軍が黙らせたのかもしれない。とすればかなり不穏な事態だ。
エルデモーナが飛びこんできたのは、それからまもなくのことだった。
施錠して男を振り向いた女王は、裾の長いひらひらした服に返り血を浴びて、血ぬれた抜き身の長剣を手に提げていた。
彼女は剣を放り出し、まっすぐに彼の元へ走りこんで抱きつくと、息の止まりそうな激しい口づけをしてくる。そして懐から鍵を出し、彼の手足を自由にした。
「ごめんなさい‥。何とか春まで護りたかったのだけど、できなかった‥。」
それから衣装箱をひっくり返し、上等な白いシャツとなめした革でできた膝丈のジャケット、ズボンを出した。更に靴下やごつい戦闘用のブーツも出してきて、彼に押しつける。
「急いで着替えて。兄のだけど、背丈は同じくらいだからたぶん合うはず。」
男が着替えている間に、彼女はもうひと組着替えを出して、背嚢に詰めると、今度は化粧台の引き出しから、金と銀の小粒がはいっている袋をそれぞれ取り出して、路銀にして、と短く言ってやはり背嚢に詰める。
「ヴェルドキア貨幣が使用禁止になったので、こういう方が使いやすいの。」
最後に衣装箱の底から彼女が取り出したのは、柔らかい布に厳重にくるまれた長剣だった。ヴェルドキア王家の父方と母方の二つの家の紋章が柄に刻まれた、彼の―――エフェルネイド・リュシアンの持ち物だった剣だ。
「これを‥どこで?」
エルデモーナは自分も戦闘服に急いで着替えながら、ヴェルデ・ダラッドの王宮だと答えた。
「王妃さまのご寝所で。亡骸の横に置かれていたの。貴方の身分を証明するものが必要になる時のために、と持って来たのよ。‥‥あの世でお会いできたら、ごめんなさいって謝るわ。」
振り向いて笑った彼女は、男の手を引っぱって庭園へ行き、四阿の隠し扉を封鎖している板をバリバリと音を立てて剥ぎ取った。ぽっかりと通路が開く。
「早く! 今ならまだ、敵の準備ができていないわ。厩はわかるでしょ? わたしの馬が引き出してあるから、あの子に足で敵う馬はいないの。お願い、逃げて! ヴェルドキアの民には貴方が必要なの、どうか生きのびて運命をその手につかみ取って。」
男は背を押されるままに階段をまっすぐ駆け下りた。
何が起きているのか解らぬまま、ただひたすらまっすぐに走り抜けていく。
頭の中ではエルデモーナの言葉が、何度も何度も繰り返し響き続けていた。
春まで護れなかった。身分を証明するものが必要になる時のために。ヴェルドキアの民には彼が必要。
―――自分が滅ぼしたくせに‥なぜだ? ガレシスに利用されたことを悔やんでいるのか。
いずれセルジアに対抗させるために残したのならば、なぜわざわざ離宮に囲い、鎖で繋いだのか。
客分で軟禁して、ロワへの敵対感情を薄めるよう努めるのが常套だろうに。
弟はそうした。セルジア一国に男の恨みが集中するようにと、ヴェルドキア滅亡の日の話をしたのだろう。だが彼女はなぜか話したがらなかった。
山の中の通路を西へと走りながら、男の胸にはエルデモーナのやけに明るい笑顔が浮かびあがってくる。
厩前の草地には、見覚えのある大きな白い馬が引き出されていた。
厩番の姿は見えない。
手綱を手に取って首を撫でると、賢い白馬は彼を背に乗せたことを覚えているらしく、大人しく撫でられている。
ふと兵士らしい数人の話し声が聞こえた。急いで馬を連れて、厩の後ろに身を隠す。
「厩を見張れってさ。何のためだ?」
「さあ‥。街にはヴェルドキア人がいたら取り締まれって命令が出たらしい。ヴェルドキア人なんか、今どき珍しくないだろうによ。」
三十半ばくらいの兵士が二人、小さい声で話しながら厩の前を早足で通り過ぎた。後から若い男が追いつく。女王は病気らしい、と声がした。
「三年前に王さまと先王妃さまが亡くなった病な。ほら、王家の血だけに過剰反応起こすとかいう、『呪い』の病だが、あれがまた山の上を襲ったそうだよ。」
「はあ? それで今朝、エルデモーナさまの姿が見えなかったのか?」
「前回はエルデモーナさまは遠征中だったから無事だったんだものな‥。宰相は王家の血じゃないし。」
若い男はうなずいた。
「今度は鳥が井戸に落ちたんじゃなくて、ヴェルドキア人が持って来たとかいう話だ。」
「それでシーナの街で騒ぎが起こってたのか‥! でも難民が山の上にどうやって病を運ぶんだ? ヘンじゃないか?」
「何にしても‥あの丈夫な方が病とはね! まさしく『呪い』だ。どこから湧いたんだが、ほんとのところは解ったもんじゃねえ。‥毒じゃないのか?」
若い兵士がしっ、と唇に指を当てた。
「言葉にしちゃだめだってば‥。粛清されるよ。」
「ふん‥。三年前のカレル医師みたいにか? 王さまを治せなかった責任を感じて首をくくったって話だったが、口封じだって専らの噂じゃないか。」
「くそったれめ! 女だろうが何だろうが、あの方より強い戦士はいやしねえ。将軍だの隊長だの束になったって敵うもんかよ! 」
兵士たちは厩の出入り口の前で足を止め、一応監視する位置についた。
年嵩の兵士二人は、声をひそめながらもまだ何かブツブツ言い続けている。
男は少しだけ考えた後で、白馬に跳び乗ると、手綱を引き脇腹を蹴った。馬はひと声いななき、軽やかに走り始める。
兵士たちが気づいて、慌てて追ってきた。
「馬が! 女王陛下の馬が盗まれたぞ! 追いかけろ!」
男は振り返りもせずに、南西の森へと白い馬を疾走させていく。馬はどんどん速度を上げ、その姿はあっという間に遠く小さくなっていった。
エルデモーナは男が消え去った石段の前で、しばらく佇んでぼんやりしていた。
行ってしまった―――胸にこみあげる寂寥感をじっとかみしめる。
仕方がない。鷹は大空を切り裂いて飛んでゆくもの、いつまでも地に縛りつけておくわけにはいかないのだから。
それから部屋に戻り、男の脱いだ服と枷と鎖を衣装箱に収めた。
「ふふ‥。愛してるってあんなに言ったのに。とうとう信じてもらえなかったわね。まあ‥‥仕方ないけど。」
エルデモーナの胸に、十年前のヴェルデ・ダラッドの日々の記憶が一気に押しよせてくる。
初めて見る華やかな都。大きくてきらびやかな宮殿。誰も彼もが美しく見えた。
その中でひときわ、華々しく称えられていた王太子エフェルネイド七世。学問も武術も何もかも秀でて、姿は凛々しく美しい。噂を聞けば聞くほど憧れは強くなり、その方に輿入れする自分は何と運がよいのだろうと―――無邪気に信じた。
数ヶ月前に二の妃として入ったというバルド王国の姫に会った。
よろしくお願いしますと頭を下げたエルデモーナを、頭からつま先までちらりと見遣り、その姫は美しい顔を振り向けて鷹揚に微笑んだ。同じ年だというのにもうすっかり大人の体つきをした、気の強そうな姫だった。
―――あの方は‥一の妃より先に王子を生んで、絶対に正妃になってみせると仰ってたけれど、ほんとうに正妃になったと聞いた。
男がただ一度だけ、エルデモーナを抱きしめてくれた夜があったが、あの時彼は誰の夢を見て、誰の代わりに抱きしめてくれたのだろう。
愛情など誰にも期待したことはないと彼は言った。
けれどそんなはずはない。
鉄枷をつけたままぎりぎりの状態で逃げている最中だというのに、通りすがりの他人を助けるために、武器を持った凶悪な連中に迷わず立ち向かう。ただ同国人だというだけの理由で。そんな熱い人が、心から冷たいはずがない。
一族すべてが殺されたと聞いて、体の傷より心の痛みに堪えきれず涙をこぼしていた背中。ずっと―――国に返されてからも、噂を聞くたびに憧れ続けた通りの、強くて熱い人だとしみじみと感じた。
―――返されたけれどわたしは‥あの人の許婚だもの。一生、他の人には決して嫁がないと決めたのだから。
ほんの数ヶ月。運命が最後に贈ってくれた夢。かなり無理矢理だったけれど、そばにいられたから幸せだった。
―――さて。わたしはわたしの宿命をゆかなければ‥。
彼女は自分の剣に付着した血を拭い、革の胴着を身につける。
離宮の扉の前にはすでに、幾人もの気配と微かな鎧の音が聞こえた。
三年前にはいったん呑みこまなければならなかった、母と兄を謀殺された恨み。私怨で国を傾けてはならぬ、と死の床で兄は言い遺した。
だがどうあっても消えない、暗い憎しみは胸にひっそり燻り続けた。はらすための、これが最後の機会だ。
エルデモーナは扉の鍵を開けた。
そこにいたのは数人の見飽きた顔と、彼らの従えている全部で十数人の私兵たちだった。
ゆっくりと見まわして、想定通りの面々がすべてこの場にいることを確認する。
「武装した兵を連れて王宮に上がるとは! この謀叛の首謀者はあなたたち? でもこの顔ぶれで、近衛隊を破ってこられたとは信じ難いのだけれど?」
たっぷりと皮肉をこめた声に、中央にいた初老の男があからさまな嘲笑を浮かべた。
「近衛隊は我らを通したのだよ。つまりは誰も、おまえを王とは認めていないということだ。ロワに女王は要らぬ、これが我々の総意なのだ。」
エルデモーナは嘲笑に嘲笑で応じた。
「氏族長会議の総意というにはかなり人数が不足しているわね、ゲオリカ? この場にいない他の全員の血判書でも持っているわけ? それともとうとう呆けちゃったのかしら?」
ゲオリカはムッとした表情で見返した。
「我々は代表だ。それに話し合いに来たわけではない。」
兵たちがいっせいに剣を構え、前へと出てエルデモーナを取り囲んだ。
「なるほどね。力ずくってことか。」
エルデモーナは冷ややかな視線を兵たちに向け、無礼者、と叱責する。
「退がりなさい‥! さもなくば切り捨てる! 覚悟がある者は前へ!」
言い終わらぬうちに打ちかかってきた一人を、一刀のもとに切り捨てた。そこへいっせいに十数人の兵士たちが斬りかかってくる。
エルデモーナは躊躇なく彼らを次から次へと確実に仕留めていった。
すべて斬り伏せた後、剣をぶん、と振って血を払った。
傾き始めた西日が窓からさしこみ、返り血で真っ赤に染まったエルデモーナの全身を映し出す。
残った謀反人代表たちは息をのんで、立ち竦んだ。
憤怒あるいは不安。彼らの表情はほぼ半々だ。
一瞬の静寂の中で、通廊の奥の王宮へ繋がる扉がぎいいっ、と重い音を立てて開いた。
静かに入ってきた男へと視線を止め、エルデモーナはにっこりと微笑んだ。
「ヨナン‥‥。待っていたのよ。愛しい弟。」
女王の弟は苦笑いを浮かべて、姉を見返した。
男は森へ駆け込むと、馬の足を緩めた。
一小隊くらいだろうか、追っ手が森へ入ってくる気配を確認して、こんもりと繁った太い枝に跳び移ると、馬の尻を蹴って再び前へと走らせる。そして自分はもっと高い所へよじのぼって、白馬の後を追いかけて兵士たちが通りすぎるのを見送った。
男は木から下りると、兵士たちとは逆の方向へ走って森を抜けた。王宮のある岩山の前に戻って、今度は北西方向へぐるりと回っていく。
王宮の東南に位置するシーナの街の、ちょうど真裏に当たる北西の崖下に、目当ての小さな水路を見つけた。水は岩山の中から鬱蒼とした藪を抜けて、北方の山々の谷間へと吸いこまれるように流れていく。
崖下にぽっかり開いた水の出てくる穴を覗いてみた。間口はわずか十歩分程度、高さも彼の背丈の二倍くらいしかない小さな穴だ。
―――あった。ここだ。
男は迷わず中に入る。そこは前に見つけておいた地下の船着き場だった。
立てかけてある小舟を水に下ろし、古びたもやい綱を杭に繋ぐ。中をあらためて十分使用できる状態なのを確かめると、荷物を舟に置き、くるんでいた布から剣を取り出した。そして奥にある螺旋階段を勢いよく駆け上がった。
何のために戻るのか。
自分でもよく解らなかった。ただ何かが心にひっかかっていた。確かめておかなければまた後悔する―――たまらなくそんな予感がする。
鉄枷がないおかげか、このところの鍛錬のゆえか。山の上まで一気に走り抜けると、男は音を立てないようゆっくりと隠し扉を開いた。揺らさぬように注意しながら、体を壁と緞帳の間にすべりこませる。
こっそりと様子を窺うと、エルデモーナの凛とした声が扉の外で響いた。
男は静かに緞帳の後ろから部屋の中に出て、うっすらと開いた扉の影から通廊を覗いた。
剣を手にしたエルデモーナの背中が見える。
足下には―――何人もの屍体が転がっていた。二十くらいだろうか。エルデモーナが始末したのだろうが、みなほぼ一撃で絶命したようだ。
エルデモーナの声が再び聞こえた。
「さて。もう盾はいなくなったようだけど? ふんぞり返った男どもがこれだけ雁首並べて、女はだめだと大声でわめきながら、『小娘』ひとり殺すのに自分たちで始末する自信はないの? こんなかわいそうな兵を盾にしないで、さっさと自分で剣を抜いたらどう?」
せせら笑う声に、彼らはそれぞれ怒りを露わにしている。
男は、少し離れた場所に立っている金髪の男に目を遣った。あれはどちらについているのだろう?
将軍だか大臣か知らないが、ここにいるロワの重臣と思われる連中は全部で七人。十八氏族すべてが叛旗を翻しているわけではなさそうだが、彼らの様子から察するに、エルデモーナに加勢する戦力はないのか、あるいは不在か。とにかくこの場に駆けつけてくる見込みはないようだ。
中心にいるのはゲオリカと呼ばれた将軍か。その横に立つ男は顔がそっくりなのところを見るとどうやら息子らしい。二人ともあの程度の挑発に真っ赤になって怒りを隠せないほど単純だ。その他もざっとみる限り、大して肚が据わっているふうにも見えない。
ではこの謀叛の黒幕はむしろ賢い宰相だろうか。目的は何だ?
エルデモーナは挑発を続ける。
「筆頭氏族の長の家に生まれたくらいで、何を思い上がってるのかしら、ゲオリカ? この際だから聞くけれど、エセル人に父上をだまし討ちにするよう持ちかけたのはあんたでしょ? あの時に叛逆罪に問うべきだったわ。ちょっと頭に血が上って、証言させるべきだったのを討ち取ってしまったものだから‥。」
ゲオリカは、得意げな顔で彼女を見下ろした。
「ふふん‥。イヴァン族みたいな辺境の氏族から王が立つことじたい間違っていたんだ。先王はともかくおまえは父親そっくりで、しかもロワ王国始まって以来の不名誉な王女だ。国民はみな、おまえを恥だと思っている。恥を知るならば、ヴェルドキアから戻る途中で自決するべきだったものを。」
「見解の相違ね。国を裏切って敵国に王を暗殺させるほうが、よほど恥知らずだとわたしは思うわ。自分が認めないから王ではないですって? 厚顔無恥の極みだわ、頭がおかしいんじゃないの。」
エルデモーナは高らかに嘲笑し、ゲオリカ以外の他の連中を順々に見た。
「あなたたちもエセル人に通じていたの? どうなのよ?」
彼らは不安げにもごもごと知らない、などと言い訳をしている。
金色の髪の宰相は―――微かに頬を強張らせたけれど、すぐに無表情に戻った。
将軍が声にならない怒りの呻り声を発し、剣に手をかけたのを、隣に立っていた息子が制止して自分が剣を抜いた。
「父上。この女はわたしに殺らせてください‥。まったく、こいつがでしゃばらなければ騎馬兵団はわたしが率いるはずだったものを!」
エルデモーナは返事さえしなかった。鼻で笑っただけだ。
扉の陰から見ていた男は、将軍の息子がウファルで自分が仕留め損ねた騎馬兵団の将であることに気づいた。あの男の首めがけて放った矢は、走りこんできたエルデモーナによって弾かれたのだった。彼女がいなければ今頃命はなかったものを、と皮肉な気分で見守る。
男の予想した通り、エルデモーナはあしらっているだけだった。
将軍の息子は、自分では対等に渡り合っているつもりなのだろう、笑みさえ浮かべて剣を振り回している。
―――あいつは隙だらけなのを自分で気づいていないようだ‥。技倆の差さえ見切れないとは、ロワの騎馬兵団も副将以下はこんな程度か?
ならば指揮官がいなくなれば、大した脅威ではなくなる。
不意に、エルデモーナが将軍の息子を大きく弾きとばした。そして身をかわす。通廊の右奥、柱の陰から槍が飛んできたのを避けたのだ。
槍の出所は男の視界からは死角になっている。
たった一本の槍ということは―――潜んでいるのは一人か。
エルデモーナは壁に突きささった槍をちらりと見た。
「セイン‥。この槍は何? 誰を狙ったのかしら?」
柱の陰から背の高い、褐色の髪の男が出てきた。どこかで見たような顔をしている。
「まあ‥どちらも、と答えましょうか。」
セインと呼ばれた男は、無様に床に転がっている男へ軽蔑の視線を向けた。
「な‥なに!」
立ち上がりながら、将軍の息子と傍らの将軍は怒りで今度は青ざめている。
「無能な大臣たちも、色狂いの女王もロワには不要です。エリー、貴女は先の戦では英雄でしたが、女の本能に抗えないようじゃ国にとって邪魔なだけです。敵国の捕虜、しかもヴェルドキア人なんかにのぼせ上がるとは‥! 国のためにさっさと死んでください。」
淡々と話すその声に聞き覚えがあった。いつかの夜、ヨナンと言い争っていた声だ。
エルデモーナはあははっと笑った。
「セインらしいわね‥。実直でまっすぐなロワの男の典型。女心は全然解らないって威張ってるんだから、あはは。‥‥ロワのために死ぬ覚悟はとっくにできてるわよ。でもその前に。ヨナン、あなたに聞きたいことがあるの。」
彼女は剣をすっとまっすぐ構えた。
斜め後ろから見ている男は、思わず感嘆の吐息をつきそうになった。エルデモーナの構えにはまったく隙がなく―――非常に美しい。
左隅で終始沈黙していたロワの宰相は、姉に静かに顔を向けた。
「何でしょう‥‥姉さん。」
「この場にいる連中が、三年前母さまと兄さまに毒を盛った。あなたはその事実を知っていたの?」
じりじりとゲオリカ親子へ間合いを詰めながら、エルデモーナは軽い口調で訊ねた。
ゲオリカの周りにいた連中は後じさりしながら、離れて恐る恐る自分も剣を抜く。こっそり逃げ出そうとした二人を、出口の前に陣取っていたセインが斬り捨て、退路を塞いだ。
ヨナンは姉をじっと見つめ、口を開きかけて逡巡した。
エルデモーナは静かに続ける。
「カレルは殺されると気づいて、兄さまに告白したそうよ。ゲオリカに脅されてレイカを盛ったと。それからこの場にいる連中の名も。」
レイカとは山犬を毒殺するために使う毒だ。男が読んだ本の中では平地の民が使用するものだとあった。腸に溜まり、激しい嘔吐と痙攣を繰り返させて短期間に急速に体を衰弱させていく。
そこへ打ちかかってきた将軍の息子を、エルデモーナは今度はあしらうことはせずにばっさりと一刀で切り捨てた。
ゲオリカ将軍は崩れ落ちた息子の姿に、あっと息をのみ、顔を真っ赤にしてエルデモーナを憎々しげに睨みつけた。
ヨナンは深呼吸を一つして、姉に劣らず静かな声で答えた。
「三年前ご報告したとおりです。わたしは病気が広がってから、兄上に呼ばれて山の上に来ました。兄上の指示通り、病気の元となった東の井戸を洗浄させ、カレルの処方した薬を皆に飲ませて‥‥。それで皆は良くなりましたが、王妃さまと兄上だけが回復なさらなかった。」
エルデモーナはゲオリカが盾にした一人を頭から切り下げた。
あと三人、と血飛沫を浴びた顔でつぶやく。
悲鳴が聞こえ、残った一人が剣を放り投げて出口へ疾走した。すかさず待ち構えていたセインがあっさりと打ち果たす。
盾にした男が崩れ落ちる背後から、ゲオリカが繰り出してきた突きをはらりと弾きかえして、エルデモーナは将軍を蹴りとばし、その反動でくるりとヨナンを向いた。切っ先が弟の鼻先でぴたりと止まる。
「兄さまは、ヨナンが途中で気づいてくれたから、わたしと話をする時間が残ったとおっしゃったわ。陰謀に加担してはいなかったとしても、気づいたのならなぜ、母さまと兄さまに解毒薬を飲ませなかったの? なぜ母さまに‥大量の眠り薬を与えて死なせたの?」
「姉上、でもわたしは‥。」
エルデモーナの背後から、セインの剣が襲いかかった。
彼女は肩ごしに受けとめると、弾きかえしてその反動で跳びずさり、間合いを取った。
間髪入れずに二の剣、三の剣、と素早い突きが彼女を襲う。しなやかな動きがすべてを受けとめて、返していく。
―――なるほどあのセインという男が、騎馬兵団の二番手なのか。お互いに癖も弱点も知りつくしているようだが‥。エルデモーナの方がまだ分があるな。
ヨナンは心配そうに闘いの行方を見守っている。
不意に、闘っている二人の前に火のついた爆裂玉が投げこまれた。
先に気づいたエルデモーナはセインに叫んだが、彼は気づかない。そのまま剣を打ち込んでくる。次の瞬間、爆発が起きた。
反射的に扉の陰に身を寄せたものの、男は急いで再び覗きこむ。
白煙がもうもうと立つ中、床にエルデモーナとセインが倒れていた。
どうやらエルデモーナはセインの剣をはたき落として、庇って床に身を伏せさせたらしい。
爆裂玉を投げたのはゲオリカらしかった。
将軍は通廊の奥の、王宮への扉前に立ち、ははは、と笑い声をあげた。
「ヨナンが王妃に眠り薬を飲ませたのは、せめてもの慈悲というものだ。王妃はヨナンにとっては、自分と母親を王宮から身ひとつで叩き出した憎い女だ。恨んでいても無理はないだろう? 見殺しにせず、楽にしてやっただけましじゃないか。」
エルデモーナはゆっくりと立ち上がった。
さきほどセインの剣をわずかに避け損ねたのか、左眼の上がざっくり切れて血がだらだらと流れている。
―――あれはまずい‥。流血が目に入っては死角が多くなる。
だがあふれる血を拭おうともせず、エルデモーナはぐっとゲオリカを見据えた。
「ゲオリカ。あんたにヨナンの何がわかるの? 知ったような口をきかないで!」
「わしは後見人だ。追い出されて行き場のない二人を保護したのも、わしだからな。」
将軍は横柄な口調で答える。
金髪の宰相は緊張した面持ちで唇を噛みしめ、黙ったまま動かない。
「勝手に名のっただけでしょ。いつまでも恩に着せて、この後はヨナンに娘を押しつけ、王家を乗っ取ろうとでもいうつもりなんでしょうけど。おあいにくさま、そんなことはさせないわ。」
女王は転がっていた剣を拾い、かちゃりと握り直した。
「あんたはここで終わりよ。覚悟しなさい!」
「な、何っ‥! このあばずれめ!」
ゲオリカは狼狽と怒りに顔を歪め、剣を振りかざしてエルデモーナに向かってきた。
弾きかえした女王はそのまま踏みこんだ。
老将軍は頭に血が上っていても、さきほどの息子よりはずっと確かな剣の腕を持っているようだ。返しの剣を払いのけ、後ろへ大きく跳び退いて近づきすぎた間合いを広げる。
一方でエルデモーナはじりじりと間合いを詰めてゆく。
詰め寄られて後じさりするゲオリカは、再び王宮への扉を背にしている。もうさがる場所はない。
だが男は、ゆっくりと間を詰めていく足つきが常になく不安定に見えることに気づいた。よくよく見れば彼女は腰の少し上あたりに火傷を負っているようだ。
思わず険しい顔になる。あの将軍程度ならば何とか仕留めるだろうが―――その後はどうするのか。
男はヨナンをちらりと見た。
ロワの宰相は立ったまま腕組みをして、血の気の引いた緊張気味の顔で見守っている。どちらにも汲みする気はまったくなさそうだ。
そうか、と男はやっと気づいた。
この謀叛を仕掛けたのはエルデモーナ自身なのだ。
弟は先王を謀殺した謀反人たちを引っぱり出す役を振られ、自分もいやいや引っぱり出されてきたので見届け人と決めこんでいるわけだ。
―――最初から‥死ぬつもりなのか。
セインはまだ気を失ったまま倒れている。だがこちらは怪我はなさそうだ。
エルデモーナはなぜ、自分に剣を向けた部下を身を挺して庇ったのだろう? むろん有能な部下を弟に残すために違いない。なぜかといえば―――弟を愛しているからだ。
両親と兄の仇敵をあぶり出し、無念を晴らし、更に国内の膿を一掃させてから弟に譲位する。しかも女王である自分の存在さえも、国の安定にとって不穏材料と見なしてついでに抹消するつもりなのだろう。
何て不器用な女なのだろう、とつくづく思う。
まるでまっすぐしか進めない猪のようだ。行き先が崖であっても突き進むしかなかったのか。
男は自分の剣をぎゅっと握りしめた。
打ちかかってきたゲオリカの剣を受けとめたエルデモーナは、わずかに腰がふらついて、膝をついた。その隙に間合いを取った将軍は、上から振りかぶってくる。辛うじてはねのけたエルデモーナは体を回転させて、蹴りを入れた。
一方で気を失っていたセインは気がついたらしく、ゆっくりと上体を起こし、頭を振っている。
エルデモーナが剣を振りかぶって、ゲオリカの上方から跳びこんだ。
決まったかと思った瞬間、ゲオリカの薙ぎ払った剣を空中で不自然に避けたために、左肩から床に落ち、どうっと音を立てて倒れた。
―――何だ‥? いつもならば決めているはずなのに、どうした?
左肩を押さえ、うっと呻いたエルデモーナの上に剣が振り下ろされる。
男がはっと思った瞬間、何かが柱の陰から飛びだしてきて将軍に体当たりした。
「エリー‥! 大丈夫?」
「ハンナ‥なんでここに‥。山を下りなさいって言ったのに‥。」
それはハンナだった。泣きそうな顔でエルデモーナの額の血を拭っている。
―――なるほど彼女が柱の陰に見えたためか‥。
あのまま切り下げれば、ハンナが剣の軌道に入ってしまうから、空中で体を入れ替えようとしたわけだ。爆裂玉で怪我をしていなければ、何てことはなかっただろうが、と男は無意識に唇を噛みしめる。
「ハンナ!」
冷然と立っていたヨナンが急に慌てた顔で、だっと走り寄った。
セインも急いで起き上がった。
しかし頭に血の上った将軍が、この女、と叫んでハンナの背に剣を振り下ろしてきた。エルデモーナが片手で剣を出し、必死に弾きかえす。
「邪魔だ‥どけ!」
固い軍靴で蹴りとばされたハンナは床に頭を強かにぶつけ、気を失った。
ハンナ、と叫んで起き上がったエルデモーナの背中を、剣が薙ぎ払う。
「ハンナ!」
ヨナンが駆けよってハンナを助け起こした。
ハンナの蹴られたこめかみから血が滴り、赤く腫れ上がっている。
「ふん。どうせその女は用済みだ。さっさと始末してしまえ、ヨナン。」
ヨナンはハンナをかき抱くと、怒りのこもった視線をゲオリカに向けた。
「‥‥あなたの指図は金輪際受けません。まっぴらだ。」
「なに! 王宮から放り出されたおまえの母親とおまえを、引き取って面倒見たのは誰だ? 恩義を忘れたのか?」
「たった今忘れました。あなたは父と兄の仇だ。」
ヨナンはきっぱりと答えた。
激高してヨナンを振り向いたゲオリカの背中を、辛うじて体を起こしたエルデモーナの剣がまっすぐ貫いた。どばっと血を吐いてゲオリカは前に崩れ落ちる。
エルデモーナは気力を振りしぼってゲオリカにとどめを刺すと、握っていた剣を手から落とし、再び倒れた。うう、と呻いて仰向けになる。呼吸は荒く、全身が血まみれだ。
セインがすっと傍らに立った。
「エリー。お疲れさまです。妹が出てきたのは想定外でしたが‥。ゲオリカと相打ちになるのは期待どおりでしたよ。」
冷ややかな声で言いながら、セインは嘲笑を浮かべた。
「‥‥貴女とは一騎打ちで闘いたかったんですけどね。とどめを刺させてもらいます。」
ハンナを抱きかかえたヨナンにセインを制止する素振りはまったく見えず、静かに視線を注いでいるだけだ。
―――最初から相打ちが狙いとは‥! 姉の挑発に渋々乗ったわけではないということか。
エルデモーナの意識は既に朦朧としているようだった。聞こえているのかいないのか、目を閉じてぐったりとしている。
男の胸にわけのわからぬ怒りがこみあげた。
彼は扉をすり抜け、強く床を蹴って一気にセインの前に跳躍すると、振りかぶった剣を手から弾きとばした。エルデモーナを背に立ちはだかる格好で、セインの首筋にぴたりと刃先を当てる。
「‥‥一騎打ちで闘いたかっただと? ふん。爆裂玉にも気づけず庇ってもらった未熟者が、偉そうな口をきく。」
彼は驚いているセインの肩を突きとばし、剣を拾え、と命じた。
「代わりに俺が相手をしてやる。おまえなど『赤い疾風』の足下にも及ばないと教えてやろう。」
「‥‥このっ! 死に損ないのヴェルドキア人め!」
「セイン! 止めろ、その男は‥‥。」
ヨナンの声は刃のかみ合う激しい音でかき消えた。
弾きかえした剣をそのまま鋭く突き出してくるのを、右へ左へと男は翻弄するように払い、逆に踏みこんで突きを繰りだす。そして仕上げに相手の剣を上へ大きく跳ねあげると、懐に飛びこんで剣の柄で思い切り腹を打った。
セインはぐはっ、と一声上げて血を吐き、ばったりと前へ倒れた。
「ロワの騎馬隊も、どうやら『赤い疾風』を欠いては先は見えているようだ。‥‥そうではないか、ロワの新王?」
切っ先をヨナンにそのまま向けると、金色の髪の男は端正な顔を困惑に歪め、なぜ、と訊ねた。
「あなたは‥‥逃げたはずだ。報告では姉さんの馬に乗って逃げたと‥。」
「この女には恨みがある。晴らさずに逃げるはずがないだろう? 」
「ならばどうして、セインの邪魔をしたのです?」
「気に入らないからだ。」
男はヨナンの胸ぐらを掴んで立たせた。床に横たわったハンナがう、と呻き声を上げる。
「エルデモーナを斃すのは俺だ、雑魚どもに殺られてたまるか。それにおまえの遣り方は気に入らない。兄姉を殺して王位を簒奪するなら、せめて血塗られた手で自分が正義だと堂々と主張してみろ。」
「あなたに何が解る!」
ヨナンは男の手をすり抜け、叫んだ。
「この三年‥姉さんはわたしを決して許さなかった。でもわたしは‥精一杯助けようとしたんだ、あの冷たい王妃でさえも!」
金色の髪を振り乱して、ヨナンは剣を構える。
「自分が毎日飲ませていたのが毒だと知った時の、わたしの気持ちが解りますか? 生まれついての王家のあなたに、庶子で臣下の半端者の気持ちなど解るはずはない! あの状況で毒だと誰かに知れれば、どう考えても疑われるのはわたしだ‥。だから一人で何とかしなければと必死だったんだ。」
ヨナンの剣を持つ手は震えていた。さっきまでの無表情さとうってかわって、激しい苦悶の表情を浮かべている。
「王位など望んだことはない! わたしは王の弟で十分だった‥。兄さんは王としても兄としても素晴らしい人だった! 生きていて欲しかったんだ! ‥だが街育ちのわたしには、毒の種類も解毒方法も解らなかった。誰かに訊けば怪しまれるから、この離宮に忍びこんで本を漁り、レイカだと突きとめ、やっと解毒薬を作ったのに‥‥もう手遅れだったらしい。王妃に飲ませたら反作用で、凄まじく苦しんだ。見ていられなくて‥死ぬと解っていて眠り薬を大量に飲ませた。兄さんには‥怖くて飲ませられず、何も‥何一つ手を打てなかった‥‥。」
ヨナンの叫びは、既に意識のない姉に向かって必死に訴えているようだった。
男は剣をもぎ取り、平手で頬を思い切り殴った。
「今更誰に言い訳をしている? もはや兄も姉もいない、おまえが王だ。孤独に耐えられねば、いずれその手で国を滅ぼすことになる。」
そう言うと、二度、三度と殴りつける。
「‥ハンナに恩があるから、おまえもセインも命だけは取らないでいてやる。ハンナに感謝するんだな。」
返事を待たずにみぞおちへ拳を入れると、気を失ったヨナンをハンナの横にどさっと放り出した。
それから背後のエルデモーナの横に跪いた。
弱いが脈は安定している。出血はさほど多くない。
彼女の血まみれの袖を千切って目蓋の上にぱっくり開いた傷をとりあえず強く縛り、肩を身体の下に入れて背に担ぎ上げた。
すると背後で、男を呼びとめるか細い声がした。
「待って‥。エリーをどこへ連れて行くの‥?」
たった今目を覚ました様子で、ハンナが顔を上げてこちらをじっと見ていた。
ハンナは更に何か言いかけて、隣に倒れているヨナンに気がつく。
「あっ! ヨナンさま‥ああ、どうしよう! ヨナンさま!」
「大丈夫。生きている。」
涙に濡れた顔を上げ、ハンナは男を再び見た。
男は黒褐色の潤んだ瞳をまっすぐに見つめ返し、セインを指さした。
「兄さんか‥?」
うなずいて、ハンナはうなだれた。
「こいつも生きている。あとはすべて死んだ。」
「なんで‥こんなことに‥。エリー‥。」
あふれる涙を床にぼたぼたとこぼしながら、ハンナはヨナンの頭をかき抱いた。
じっと見ていた男は、やがてくるりと背を向けて離宮へと向かう。
いったんエルデモーナをベッドに下ろし、血まみれの服を剥がし始めた。するとそこへハンナが無言で入ってきた。
ハンナは唇をきっと結んで、泣き腫らした赤い目のまま、手早くエルデモーナの手当にかかった。清潔な布を何枚も出してきて薬を塗り、傷に当て、目蓋と背中と腰に晒をきっちりと巻いてくれる。
男はその間に箪笥から適当に服を一掴み出し、治療の終わったエルデモーナを服ごと毛布でくるみこんだ。
「エリーを‥‥連れて行くの?」
エルデモーナを両腕で抱き上げた男に、ハンナは再び問いかけた。
「ロワにはもう、こいつの居場所はない。ならば‥拾っていく。」
何とか切れ切れに、たどたどしいロワ語で伝えると、ハンナの瞳からまた新しい涙がこぼれだした。腫れたこめかみが痛々しい。
男はハンナの頬の血を指で拭い、微笑んだ。
「おまえは宰相のそばにいろ。身を退いてはだめだ。」
「え?」
「あの男は弱い。おまえが必要だ。決して離れるな。」
理解したのかどうか不明ながらも、ハンナは一生懸命何度もうなずいた。そして目をつり上げた必死な顔で男を見上げる。
「あんたはもしかして‥‥本物? ほんとうの、エリーのアリュイシオンだったの?」
つかのま躊躇した後で、男は小さくうなずいた。
そしてぐっと身をかがめて、隠し扉の中へと飛びこんだ。
エリーをお願い、とハンナの声が聞こえた気がした。
腕の中の体温が十分温かいことになぜかすごく安堵して、しっかり抱え直すと、螺旋階段を急ぎ小走りで下りていく。吸いこまれそうな暗闇の中を、何とか下りきって、大きく息をつき、小舟に乗りこんだ。
エルデモーナを横たえ、もやい綱を解いた。小舟は緩やかに動き出す。
前に見えるのは、すっかり日の落ちた暗碧の空とぽっかり浮かんだ白い月だけだ。水は切り立った北の山々へ向かって流れこんでいく。
―――すべての流れはユシュリスへ向かう。
たとえ回り道でも、今は時間が必要だ。毛布から覗く赤い髪をちらりと見遣り、男はゆっくり小舟を漕ぎだしていった。




