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第四章 人狩り

 まだ星が残るうちに男は、四阿から隠し階段を下りた。

 手足を拘束する枷と鎖は相変わらず重くうるさいが、今はどうでもよかった。

 昨日見つけた木の扉を開け、山の中に掘られた通路へと出る。

 通路というよりも岩だらけの洞窟のようだ。地面は荒く(なら)してあり、微かに空気の流れを感じる。壁に灯りはなかった。

 闇の中を壁を伝いながら、西だと当たりをつけた方向へ必死に進む。

 やっとのことで暗闇から月明かりの中へと出た時にはほっとした。予想したとおり、厩が近いようで馬の気配と匂いがする。

 しかし男は馬を諦め、城内から出る場所を探した。手はまだしも足の鎖があっては馬には乗れない。

 このあたりはまだ王宮のある岩山の一部で、城の南西部中腹に位置する。シーナの街からの目線で言えば、王城の脇腹といった感じだろうか。市街地へ向かう道はさきほど彼が歩いてきた通路しかないようで、東南の方向には高い城壁と切り立った崖しかない。

 北西方向は深い森へと繋がっている。城壁はなく、簡単な木の柵が立てられているだけだ。

 山の上から見ていた景色と照らし合わせると、この森は北西部に連なる険しい山々への入口に位置すると思われる。

 男は木戸の閂を外し、城の外へ出ると、夜明け前の薄闇にも関わらず思い切って森の中へと飛びこんだ。

 ―――どうせ後はない。獣に引き裂かれようとのたれ死にしようと、それが定めならば受け入れるのみだ。

 入ってみると森の中は人の手が入っていて、下生えが刈られ、踏みならした細い道ができていた。進んでいくと枝を打ち落として積んだ場所もある。

 男は耳をすませ、神経を張りつめて周囲の気配を探りながら進んだ。

 木々の合間から覗く星空は少しずつ明るくなってきている。

 夜行性の獣もそろそろねぐらに戻った頃合いだと思うが、油断は禁物だ。

 途中で物置のような小さな小屋を見つけた。

 狩り小屋か、森の番小屋だろうか。人が寝起きするような造りにはなっていない。狭い中にやっと数人が座れるような腰かけ台があるだけだ。

 運のいいことに男は、薄闇の中で(なた)を見つけた。

 何度も叩いてやっとのことで鎖を断ち切った時には、既に夜はすっかり明けていた。小屋の窓からうっすらと朝日がさしこんでいる。鉄枷を填めたまま、男は鉈を手にして小屋の外へと出た。

 ―――今からではもう、厩へ戻るのは危険だ‥。

 森の中に続く細い猟師径(みち)をそのまま奥へと進んだ。

 弓矢があれば良かったのだが、それでも鉈があるだけまだましだ。

 途中でむしった細い木蔓で長く伸びた髪をくくり、更に足に穿()いている華奢なサンダルの上からもしっかりと巻きつけた。

 サンダルは素足で逃げる気にはならなかったので、部屋にあったエルデモーナのものを持ち出した。革製の長靴は足枷が邪魔だっただけではなく、小さくて履けなかった。同じく革の胴衣も細すぎて諦めた。背丈は彼と大して変わらないくせに、意外と足や腰は普通の女の大きさなのだと思えば少し不思議な気がする。そう言えば首を締め上げた時、すいぶん細い首だと驚いたのだった。

 径はまもなくなくなった。

 鉈で枝を打ち払い、太陽の位置で時々方角を確認しながら、ともかくもただひたすら歩き続ける。

 前方にやっと明るい光が見えた時は、正直なところほっとした。

 出たところは小さな沢だった。

 細く速い湧水の流れが目の前を横切っていて、跨いだところには崖が切り立っている。水の流れてゆく先には岩ばかりの下り道が続いていた。

 男はとりあえず少し休むことにした。

 着ているのは寝間着みたいな薄衣(うすぎぬ)一枚だから、そこらじゅう擦傷だらけだ。

 幽閉されていた間に読んだ本の知識を頼りに、森の中で採取した木の実を少しだけ口に含む。熟し切っていない夏の果実は青臭い味がした。

 湧き水は美味しかった。顔や火照った手足を冷たい水で洗い、さっぱりすると、気分も自然と落ち着く。

 昨夜の嵐が嘘のように、空は青く澄み切っていた。

 高地の風は涼やかに吹き渡っている。

 枷はまだ着いているが鎖はもうない。自由だ。

 男は風を思い切り胸に吸いこんで、気を引き締めた。

 ―――まだ逃げ切ったわけではない。ここはまだ城の目と鼻の先だ。

 ともかくもエルデモーナが帰国する前にできる限り遠くへ逃げなくては、と自ずと心は急いてしまう。

 水はどうやら南へ流れていた。

 男は地面に略図を描いて位置関係を確認した。頭の中に嘗て学んだ北方地方の地図を呼び起こす。

 ―――このまま流れに沿って南下すれば‥サルベか。宿場近くへ行けば蹄鉄屋を見つけられるかもしれない。

 鉈で叩いて鎖は切れたが、頑丈な鉄枷は傷もつかなかった。蹄鉄屋ならば焼き切るか、あるいは鍵を作れるだろう。

 エルデモーナが口にした二重税がほんとうならば、サルベでのヴェルドキア人に対する感情はあまり期待できない。どちらにしても対価になるものなど何も持たない身としては、野盗の真似事をして脅すしか方策はなさそうだ。本意ではないがやむを得ない。

 サルベからどこへ行くのか。

 ともかくもヴェルドキアへ―――旧ヴェルドキア領内へ行こう、と男は決めた。

 たった半年余りで祖国がどう変わったのか、自分の目でどうしても確かめたい。腹の底からぎりぎりと絞り出すようにそう思った。


 男は流れに沿って、岩ばかりのごつごつした荒れ地の丘を下っていった。

 北国とはいえ、さえぎるもののない真夏の太陽はじりじりと暑い。

 やがて細い流れは別の細い流れが幾本も合流する場所へとたどりついた。どうやら下りきったようで、そこから先は草地と点在する森の、どこまでも平らかな地面が続いてゆく。

 日は西へだいぶ傾いている。

 合流してやや広くなった名もない川は、やはり南へと流れていた。

 北方山脈から湧き出た水は途中で何度も合流しながら、やがてすべてが大河ユシュリスへと流れこむ。エルデモーナの言葉が頭の中をよぎった。

 男は水の流れの合流地点である淵まで下りると、今下ってきた方角を振り返った。岩だらけの低い崖には、鳥が巣を作りそうな窪みがたくさんあった。身を隠すのにはちょうど良さそうに思える。

 夜をその場所で過ごすことに決め、暮れなずむ西の空を見上げた。すっかり暗くなってしまわないうちに、できることをしなければならない。

 とりあえず近くの森で火を使わずに食べられそうなものを探し、腹に収めると、なるべく高い位置にある深い窪みを探して体を横たえた。

 体はずっしりと疲れていた。数ヶ月ぶりに一日中体を動かしただけでなく、手足に填められた鉄の枷が(おもり)となって疲れを倍加した。それでも戦場暮らしの長かった男の体は、眠りに落ちようとする意識をちゃんと半分に留めている。

 せめて火を熾すものがあれば獣避けになったのだが、鉈を見つけた狩小屋には火打ち石は置いていなかった。そう言えば洞窟の通路にも壁に灯りを置く台はあったけれども、蝋燭も火打ち石もなかった、と半睡のままぼんやりと思う。

 ―――あの通路の近くに‥火薬を作っている加工場があるのだろう。たぶん北側だ‥。もしかしたら出入り口は森で隠しているのかもしれない。だから火の気は置かないようにしているのだ。

 夢かうつつかわからないまま男は考えた。

 火薬の材料には木炭を使用する。彼は森を下る方向へ歩いたが、上へ登っていったなら炭焼小屋があったのかもしれない。

 遠くで山犬か狼の吠え声がした。

 意識を戻してしばらく気配を窺ったが、近づいてくる様子はない。危険はなさそうだ、と再び目を閉じる。

 全身に戦士としての緊張感が戻ってきたようだった。

 それとともに苦い思い出が半分の夢に混じりこんでくる。

 サルベールとともに戦場を駆けめぐり、先頭に立って戦った日々。連戦連勝の中でいつか若い二人はヴェルドキアの獅子と鷹、と呼ばれるようになった。

 父である国王の視線が冷ややかになったのは、いつ頃からだったろうか。

 彼が凱旋するたび父は深い猜疑の視線を向け、彼の言葉は一つも届かなくなった。十八の初陣の時には、無事で帰ったというだけで満面の笑みで迎えてくれたはずなのに、いったいどこからすれ違っていたのだろう。

 母は彼に落ち度があると責めた。しかしサルベールは、国王は華々しい活躍を見せる王太子に嫉妬しているそうだと言った。浅はかにもそうかもしれないと考えた自分がいた。

 サルベールにその考えを吹きこんだ者は、彼に対しても熱心に『決心』を迫った。国のために国王を誅し王位に就け、と。

 彼には結局できなかったが、今から思えばあの者は、父王に対しては逆に謀叛の計画があると告げたのだろう。台頭していたロワの騎馬兵団に備えるため特別編成した第二軍を、あんな惨めな敗北へと追いやり、見捨てた理由は、父王が第二軍を反乱軍であると認識していたせいだ。

 ―――狙いはヴェルドキアというより、父上だったか‥。俺は(めしい)同然だ‥。

 宰相イメリス、ヴェルドキアの第一権力者。国王の側近中の側近だ。

 あの者が国を滅ぼす理由など想定できなかった。ゆえに見誤った。

 タリエルの言葉に耳を傾ければ良かったのだ。

 賢い弟は彼に向かい、しばらく戦場へ行くのを止め、王都に留まりもっと父王と直接話をする機会を増やすべきだと進言した。いつも笑みを絶やさない優しい顔を珍しく曇らせて、はっきりと名を挙げてあの者の言葉づてに語らせてはならぬとそう言った。

 ―――弟の言葉だから‥軽視したのだ。

 兄と慕うサルベールの言葉はまっすぐ受け入れ、無意識に下に見ていた異母弟の言葉は聞き入れなかった。

 第一軍への従軍は突然命ぜられた。

 第二軍はサルベールに任せ、第一軍をいずれ引き継ぐべく副将として戦えとの命だった。実際は暗殺が目的であったのだろう。敵地での孤立、裏切り。しかし彼は再びサルベールと合流するまでは、と必死で生きのびた。保身しか考えぬ暗愚な将軍は国王の意志だと信じていただろうが、真実はどうなのか。今となってはもう決して知ることはできない。

 タリエルは―――エフェルネイド・タリエルは、王太子となってわずかひと月足らずで死んだ。エフェルネイド・リュシアンが王太子の称号のもと、戦績とともに積みあげた怨恨を背負って、代わりに―――首を刎ねられたのだろうか。

 ―――頑迷な兄をさぞ恨めしく思ったことだろう‥。

 唐突に夢の中に、賢い弟がいるからいずれ国を譲るのだと言ったエルデモーナの声が紛れこんできた。それとともにヨナンの顔が浮かぶ。

 だがなぜかヨナンはタリエルとは重ならなかった。タリエルはむしろ、顔も知らないエルデモーナの兄と印象が重なる。どちらも死んだ人間だからなのか、それともヨナンの宰相という地位のせいか。

 ―――そうか‥。エルデモーナは‥ヨナンがいずれ譲位を迫ると予見しているわけだ。賢い弟は姉の心情を読んでいて‥だから怖いのか‥。

 支離滅裂に何事かを納得して、夢はとりとめなくロワから故国の平原へと移っていった。

 狩りに出て、初めて野外で寝た少年の日。

 胸苦しいほど懐かしく愛おしい夜。

 やがて暁の光と鉄枷の重みで男は目覚めた。

 淵へ下りると冷たい水で顔を洗い、夢の残骸をきっぱりと振り払う。そして先へと歩き始めた。

 

 その日も晴天だった。

 道も地図もなく、出会う人もなく、何の宛てもなかったけれどただひたすら前へと歩いた。時折振り返れば、遠くに山々が見える。とにかくロワから離れなければとの一心で歩いた。

 太陽の位置が南中をやや過ぎた頃、前方に崖が見えた。

 ちょうど地面がこんもりと盛り上がっていて、手前では岩肌が見えているが、天辺には緑の草が生えている。もとは巨石だったところに土と草が貼りついたみたいな崖だった。川は崖に沿って緩やかに蛇行して流れている。

 たどりついてみると崖は高さがちょうど、男の背の五倍強といったところだろうか。それほど高くはない。

 川の流れていく方に従って反対側を覗くと、樹木が十数本ばかりまばらに立ち並んだ草地が広がっていた。

 男は手前側に戻り、日ざしを避けて岩陰に身を寄せて腰を下ろした。

 酸っぱい果実を口に含みながら、拾った小枝で地面に地図を描いてみる。

 サルベ領全体が今ではロワ領だ。ロワの国境を越えるためには、大河ユシュリスを東へ渡らねばならない。それから再び南下して、アマサへ行く。徒歩ではまだひと月はかかる道程だ。

 ―――舟があれば、ユシュリスまでもっと早くたどりつけるのに。

 あるいは馬があれば、と男は唇を噛んだ。

 その時不意に馬のいななきが聞こえた。

 男は地面に描いた図を足でかき消し、岩陰の窪みに身を寄せて息をひそめた。

 馬の足音が聞こえる。複数だ。

 川の曲がり角を越えたすぐの草地に、馬を停める気配がして、人の声がした。どうやら馬に水を飲ませているらしい。

 男は岩をよじ登り、身を伏せて崖の上から様子を窺った。

 ほんの七十歩ほどの近い場所に二人の男がいて、馬に水を飲ませている。そこへ荷馬車がやってきた。また荷馬車とは違う方向から、一頭の馬が疾走してくる。

 荷馬車から降りた二人の男のうち、白髪まじりの男が馬を外して川岸へ連れて行った。恰幅のいい髭もじゃの男の方は、先に来ていた男ふたりに何か声をかけている。

 ―――セルジア語か‥。どうしてロワにセルジア人が?

 武人ではないだろう。弓矢と剣を携えているが、猟師でもなさそうだ。隊商の護衛にしては街道を遠く離れている。盗賊か。受ける印象はそんな感じだ。

 そこへ追いついてきたひとりが、馬から跳び下りると笑いながら仲間に声をかけた。中年の、頬に傷痕のある男だ。

 笑った男は馬に、縄で縛って猿ぐつわを噛ませた女をくくりつけていた。女は怯えた様子で遠目にも解るほど震えていた。

 捕まえた、と言っているようだ。セルジア語ならば少しは理解できる。

 傷の男は女を馬から下ろすと、荷馬車の荷台に乱暴に押しやった。

 悲鳴と泣き声が聞こえる。

 女の声で、捕まってしまったのか、と嘆く声がした。

 ―――ん? ヴェルドキア語か。

 全身が緊張した。

 ハンナの、『家畜のような扱い』という言葉が耳に甦る。

 目を凝らすと荷台には中年の女と老人、それから今連れてこられた女が身を寄せ合って震えていた。

 「男はどうした?」

 髭もじゃの男が訊ねると、傷の男は肩を竦めた。すると先に来ていた二人のうち、まだ若い少年のような男が顔を赤らめながら、崖から落ちた、とつぶやいた。

 髭もじゃは顔を顰め、少年に歩み寄ると頬を張りとばした。

「バカやろうが! 男の方が高く売れるんだよ! 年寄りなんざ二束三文だ。‥ま、でも娘はいいな。」

 傷の男はふふっと下卑た笑いを口もとに浮かべた。

「そうだろ? しかも上玉だぜ。まだ小娘だがしゃぶりつきたいようないい肢体(からだ)してるよ。」

 そう言うと傷の男は荷台の上の女の腰を撫で回した。すすり泣く声が聞こえる。

 白髪まじりの男と先に来ていたうちのもう一人、やたら図体のでかい大男が振り向いて、下卑た笑い声を上げた。

 ―――ヴェルドキア人を捕まえて売りとばしているのか‥。

 ここはロワ領内で、しかもまだ首都シーナ近郊だ。なのにセルジア人の奴隷商人が大きな顔で人狩りをしているとは。セルジアの勢力はそれほど強いのか。

 男の腹に無性に怒りがこみあげてきた。

 男はいったんもといた川岸へ滑り降りると、角の鋭い石を両手一杯に拾い、それから大きめの石を手にして川の真ん中に放り投げた。水音に驚いた男たちは、訝しげに曲がり角をじっと見た。

 男は再び崖をよじ登ると、低い姿勢で彼らを上から見下ろせる位置につく。 

 人狩りの連中は視線を揃って川の上流へと向けている。

 上から馬の尻を目がけ、次々に石礫を投げた。馬は驚いていななくと、それぞれ四方八方に勝手に走り出した。

 大男は自分の馬を何とか引き戻し、その背に髭もじゃと二人で跨ると、南へと走り出した二頭の馬を口汚く罵りながら追いかけ始めた。

 白髪まじりの男は隣で興奮した馬を留めようとして脇腹を蹴られ、転倒し、のたうち回っている。

 さきほど殴られていた少年のような男は、自分の馬が疾走していくさまとそれを追いかける二人の仲間をただ立ち竦んで呆然と見ていたが、白髪の男の怪我に気づくと我に返ったような顔で駆けよった。

 頬に傷のある男は自分の馬の手綱をしっかりと離さなかった。

 引きずられそうになりながら何とか宥めつつ、あたりを用心深く探っている。終いに石礫の出た崖上を見上げた。

 目が合った瞬間、男は冷笑を浮かべ、傷の男の眉間目がけて石礫を強く弾きとばした。

 傷の男は避ける間もなくくらい、昏倒した。

 少年が振り向いて、悲鳴を上げる。

 男は草に覆われた斜面を滑り降りて、恐怖に立ち竦んでいる少年にまっすぐ走り寄ると、剣を奪い、一刀のもとに切り捨てた。

 続いて昏倒している頬傷の男の胸を突き刺してとどめを刺す。

 そして脇腹を押さえながら四つん這いで逃げようとしていた白髪頭の男を、背中から心臓を突き刺して仕留めた。

 手足につけた重い鉄枷のせいで、さすがに息が上がった。しかもこの半年、まともに鍛錬をしていないから体力が続かない。

 男は絶命している少年の背から弓矢を奪い取ると、馬のいない荷馬車に走り寄った。荷台に上り、捕まっている同胞人の縛めを順々に切っていく。

 見れば女はまだ十六、七の少女だ。母親らしい女にすがりついて震えている。

 彼は木立の間にうろうろしていた頬傷の男の馬を曳いてきて、荷馬車に繋ぐ。ちょうどそこへ白髪頭の脇腹を蹴った馬が戻ってきたので、それも繋いだ。

 南の方角からは捕まえた馬を疾走させながら、二人のセルジア人が戻ってくる。

「このまま荷馬車を走らせて逃げろ。俺が時間を稼いでやる。‥‥東に行け、シーナまではすぐそこだ。」

 老人はうなずいて、彼の指さした方角へ馬車を走らせ始めた。

 走り去る荷台から、女たちはヴェルドキア語で感謝の言葉を叫んでいる。

 そこへ二人のセルジア人が到着した。

 男は振り向きざまに弓を構え、荷馬車を追わせないように続けざまに矢を放った。くそっ、と髭もじゃが暴れる馬を罵る声がする。

 だが大男の方は、巨体に似合わず敏捷な動きで目の前に走りこんでくると、いきなり手斧を振り下ろした。剣で受けとめて何とか弾きかえし、後ろに跳んで間合いを広げる。しかし剣は衝撃で折れてしまった。

 男は折れた剣を、突進してくる大男の足を目がけて投げつけた。

 剣は大男の太腿に当たったものの、刺さりはせず、太い筋肉に弾かれて転がった。怒り狂った大男は、再び手斧を渾身の力で振り下ろした。

 辛うじて避けた彼は、地面に深く突きささった手斧を大男が一生懸命引き抜いている間に、戻ってきた一頭の馬の手綱を取った。

 その掌をうなり飛んできた一本の矢が貫いた。大男が放った矢だ。

 馬は驚いて、彼を引きずったまま暴れ始めた。

 ―――しまった‥。

 何とか馬によじ登って宥めようとするものの、馬は怯え、ますます暴れる。

 そこへ大男が殴りかかってきた。

 かわしたつもりがかわし損ねて、彼は馬から落ちた。

 降りかかってくる剣を何とか避けて、ごろごろと地面を転がり、立ち上がったところを背後から強かに殴られ、再び転倒する。

「おい、待て。殺すんじゃねえ、こいつもヴェルドキア人だ。」

 髭もじゃの声で、剣が止まり、代わりに蹴りが腹に入った。

「うっ!」

 彼は思わず呻いた。喉から血が逆流してくる。

 ずしんと重い蹴りは、背中にも腰にも容赦なく降り注ぐ。その度に彼は鞠のように弾んで転がった。

「くっそ! ともかくこいつだけでもさっさと連れて帰ろう。さっきの家族はシーナの方へ逃げて行ったからな、ロワの騎兵に見つかるとまずい‥。」

 大男は動けない彼の髪を掴んで顔を上げさせ、覗きこむと、髭もじゃに向かって叫んだ。

「親方。こいつ、鉄の枷を手足に付けてるよ。きっとどこかから逃げてきたんだぜ? 」

 髭もじゃは鞍をつけ直しながら、薄ら笑いを浮かべた。

「たぶん‥そいつぁ、捕虜になってたヴェルドキア兵だよ。戦い慣れてるし、階級は結構上の方だったに違いねえ。貴族さまだったかもしれねえな‥。こりゃ高い値がつくだろうぜ。」

 大男は彼を後ろ手に縛りあげると、軽々と担いで馬の尻にくくりつけた。

 そして二人の奴隷商人は仲間の亡骸には目もくれず、三頭の馬を南へと走らせ始めた。


 それからまる一昼夜が過ぎた。

 人狩り商人どもは人目を避けて、人のいない草地を抜けてゆく。洩れてくる会話の内容から推測するに、さっさとサルベ領内から出ていきたいようだった。

「ここまで来りゃ、ロワの騎兵も追いかけてこないだろう。だがサルベは一応今のところロワだからな‥。」

「親方。早いとここいつを売って、たらふく酒が飲みたいぜ。」

 髭もじゃは大男にだめだ、と答えた。

「こいつはワランドで売る。その方が高く売れるからな。サルベ領を抜けてユシュリスを渡ったら、その辺に隠れている難民を捕まえて市場へ連れていこう。なあに、まだ獲物はたんまりいるさ。」

 男は馬の背に揺られながら、ぐっと怒りを堪えた。

 ―――このまま行けば国境を渡れるが‥。その前に何とかしなくては。

 今夜、隙を見つけられるだろうか。

 昨日は逃げようとしたのが間違いだった。体はぼろぼろだが、鉄枷を籠手の代わりに使い、頭部を狙えば一撃で斃せるはずだ。たかが人狩りに二度も遅れを取るわけにはいかない。

 日が落ちて、川べりの点在する木立の側で二人の人狩りは馬を下りた。

 今夜はこの場所で野宿するつもりらしい。

 二人は火を熾し、途中で狩った野ウサギをあぶり始めた。

「おい。俺が肉を焼いてる間に、馬と家畜に水を飲ませな。」

 髭もじゃに言われて、大男がうなずく。

 大男は馬に水を飲ませた後で、草地のほうへ向けて木に繋ぐと、地面に転がしておいた男の方を向く。

 「ほら、水を飲ませてやるよ。」

 大男は彼の頭を掴んで、いきなり川の中に押しこんだ。

 三十数えて、ぐいと引き揚げると、また楽しげな顔で押しこむ。四、五回繰り返して、苦しそうに咳きこむ男の姿にけらけらと笑った。

「ははっ、つんとすましたヴェルドキア人めが、いいざまだね。‥‥俺はヴェルドキア人が大っ嫌いなんだ‥。いつだって人を見下しやがって‥!」

 憎々しげにそう言うと、大男は彼を川原の砂地に放り投げ、蹴飛ばした。

「ほら‥何とか言えよ? 助けてくれとか止めてくれとか‥‥地面に顔つけて頼んでみろってんだ!」

 水で濡れた顔を地面にこすりつけられて、髪も顔も砂まみれになる。

「おうい、肉が焼けたぞ。‥‥いい加減にしとけよ、殺すんじゃねえぞ。」

 髭もじゃの声に大男は振り返った。

「やっほい、肉だ! 親方、大丈夫。殺してねえよ。」

 大男は外見の割りに子どもみたいな声をだして、彼を川べりに放り出したまま、走っていった。

 咳きこみながら、男は顔を振って何とか砂を落とし、うっすらと目を開けた。

 頭上に瞬くのは満天の星だ。

 両手を拘束している縄を手首の鉄枷を使って、少しずつ少しずつ切ろうとしてみる。昨日からやってはいるのだが、なかなかうまくはいかなかった。緩みができるたびに、髭もじゃが縛り直してしまうからだ。

 その時ふわりと風が動いて、ラベンダーの香りがした。

 不意に腕の縄が断ち切られ、両手が自由になる。

 ―――まさか。

 男はゆっくりと上体を起こし、人狩りの男たちの前にすっくと立ちはだかった人影を見た。薄闇に浮かびあがるその影は、襞飾りのついた裾の長い服に、長い剣を腰につけていた。

 低めの柔らかい、よく通る声が夜空に凛と響く。

「ロワの領内で人狩りは許さない。問答無用で切り捨てます。覚悟はできているのでしょうね?」

 人狩りたちは一瞬呆気に取られたものの、すぐに立ち上がり、焚き火に水をかけてもうもうと煙を立てた。

 白煙の後ろから、ぬっと顔を出した大男が手斧を振りかざして人影に迫る。しかし次の瞬間、手斧ごと腕が一本、燻っている焚き火の中に音を立てて落っこちた。真っ赤な鮮血が噴水のように噴きだす。

「ぐわあああーっ!」

 悲鳴を言い切らないうちに、斃れた大男は心臓を貫かれて絶命した。

 返り血をぶんと振り切って、次、と人影は髭もじゃを探す。

 髭もじゃは大男が斃されている間に、木立の陰に隠れて弓を構えていた。矢をつがえ、狙いを定めている。

 男は思わず、石を投げた。矢が見当違いな方向へビュン、と飛んでゆく。

 人影は男を振り向き、嬉しそうな声でアリュイシオン、と呼んだ。

「‥振り向くな!」

 彼が叫ぶのと同時に放たれた矢を、くるりと振り返りざまに薙ぎ払うと、人影はそのままの踏み込み足で一歩、二歩、三歩と一気に間合いを詰め、地面を蹴り上げて跳びあがった。そして木立に隠れていた髭面を頭からざっくり切り下ろす。

 鮮やかに地面に降り立った人影は、長い裾を翻してこちらへ駆けよってきた。

「アリュイシオン‥! 無事なの?」

 ―――やはり‥この女か。いまいましい。

 エルデモーナは月明かりに満面の笑みを浮かべ、彼の隣に膝をついた。

 帯に結んだ袋から手巾を取りだし、顔を拭こうとする。その腕を彼は思い切りはねのけた。

「‥‥触るな。自分で洗う。」

 背を向けて川に入り、水で砂を洗い流す。ついでに骨が折れていないことを確かめた。昨日射貫かれた右の掌は赤黒く腫れあがって、熱を帯びている。体じゅうの打撲傷は動かすたびに思わず呻いてしまうほど痛い。しかも激しく空腹で、発熱しているのか悪寒がした。すぐに命に関わるほどではないが―――エルデモーナから逃げ切れる気はしない。

 全身を洗い終えて川から上がると、彼女はもう一度手巾を差しだした。

 それから自分の着ている裾の長い上衣を脱ぐと、彼に着せかける。

「要らない。おまえの服では入らない。」

「これは大丈夫よ。上から羽織るものだし、ゆったりしているの。貴方が今身につけているのは、濡れているだけじゃなくてぼろぼろだもの。」

 掌に押しこまれた手巾をしばらくの間じっと見つめ、やがて男はそれで額の滴を拭った。

「‥‥なぜこんな場所にいる?」

 エルデモーナは肩を竦めた。

「なぜって、貴方を捜しに来たのよ。決まってるでしょ。」

「‥‥逃亡奴隷など捨ておけ、バカ。」

「バカとは何よ、失礼ね。まったく口が悪いんだから‥!」

 口をとがらせて彼女は文句を言った。

 それから手巾を出した袋から、今度は小さな瓶と紙の包みを出した。

「やっと面倒臭い会談を終えて帰ってきたというのに、貴方ときたら部屋にいないんですもの! 大人しくしててねってあれほど頼んだのに‥。まだそれほど経っていないと思って、捜しに出たらね。難民の家族に出会ったの。そこの可愛い娘さんが‥人狩りに攫われかけたところを、鉄の枷を填めた人に助けてもらったって言うから、もう気が気じゃなくて‥‥必死に馬を飛ばしてきたのよ。」

 彼女は彼が腰を下ろした乾いた草地に並んで座ると、紙包みから出した棒状のパンに瓶の中のとろりとしたものをたっぷり絡ませ、有無を言わせず彼の口に押しこんだ。

 蜂蜜だ。濃厚でとても甘い。

「ふふ。ロワの特産物よ。美味しいでしょう? 体が衰弱している時には蜂蜜がいちばんなのよ。」

 にっこり笑ってそう言ったかと思えば、今度はしかめ面になる。

「あの娘さん‥とっても美人だった! だから助けたの?」

「下らない。ヴェルドキア人だからだ。」

 そう、と吐息をついて、彼女は再び甘い蜂蜜を彼の口に押しこんだ。

「ま。理由はともかくとして。まったく無茶な人ね。生きているうちに助けられてほんとうに良かった。」

 ますます腹立たしくなってくる。

「ふん‥。助けたって‥どうせまた鎖で繋ぐつもりだろうが。おまえがこんな枷を填めなかったら、あんな連中に捕まったりはしなかった。」

 あはは、と笑いながら、エルデモーナは蜂蜜をせっせと彼の口に運んだ。

「確かにね‥。途中で三人死んでたけど、ほぼ一撃で仕留めてあったっけ。やっぱり枷は必要だったわ、なかったら今頃ユシュリスを渡っちゃってたかもしれないもの。」

 やがて小瓶を袋にしまうと、彼女は懐から鉄製の鍵を取り出した。

 そして言葉とは逆に、取り出した鍵で彼の手足から枷を外し、勢いよく(くさむら)に放り投げる。がしゃん、と重い音が響いた。

「けれどその怪我じゃ、当分大人しくしているしかないわよ。優しく看病してあげるから帰りましょう。」

 立ち上がったエルデモーナが指笛を吹くと、体の大きい真っ白な馬がどこからともなく月明かりの中を駆けてくる。愛馬の背に彼を押し上げると、彼女は自分もひょいと跳び乗った。

 いつ縄を解かれたのか、人狩りの三頭の馬が草原を遠くへ、嬉しそうに駆け抜けていく。

 一方で男の体は、自分で思う以上に疲弊していた。

 白馬の背に前のめりにもたれかかり、ともすればずり落ちてしまいそうなその体を、背中からそっと抱きかかえてエルデモーナは馬をゆっくりと歩かせた。

 月の光が前を照らしている。

 やっと鉄枷がなくなったというのに、逃亡する気力がなぜか湧いてこない。自分はたった半年でこの女に飼い慣らされたのか、と思えばたまらなく惨めな気分だ。悔しくて情けなくて、男は苛々と叫んだ。

「‥‥なぜ黙っていた?」

「え?」

「ヴェルドキアが滅亡した日‥‥王宮にいた者はすべて首を刎ねられたというのは真実なのか。」

 エルデモーナは躊躇っているようだった。それとも言葉を選んでいるのか。

 男は振り向き、エルデモーナの腕を掴んだ。

「教えてくれ。おまえだけは見たのだろう? 父上と弟は‥‥やはり首を刎ねられたのか? 」

「アリュイシオン‥。」

 言い始めたら止まらなくなった。男は自分が悲鳴に近い声で叫ぶのを聞いた。

「母は‥‥母も首を刎ねられたのか。知っていたならば教えてくれ‥頼むから、エルデモーナ!」

 白馬の歩みが更に遅くなった。草を食みながらのんびりとゆく。

「‥‥国王陛下と王太子殿下は、少なくともセルジア軍の手にかかったわけではないの。ただ‥‥王太子殿下は背後から刺されていて、国王陛下はご自分で胸を突いておられたけれど返り血を大量に浴びておられた。そして床にはもう一体遺体があったわ。」

 彼女は吐息まじりでつぶやくように答えた。その名は彼が想像していたとおりの名だった。

「王妃さまは‥ご自分の部屋で既に亡くなられていたの。たぶんあの日よりもっと前に。周囲を護っていたらしい侍女の方々は首を‥。」

 ぐっと唇を噛みしめて、エルデモーナは叫んだ。

「わたし、王妃さまだけは助けたかったの、それで最初にお部屋に行ったのよ‥。だってあの惨めなふた月の間、とても優しくしていただいたんですもの。帰国する時も、ごめんなさいね、と手を握ってくださって‥。」

 ―――では‥。母を殺したのは俺か。

 男は天を仰いだ。

 裏切っていたのが宰相であるのなら、王宮守護兵も同士討ちになったのだろう。

 タリエルは普段は温和だが、戦場で敵に背を向けるような臆病者ではない。味方に―――味方と思っていた者に背後から討たれたのか。恐らくはイメリスに。

 そして父は―――イメリスを討って自決したのだろう。

 彼は両手で顔を覆って泣いた。

 その背をおずおずと、ほっそりした手が撫でてくる。

「‥‥触るな! 俺は‥‥おまえが憎い。」

 振り払われた手で、エルデモーナは背中から彼をぎゅっと抱きしめた。

「解ってる。でもわたしは貴方が好き。愛しているのよ、アリュイシオン。」

 彼女は耳もとでそっと囁いた。

「一年だけ我慢して‥。春になったら貴方を自由にすると約束する。」

 思わず振り返った男の顔を見返して、緑色の瞳は月光を映して揺らめいた。

「その時にはちゃんと、できる限りの支度をしてあげるから。ね、お願い。もう少しだけ大人しくしていて‥。」

 ―――あなたが何と思おうと、姉はあなたを護っているのですよ。

 ヨナンの言葉が耳に響いた。

 真実だとしたら―――なぜなのだろう? 男には彼女の気持ちがまったく理解できない。

 涙も吐息も呑みこんで、男は白馬の背に前のめりにもたれた。

「‥‥春になったら必ず解放しろ。約束だ。」

 うん、とエルデモーナはうなずき、にっこりと微笑んだ。


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