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第三章 女王の弟

 山の上にも本格的な夏がやって来た頃、エルデモーナは戦に行くので十日ほど留守にする、と男に告げた。

 ―――もしやヴェルドキアの生き残りか?

 彼の心中を察したように、相手は更に北方のカル族だと女王は続けた。

「ロワが旧ヴェルドキア領内で戦をすることは、たぶんもうないわ。サルベは貰ったけれど、あそこはもとからのヴェルドキアではなくてサルベ人の住む地域だし、自治を認めているし‥。だいたいあんなこすっからい気質の場所はほんとは欲しくないんだけど、ユシュリスがあるからねえ。」

 通行料と関税をお互いに撤廃することと、商慣習をロワの法律で統一するというだけであとはサルベ人の独立自治を認めたのだそうだ。

「あちらもね、ヴェルドキアの二重税がなくなっただけで今は喜んでいるの。ま、商人の国だから、いずれもっと欲張ったことを言ってくるわね。」

「‥‥二重税? 何だ、それは?」

 思わず聞き返すと、エルデモーナは面食らった顔をした。

「有名でしょ‥? ヴェルドキア領内の税と属国に課す実質的な税が二重にかけられている地域よ。サルベとか南方のイジェールとかの領内だけど特別自治区だったところ。それからアマサ、ワランド、デクィットなどの大きな街にも特別税があるでしょ。ロワでも実際にヴェルドキアに払ってた部分の方が国の取り分より多くなっていたので、それがなくなっただけでもほっとしてるわ。」

「属国はともかく、アマサに特別税とは‥。」

 誰が取っていたのかと言いかけて口を噤んだ。

 大きな交易都市にはいろいろな地方から商人たちが集まる。そのため交易市を取り仕切るための特別な役所が設けられていた。徴収していたのはそこの所司に違いなく、自分たちの懐に入れていたのだろう。

 ―――間抜けな話だ。手足と思っていた連中にまで、見限られていたわけか。

 黙りこんで何の反応もしなくなった男に、不安げな視線を向けて、エルデモーナはぎゅっと抱きしめる。

「ねえ、ちょっと! ちゃんと聞いてる? わたしの留守中の話。」

 男は冷めた視線を振り向けた。

「おまえの馬鹿力で締めつけるな。首が折れる。‥‥留守にするから始末していくというなら、まずそう言え。」

 バカ、とつぶやいて手を離し、彼女は起き上がった。

「いい? すっごく嫌だけど‥。侍女が朝晩の食事を運んでくるから、口を利いたらだめよ。ないと思うけど‥笑いかけたりしたら許さないからね!」

 呆れて男は言い返した。

「ロワ人の女だろう? 言葉を交わすわけがない。」

「あのねぇ! ロワ人だって美人はいるの! 信用できるのが彼女しかいないからしょうがないんだけど、ハンナはとっても美人なんだから。髪だって褐色だし、瞳も黒褐色で‥肌も白いわ。わたしは父さま似で、生粋のロワ人ていうよりイヴァン族の血が濃いから‥。」

 エルデモーナは悄然と肩を落として、背を向けた。

「おい。俺はロワ語が解らない、って意味だが?」

 え、とびっくりした顔で振り向いたエルデモーナの瞳には、涙がうっすらにじんでいる。

 ―――まだ気にしているのか‥。女ってのはなんてやっかいなんだろう。

「美人だろうと不細工だろうと同じだ。この鎖を外してくれると言うのならいくらだって笑いかけるのだが。」

「だめよ、誘惑しないで。‥ま、手の鎖は少し長くしていくから、体は自分で洗ってよね。手を借りたりしないでね。」

「それはおまえの趣味だろう。頼んだ覚えはない。ところで留守の間、まさか代理を寄こしたりしないだろうな?」

 あたりまえでしょ、と目をつり上げて睨みつけてくる。もう涙は切れたようだ。

「ここから出ないと約束するから、鎖を外せと言ったら?」

「できないわね。だってぜったい逃げるもの。わたしならそうする。」

「ふふん。自分ならぜったいに逃げるような仕打ちをしている、という自覚はあるわけだ。」

 エルデモーナはちょっと鼻白んだ。

「まあ‥。なくもないけど。でも仕方ないのよ。だって‥好きなんだもの。」

 再び無駄のない引き締まった肢体が、全身で彼を抱擁する。

 そうして枷の填った手を撫でて口づけし、愛しいアリュイシオン、とつぶやく。

 男は冷めた瞳で見返す。

 ―――アリュイシオン、か‥。まさかこんな状況で呼ばれるとは。

「その名は‥‥いったいどこで聞いた?」

「え? ああ‥。ヴェルドキアの王宮よ。貴方に目通りできるまで、ふた月も待たされたと言ったでしょう? ある時廊下で、王妃さまが通られるのに遭ったの。壁に寄って頭を下げてお見送りしてたら、お声を下さって‥。」

 王妃は足を止めて顔を上げるようにと言い、優しく訊ねたそうだ。

 ―――貴女はどなた?

 エルデモーナが緊張して答えられないでいると、王妃の侍女がロワの王女だと説明した。すると王妃はああ、と思い当たった顔でうなずいた。

 ―――ロワの‥。ではこの子が王太子の三の妃になる姫なのね。

 小さな声でそうつぶやいて、王妃は輝くような笑みを浮かべると、エルデモーナの耳元に顔を寄せてそっと囁いた。

 ―――よろしくね、ロワのお姫さま。わたしがアリュイシオンの母です。

「それ以来わたしの中では、まだ見ぬ王太子さまの名はアリュイシオンになったのよ‥。とっても響きのきれいな名前だと思ったし、他の誰も知らないみたいだったから嬉しくて。」

 男は母が満面の笑みを浮かべて、彼の部屋に走りこんできた日を思い出した。

 ―――アリュイシオン! ロワの王女が来ているのを知っていますか?

 知りません、と答えた彼に母は、王太子の室にと献上された姫君だと伝えた。

 ―――とても元気のいい()でしたよ。十三だというのだけれど小さいから十くらいにしか見えなくて‥。真っ赤な髪が足下までくるくると渦巻いていて、顔いっぱいの大きな緑色の目がきらきらしていて、まるで異国のお人形みたいだったわ。

 ―――赤い髪に緑の瞳? すいぶんと変わった風貌ですね。

 怪訝そうに顔を顰めた彼に、母はにこやかに頬笑んだ。

 ―――ねえ、アリュイシオン。あの()が室に入ったら、わたくしにください。

 ―――は?

 ―――手元に置いて側仕えにしたいの、可愛いのですもの! さすがにロワ王室にわたくしの侍女にするとは言えませんから、形だけ貴方の室に入れて、わたくしにくださいな。

 母の、少女のように無邪気な笑顔を見て、十六の生意気盛りだった少年は苦笑してうなずいた。

 すっかり忘れていた―――というより翌日には忘れた他愛もない記憶だ。

 アリュイシオンはリュシアンの幼名で、王族のいくつかの血統の中でも母の家系のみに伝わるものだ。だから彼をアリュイシオンと呼ぶのも母だけだった。

 十二の立太子式以来、さすがに人前では呼ばなくなったのだが、年齢のわりに体の小さい人形のような異国の娘を目の前にして、思わず幼名を口にしたらしい。

 皮肉なものだ、と彼は思う。約束を違えて彼女を国に帰した後、母は何も言わなかった。ただ溜息をついただけだ。しかし今逆にエルデモーナの虜囚となっているこの状況を耳にしたなら―――溜息ではすまないだろう。

 ―――小さい人形どころか‥今では男より背が高くて馬並みの体力だ。

 馬並みに成長したエルデモーナは、嘗ての人形みたいな少女に戻ったみたいに切なげに睫毛を震わせ、アリュイシオン、と再び呼んだ。

「できれば連れて行きたいけれど、そうもいかないし‥。急いで帰ってくるから、お願い、大人しくしててよ。」

 最後の言葉は耳元で囁かれた。

 男は無言で吐息を返した。


 エルデモーナが出征した日の夜から、彼女の言葉通り、褐色の髪の若い女が食事を届けに入ってきた。

 彼女は扉の鍵を開けて部屋に入ると、彼をまっすぐ見て、次に手足の枷と鎖を見て、それから緊張気味に目をつり上げてひと言つぶやいた。

 今晩は、と挨拶したらしいと解ったが、口を利くなと言われているので、軽く会釈を返す。すると女はほっとした顔で、手にした膳をテーブルの上に置き、ぺこりと自分も頭を下げて出ていった。

 翌朝はもう少し長い言葉をかけてきた。彼が言葉が理解できないと思ったようで、ひと言ひと言区切って、ゆっくりと発音する。

 何度か繰り返されて、どうやら残さずに食べるようにと言っているらしいと気づいた。うなずくと、今度はにっこりと笑い、半分以上残っていた夕食の膳を引き取って部屋を出ていった。

 昼になる前にもう一度来たハンナは、きれいに平らげた膳を見てよし、と言うようにうなずき、掃除を始めた。邪魔になりそうなので、彼は自主的に塔部屋へと入る。するとしばらくしてハンナが塔部屋の扉を開けて、彼の腕を引っぱった。部屋へ戻れという意味らしい。

 何か喋っているが、よくは聞き取れない。しかし『エリー』という言葉がたびたび聞こえた。たまに『ヴェルドキア』という言葉も混じる。

 ハンナは少し怒ったような顔で彼を見遣り、ひと言つぶやくと鍵を取り出して扉を開け、出ていった。鍵を閉める音がする。

 最後のひと言は『静かに』というような意味の言葉だ。大人しくしろ、逃げるな、というような感覚で言ったのだろうか。

 ―――あんな女一人に鍵を持たせて‥。ずいぶんとなめられたものだ。

 扉の向こうには渡り廊下が見える。続く先は王宮の本殿だろうか。そちらには当然、警備兵がいるに違いないが、扉のすぐ近くには見えなかった。

 ハンナから鍵を取り上げて、宮殿内で警備兵の剣を奪い、逃げることは可能だろうか。手枷足枷がついている状態で―――どこかで斧でも見つけられれば鎖を断ちきれるだろう。可能性は十分あるように思えるのだが。

 ―――お願い、大人しくしててよ。

 エルデモーナの声が脳裏に響く。

 耳に残ったその音が、彼に実行を思い留まらせた。

 あの言葉は恐らく―――警告だ。

 エルデモーナはハンナしか信用できる者がいないと言った。彼女の気性からして、誠実な侍女をわざわざ危険な目に遭わせるような真似はしないはずだ。鍵を持たせているのはそうせざるを得ない理由があるからで、ならばハンナの身を保全する策を講じているに違いない。

 ―――大人しくしていろとは、ハンナに手を出すなという意味か。

 通常ならば警告など無視したいところだが、戦場において彼はエルデモーナに完敗している。彼の技は何ひとつ通用せず、すべて読まれていて先手を打たれた。その鮮明な記憶が彼を慎重にさせる。

 庭に出て、部屋からいちばん遠い北西の隅へ行った。

 石積の壁の高さは彼の背の、頭二つ分くらい上だろうか。胸の高さには銃眼が空いている。狭い視界からその先に窺えるのは、果てしない荒野と山、それに数本の小さな川だ。

 どちらにしろ逃げるには馬が必要だ。しかし手に入れる方法が解らない。

 焦ることはない、と言い聞かせた。十日間。時間はまだある。

 ふと思いついて彼は、ハンナの言葉の音を拾って土の上に書き出してみた。なるべく正確に思い出しながら、綴りを変えて何通りも書いてみる。

 思ったとおり、音を文字に置き換えてみると少しだけロワ語の発音の法則が見えてきた。

 ―――『エリー』とはエルデモーナのことか。

 『エリー』の頼みだから仕方がない。ヴェルドキア人なんか嫌いだ。ヴェルドキア人のせいで『エリー』は、なのにどうして。

 そこまでしか解らなかった。

 侍女というより友人なのだろう。幼い頃から近くにいる、血の繋がらない姉妹のような関係か。

 彼自身にもそういう存在がいた。乳母の息子で五つ年上のサルベールだ。

 実の兄弟姉妹であっても、母が異なればろくに顔も合わせずに成人するのが普通の王家の身にとって、幼い頃から盾として従うそのような存在は最も近しい人間となる。ヴェルドキアでも宰相イメリスや侍従長カゼッテルなどは、父の近習上がりだった。

 ハンナはどうやらヴェルドキア人を嫌っているらしいが、留守中ちゃんと面倒を見る約束を『エリー』としたので、食事の量を確認し部屋の掃除もするわけだ。

 何にせよ、彼に通じないと思って彼女がこぼす独白を拾い集めてみよう、と彼は考えた。ロワ語が聞き取れるようになれば、ここから逃げた後も大いに役立つ。

 次の日、気をつけて聞いていると、ハンナは根が開けっぴろげな性質らしく、掃除をしながらもひとりで喋っている。

 『エリー』ったらまたへんなものばかり集めてる、髪飾りやドレスにはてんで関心がない、男の子じゃないのに、もう。

 それからおもむろに椅子にいる彼をじろりと見て、だいたいヴェルドキア人が悪い、とつぶやいた。

 目が合ったので、彼は思いきって、何か、と訊ねてみた。

 するとハンナはつかつかと彼に近づき、両手を腰に当てて見下ろした。

「ヴェルドキアの、男、は、最悪。わかる? ね?」

 黒に近い褐色の瞳はなるほど睫毛が長く、そこそこ整った顔立ちは美人と言えば美人なのかもしれないと思う。

 言葉が解らないふりで、にこっと笑いかけてみた。

 ハンナはちぐはぐな表情を浮かべ、溜息をついた。

「あんたに言っても仕方ないわね‥。エリーが自分を不細工だって思いこんでるのが問題なんだもの。みんな、あんたんとこの王子さまのせいよ。」

 全部は理解できなかったけれど、『不細工』という言葉だけヴェルドキア語だったので理解できた。またあの話かと思うまもなく、ハンナは怒った顔で続けた。

「ロワの不細工姫、なんて他国じゅうに広まっちゃって‥! お嫁入り先がなくなっちゃったから、だから女なのに戦の先頭に立って、ドレスも着ないで‥かわいそうに!」

 ロワの不細工姫。それは聞き取れた。他国にも広まって、嫁入り先がなくなった―――まあそうだろうな、と思う。『女なのに戦』は想像がつくが、『ドレスを着てない』と『かわいそう』が不明だ。エルデモーナはいつもちゃんと服を着ているし、唐突に付け加えられた『かわいそう』が、どこへかかるのだろう?

 それからハンナは彼の枷と鎖を見て、またもや溜息をついた。

「あんたは傲慢な王子さまに顔が似てるらしいわ‥。勇敢な兵士だったんですってね。なのにこんな目に遭って、って悔しいかもしれないけど、ヴェルドキア人としては運がいいほうなんだから、当分大人しくしててね。」

 『運がいい』―――ヴェルドキア人?

 ヴェルドキア兵士の生き残りとしては、鎖枷で繋がれるくらいは『運がいい』と言っているのか。

「運‥‥いい?」

 聞き返すと、ハンナは哀れむような視線を向け、うなずいた。

「そうよ‥。だってあんたは繋がれてるけど、こうして食事も与えられてるし、殴られたり鞭で打たれたりしてないでしょ。東のワランドはすっかりセルジアに占領されちゃって、ヴェルドキア人はみんな家も財産も取られて家畜のような暮らしをしてるそうよ。」

 ハンナは理解させようと、ゆっくり言葉を句切って説明した。

 おかげで意味はほぼ理解できたけれど―――家畜のような暮らしを余儀なくされているというヴェルドキアの民を思えば、やりきれない想いが胸にあふれる。

 うつむいて黙りこんでしまった彼を、ハンナは気まずい表情で見遣っていたが、もう一度大人しくしていて、と声をかけて掃除に戻った。

 夜は前日と同様に、ハンナは食事を置くとすぐに出ていった。

 燭台にはごく小さな蝋燭一本だけが灯されていく。食事を摂る時間だけの灯りだ。あとには天窓から注ぐ星明かりだけの長い夜。

 男は食事を摂る気にもベッドに体を横たえる気になれず、塔部屋に籠もり、固い床に腰を下ろした。そして頭を抱え、唇を噛みしめた。


 三日目の夜は、ハンナではなく若い男が食事を届けに来た。

 金色の髪に鳶色の瞳、肌はやや浅黒いがエルデモーナほど濃い小麦色ではない。

 男は端正な顔に微笑を浮かべ、愛想良く話しかけてきた。彼は言葉が解らない、といった戸惑い顔を作り、ただにっこりと微笑み返した。

 想定外の出来事はだいたいが不穏だ。

 手足の鎖枷がなければまだしも、繋がれている状態では下手に出るしかない。

 ましてこの男は身なりからしてどうやら身分のある者らしい。女王の留守に、私室で何が飼われているのか確かめに来たというところか。

 金色の髪の男はテーブルに夕食の膳を置くと、出てゆかずに安楽椅子に腰を下ろした。

 そして再び笑顔を浮かべると、今度は流暢なヴェルドキア語で話しかけてきた。

「わたしの名はヨナン。あなたはヴェルドキア人でしょう? 名を教えてくれませんか。」

 丁寧な口調だ。奴隷に対する態度ではない。

「‥‥名はない。なるべく口を利くなと言われているのだが。」

「まあそうでしょうけれど。女王はあなたのことをわたしに隠しておきたかったみたいですからね。ですが補佐をする身としてはね、いろいろと知っておかなければいけないのですよ。王宮の外に漏れないうちにね。」

 男は無言で視線だけ返した。

 ヨナンと名のった男は肩を竦め、言葉を続けた。

「女王はあなたをアリュイシオンと呼んでいるそうですね?」

 更に黙っているとヨナンは続けた。

「アリュイシオンとは、ヴェルドキア王家の出身地オークの古い言葉で『輝く若い葉』の意味でしたね。転じてリュシアンの名の幼名として使われる。王族だけの隠語に近い、王太子を指す名前だ。そうでしょう、エフェルネイド・リュシアン・セナ・バルべ・ヴェルデ・オキア殿下?」

「‥‥名はない。」

 彼は静かに繰り返し、食事を始めた。

 ―――『オーク』じゃない、『オッカ』だ。

 ヴェルドキアでも王族の一部しか知らない知識をひけらかすような男が、発音を間違えるはずもない。挑発だろうか。

 ヨナンは黙って、彼が食事を摂るところを見ていた。

 そして食べ終わると、再び微笑を向けた。

「女王は常は、たいへん分別のある方なんですけどね。それが何を血迷ったのか戦場で拾ったヴェルドキア人の虜囚に夢中らしいと‥。侍女に聞いた時には驚きましたが、まあそのうち正気に戻るだろうと静観していたのですよ。ですが」

 ヨナンは言葉を切って立ち上がり、食事の膳を手に呼び鈴を鳴らした。

 鍵が回り、扉が少しだけ外から開いて、ハンナの強張った顔が膳を受け取った。代わりに素朴な素焼きの水差しと杯が二つ、載せられた盆を手渡す。

 扉を閉めたヨナンは、外から鍵がかけられる音を確認して、振り向いた。

 再び近づいてきて椅子に腰を下ろす。

「‥‥名を聞いて二度驚きました。それで‥なぜなのか聞きに来たのです。どんな次第であなたを匿うことになったのか。」

 ―――匿っている? どういう意味だ。

 金髪の男をつくづくと眺めた。

 面立ちは一見して似ていないが、うつむいた時の頬から顎にかけての印象がよく似ている、と思ったら、耳の形と髪の生え際がそっくりだった。髪も色は違うが癖が強くて波打っているところが似ている。

「‥‥補佐しているとは女王の弟か。」

 酒らしい琥珀色の液体を二つの杯に均等に注ぎながら、ヨナンは口もとに皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「エリーはあなたにわたしのことを話したのですか? ちょっと想定外だ。」

「賢い弟がいるから、ロワは安泰なのだと自慢していた。」

 勧められた杯を受け取り、匂いを確かめた。

「ふふ。毒は入っていませんよ。まだね。」

「‥‥変わった、甘い香りがすると思っただけだ。」

 先にすっと飲みほして、ヨナンは苦笑した。

「いろいろと混じっているので変わった香りなのでしょう。三十以上の木の実を発酵させて作るのです。甘いのはベリーかな。」

 香りの割りにけっこう強い酒だ。

 酔わせて何が聞きたいのだろう。自分にはまだ何か―――意味があるのか。

 ―――恨みならば多く買っているか‥。エルデモーナだけじゃなく、掌中に転がりこんできたならば八つ裂きにしたいと思う輩は山ほどいるな。その意味では取引材料になるのかもしれないが‥。

 思わず失笑した。

 顔を上げて冷ややかに女王の弟を見返す。

「何を言っているのか理解できない。ヴェルドキア人であることは否定しないが、俺に名はない。勝手にあの女が呼んでいるだけだ。」

「なるほど‥。ではあなたは、姉の知っていた人によく似ているのかもしれませんね。それだけならばいいのですが。」

 ヨナンは頭から信じてはいない顔でふふっと笑った。

 そしてまた来ます、と言うと立ち上がって、再び呼び鈴を鳴らした。


 だが数日経ってもヨナンはいっこうに来なかった。

 ハンナも相変わらずで、おしゃべりを止める気配もない。何かを注意されたわけではないようだった。

 一人になる午後は、以前と同じように本を手に、庭に出た。

 今度は狩りについて書かれた本を読んだ。

 ヴェルドキアでもむろん狩りは行われていた。

 鹿や兎、猪の食用獣肉。それから雁、鴨などの野鳥も食用だ。狐や山犬は食用ではなく畑を荒らすので狩る。方法は森から見通しの良い平原へと集団で追い立てて、弓矢で仕留める、あるいは罠へと誘いこむ。

 ロワでも基本は同じようだが、山岳地帯なのを利用して猪などは崖から追い落として仕留めるらしい。狐や熊には罠も併用するのは、目新しい方法でもない。

 興味深いのは、狩りに用いる様々な道具の周到な準備だった。

 準備では三日から五日かけて薬草を練りこんだ爆裂玉を作る。匂いのきついもの、煙の強いもの、発光して目くらまし効果のあるもの。また鏃に塗る痺れ薬、眠り薬なども度合いによって数十種類ある。毒性の強い薬を使用した場合は、解毒効果のある薬草で一昼夜蒸し焼きにしてから、調理に使用するらしかった。

 狐や山犬は追いこんだ後、毒矢で仕留める。罠に誘導して捕らえる方法は飼い慣らす場合だ。

 目的によって使う道具を少しずつ変えるというのは当然の話かもしれないが、これほど多くの種類を緻密に使い分けているとは知らなかった。

 爆裂玉には黒色火薬を使用しているけれど、一つ一つ分量が異なる。この書物にあるのは狩りのための、爆発規模のごく小さい殺傷能力はほとんどないものばかりだが、戦場でロワ軍が使用する爆裂玉は、破壊力が凄まじい。あれも聞いた限りで四、五種類はあるはずだ。火薬をあれほど量産できるとは、いったいこの狭い山国のどこにそんな大がかりな加工場があるのだろう?

 ―――山の中の洞窟‥。他国に知れぬよう、長年隠してきたに違いない。  

 不意に気づいた。

 ロワだけではない。セルジアもバルドも、ヴェルドキアを倒すために、恐らく長年周到に準備していたのだ。だからあれほどあっけなく、大国ヴェルドキアが潰された。

 気づかなかったのは奢り、権力争い。ほんとうにそれだけだろうか。

 ずいぶん前から偽の風聞にいろいろと踊らされていたのではないのか。ちょうど鹿が爆裂玉に驚いて、罠に追いこまれていくように。

 日が落ちて本を閉じる。

 部屋に戻ると男は本を書棚に戻し、天窓を見上げた。

 夏の暮れなずむ空に星はまだ見えない。男は重い鎖を手に取り、溜息をついた。


 翌日からは庭のあちこちを探ってみた。

 連れてこられた時に上った階段。あれは木ではなく石段だった。空気が動いている感覚もなかったから、山の中なのだと思い当たる。恐らく最初に目覚めた地下牢はこの王宮の真下にあるのに違いない。

 ところが上がりきってから、塔部屋で目隠しを外されるまでのわずかな間には、屋外を歩いた時間があったと思う。素足に残る土と草の柔らかい感覚と、頬を撫でていった微風。

 ―――あれがこの庭だとすれば、地下へ続く階段の入口がどこかに隠されているに違いない。

 何としても突きとめると決めた。いつでも逃げられるように、運が(めぐ)ってきた時すぐに行動が取れるように。

 庭では見つからなかったが、代わりに塔部屋へ続く階段の裏に別の隠し扉を見つけた。

 厚い緞帳で隠されていた木製の扉は、大人の男ならば屈まないと入れないほど小さく、しかも埃だらけで長らく使用されていない様子だ。錠前はついておらず、鍵穴もない。

 音を立てぬように注意して開けてみる。

 そこには直径が二歩分くらいの狭い踊り場があって、真っ暗な闇に吸いこまれるかのように螺旋階段が下へと続いていた。

 彼が上らされた階段ではない。だがこれも外まで続いているのだろうか。

 下りてみることにした。

 曲がりくねった螺旋階段では、足に填められた鉄枷と鎖が重くて邪魔だ。おまけに足下は暗くて見えない。踏み外したらどこまで落ちるのか、むしろこの階段はどこまで下っているのか。何も見えない。

 壁を伝い、一歩一歩次の段を足の鎖で確認しながら、ゆっくりと下りていく。

 じゃらじゃらと鎖を引きずる音が大きく反響して、まるで下方にも鎖をつけられた囚人が何人も歩いているような気がした。緊張で汗が滴る。

 かなり時間が経って、うっすらと下方に白っぽい光が見えた。どうやら出口らしい。それとともに水の匂いがしてきた。

 出た場所は地下水路の船着き場で、古ぼけた小舟が岩場に引き揚げられて繋いであった。上の扉と同じく、こちらも埃だらけだが、朽ちているほどでもない。十分使用可能な状態に見える。

 水路の出口から覗く遠い山々の稜線が、だいぶ赤く色づいている。

 ―――とりあえず今日はいったん戻るか。

 わずかに見える外の景色の日の射しこむ方向から、水路の流れていく方角が北だと見定めると、男は階段を上り始めた。


 予定の十日が過ぎても、エルデモーナは帰還しなかった。

 ハンナの話すロワ語はかなり聞き取れるようになったけれども、彼女の話す内容は相変わらず男には今ひとつ理解できない。

 しかし彼女の気儘なお喋りの中には、エルデモーナの帰還が遅れている理由も戦況に関する話も一切出てこなかった。心配している様子もない。呆れるほど毎日同じ日課を繰り返している。ということは戦況が悪いわけではなく、単に戦の後始末に時間を取られているだけなのだろう。

 複雑な気分だ。

 エルデモーナの無事を願う気などさらさらないが、故国ヴェルドキアの天地をひっくり返したロワの騎馬兵団が、北方の少数民族などに遅れを取るなどあってたまるか、という気持ちは大いにある。

 愚かで無意味な誇り。しかし故国を失い奴隷に落とされた身にとっては、たとえどれほど無意味で些細な事であっても、自分の中に残る亡骸のような誇りだけが生きる糧なのだとしみじみ思う。

 その日は天をゆく雲が、すごい速さでとんでいった。

 鳥も届かない遙か上空では、風が激しく流れているらしい。

 山の上では風はまださほどではないが、大気は不安定で、珍しく熱を帯びた湿った空気が漂っている。嵐が来るのかもしれなかった。

 庭にあるはずの出入り口は唐突に見つかった。

 四阿の北側にある風除けの木柵の裏側に、埋めこまれた隠し扉があった。一見するとただの丸太を並べた柵なのだが、蔦に覆われた部分に切り込みがある。

 押してみたが開かない。何か仕掛けがあるのかもしれなかった。

 少し離れてつくづくと周囲を見まわした。

 切り込みから人一人分離れた場所に、太い木の蔓がぶら下がっている。

 蔓を両手で掴み、思い切り引っぱってみた。すると木柵の切り込みの入った部分が、上方へいきなり跳ね上がった。

 男は思わず微笑を浮かべた。

 四阿の、高く積みあげられた石舞台の下にはぽっかりと開いた入口があった。石段が隠し戸の位置から斜めに下へ向かって深く刻まれていて、その両脇には舞台から続いて石が積まれ、入口を巧妙に隠していた。

 そうっと下りて足の感触を確かめてみる。

 日の射しこむ部分が限られているので、薄暗いが、確認したかった階段の形状は記憶にある通り、長くまっすぐ続いている。

 彼はむろん下りてみた。壁を伝いながら、慎重に足場を探りつつ一歩一歩下りる。石段はひたすら南へ向かってまっすぐ下っていく。

 二度目なのと螺旋ではないぶん、今回は暗闇の中でも落ち着いていた。

 岩山のちょうど中腹くらいまでは下りただろうか、と思われる頃、階段はいったん途切れた。壁の部分に木製の頑丈な扉が填めこまれていて、境目からうっすらと光が洩れている。

 扉に寄り添って耳をすませると、遠くから人の話し声がした。声はだんだん近づいてきて、小走りで通り過ぎて行った。

 ―――岩山の中を通り抜ける道がここにあるのか。

 そう思った時、馬の蹄音が通り過ぎて行く。方角は―――西から東方向で、複数だ。彼らが発した短い言葉と急いでいる様子から、兵士のようだとあたりをつける。

 男は薄明かりの中、じっと周囲に目を凝らした。

 この踊場はおよそ五歩四方。更に下へと下る階段は方向を変えて、東へと続いていくようだ。下った先には彼の目覚めた地下牢があるのだろう。

 彼は上へ向かって階段を戻り始めた。

 慎重に、鎖を引きずる音をなるべくさせないようにゆっくりと歩く。

 ―――あの通路の西方向には厩があるのだろう。そして兵士たちが向かった方角にはたぶんシーナの街があるわけだ。

 今はそれだけ解れば十分だ、と思った。

 それよりも慌ただしく走り回っているということは、エルデモーナか彼女の騎馬兵団がまもなく帰還するのかもしれない。

 まだだ、と彼は自分に言い聞かせる。

 もう少し準備をしたら―――とにかく手足を縛る枷を外すめどを立てねばいけないけれども、それができたならば、必ず逃げてやる。彼は胸に誓った。


 その晩は予想どおり嵐になった。

 宵のうちに降り始めた雨は時間とともに激しさを増し、遅れて風も吹き荒れて山の上の王宮を揺さぶり続ける

 男はあれからずっと夜は塔部屋で過ごしていた。

 小さな通気窓からも雨と風は容赦なく吹きこむ。しかし彼は体が濡れるのにも気づかぬほど真剣に、手足の頑丈な枷をどうしたら外せるかずっと考えていた。

 ヨナンが塔部屋を訪れたのはもうだいぶ遅い時刻だった。

 灯りに気づいて顔を上げた時、扉が開いて苦笑気味の笑みを浮かべたヨナンが立っていた。

 ヨナンは部屋に戻るようにと男に告げた。

「ヴェルドキア人が多数奴隷身分に落とされたと聞いてから、夜はこちらに籠もっているそうですね‥。侍女が困っていましたよ。余計な事を喋ってしまったとね。」

 石の床に腰を下ろし、片膝を立てて頬杖をついていた男は、そのまま無言で冷ややかな視線を向けた。

 ヨナンは再び微笑む。

「エリーは数日中には戻ります。お願いですから、戻っていてください。ハンナは別に悪気があったわけではないのですよ、アリュイシオン。」

「‥‥ここでいい。」

 それだけ答えると彼は視線を窓へ向けた。

 ヨナンは溜息をつく。

「姉は‥‥あなたにヴェルドキアが滅んだと伝えていなかったのでしょうか? それならば申し訳ないことをした、とハンナが気にしているのですが。」

「いや。滅んだとは聞いている。ヴェルドキアはもうない、と。」

「‥あなたは信じていないのですね?」

 少しだけ躊躇ったものの、力なく首を振った。

 ―――確かに故国はもうないのだろう‥。しかし。

 ヨナンは再び溜息をつき、踏みこんできて手を差しだした。

「よかったらわたしが知っている限りのことをお話ししましょう。こちらへ出てきてください‥‥着替えもした方がいい。あなたがどう思おうと、姉はあなたを護ろうとしているのですよ、それだけは確かな事実です。わたしにはなぜなのか理解できませんけれどね。」

 いつのまにか嵐は静かな雨へと変わっていた。

 うなるような風の音は止んでいる。

 男は考えた後でうなずき、差し出された手を取った。


 ヴェルドキア王都ヴェルデ・ダラッドに、連合軍で最初に到着したのは、推測通りエルデモーナ率いるロワの騎馬兵団だった。ヨナンのいた後続のロワ国本軍は二日遅れて西門前に到着したという。

 一方で東街道からやってきたセルジア・バルドの二国を中心とする連合軍主力部隊は、更に三日遅れて中央門に到着したそうだ。

 ウファル城砦の陥落から数えて六日目、三国及び諸部族連合軍はかねてより申し合わせていたとおり、ヴェルドキア王国に対して三項目の要求を突きつけた。

 一つ、連合軍に名を連ねるすべての国家及び部族の、盟約からの脱退及び領土的独立を認めること。

 一つ、ヴェルドキア王国が独占している広域での交易権の無条件解放。

 一つ、ヴェルドキアの名のもとに制定された税の全面的廃止、債務の放棄を認めること。

 要求を一つでも承諾できない場合、または一昼夜経っても回答がない場合は総攻撃に移る、と付記して送った書状に対して、ヴェルドキアからの回答はなかった。

 ウファル城砦陥落から七日目の昼。

 西門で特大の爆裂玉が立て続けに五発炸裂したのを合図に、連合軍はヴェルデ・ダラッドへ総攻撃をかけた。

 ロワ軍は西門を破壊し王都に侵入したものの、待ち構えていたヴェルドキア主力軍と一進一退の攻防を繰り広げることとなった。

 本来の作戦では機動力を生かして、西門から進攻してまずは中央門を護るヴェルドキア軍の背後に回り、中央突破を計る連合軍主力を援護するはずだった、しかしヴェルドキア軍はその作戦を読んでいたと見え、西門に最大戦力を注入してロワの騎馬兵団の王都内部への進攻を阻止するとともに、中央門の徹底防御のため内側に五重の防護壁を築いて備えていた。

 味方は中央門を突破できず、さりとて単独ではヴェルドキア軍の精鋭に阻まれて王城へ攻め上がることもできず、ロワ軍は日が落ちて西門の外へと一時撤退した。中央門の防護壁は厚く、突破できるという明確な見込みは立っていない。

 そんな状態が続くと、次第に連合軍の士気はだいぶ下がってきた。

 総攻撃開始から八日目の朝。

 作戦を変更し、いったん王都より全軍退却したロワ軍は中央門前に集結した。内側からの中央門開放を断念し、外側からの爆裂玉による破壊に切り替えたのである。

 既に破壊した西門からの同時侵入は、セルジア軍と代わった。

 爆裂玉が残っていたのならば、なぜ八日も待ったのか。男の呟きにヨナンは、皮肉な口調で答えた。

「セルジアが中央門からの入都にこだわったからですよ。連合軍の盟主国として西に回るのは不本意だったわけです。‥ま、その時はそう考えていました。」

「‥‥その時は?」

 顔を上げた男に、やや怒りを含んだ冷たい微笑を浮かべ、ヨナンはうなずいた。

「どうやらそんな単純な理由ではなかったようです‥。いまだに全容は不明なのですがね。推測するにセルジアのガレシス王は、何かの‥あるいは誰かからの連絡を待って時間稼ぎをしていた。恐らくは内通者の。」

 ―――内通者‥。そういうことか。

「‥‥驚かないのですね。それとも顔に出ないだけですか?」

 ヨナンは前と同じく酒を注いで彼に差しだし、自分も喉を潤した。

 そして話を続ける。

 爆裂玉で門を破ったものの、五重の防壁を排除するのに手間取り、ロワ・バルド両国を中心とした連合軍本隊が王都深部へ進攻したのは更に二日後の昼過ぎだった。その時、西側から進攻していたセルジア軍は既に王城へと到達していた。

 ロワの騎馬兵団でさえ突破できなかったヴェルドキア主力軍を、セルジア軍がどうやってたった一日半で退けたのか。エルデモーナはヨナンに疑問を洩らし、斥候を先に王城へ送らせたそうだ。

 その理由はすぐに解った。進攻した王都ヴェルデ・ダラッド内で、ヴェルドキア軍はなんと味方同士で殺し合っていた。

 遙か前方では王城の方角で火の手が上がっている。

 エルデモーナは顔色を変え、指揮をバルドのアルシャイド王とヨナンに託すと、騎馬隊精鋭の二十数騎だけを率いてまっすぐ王城へ走り抜けていった。

「あとで捕虜から集めた話を整理すると、我々が中央門を爆破したちょうどその頃に、王城で赤い旗が揚がったそうです。するとそれが合図だったらしく、セレイオス将軍が死んだ、との叫び声が上がり、続いて幾人かの連隊長たちが将官クラスの首を刎ね始めたというのです。」

 部下から不意打ちされた将はすべてヴェルドキアの貴族階級であり、叛旗を翻した連隊長たちはヴェルドキアに故国を吸収された被征服民族の出身者ばかりだったそうだ。

 民族の尊厳回復と独立。これは連合軍の主張であり、反ヴェルドキア同盟としての大義だ。セレイオスの死を合図として連合軍に資する行動に出ると、彼らがあらかじめ示し合わせていたのであれば、束ねていた頭領がいたのだろう。そしてその者は秘かに、連合軍の誰か―――恐らくガレシス王との間に、勝利の後には彼らの祖国を再興するとの約束を取りつけていたと考えられる。

 男の脳裏には父王の側近である一人の男の顔が浮かんだ。

 確か東方の小国の出身で、祖父の代に人質としてヴェルデ・ダラッドに来たが、成人する前に祖国は完全にヴェルドキアに組みこまれたと聞いた。

 セレイオスも同様の境遇だったが、老将軍はその出自を生かし、被征服民の中から優れた者を多用して、鍛えあげ、ヴェルドキアに忠実なる精鋭軍を作りあげた―――はずだったのだが。

 男は吐息を呑みこんだ。

 ヨナンの話は続く。

 混乱する王都を駆け抜けたエルデモーナが王城に到着した時、セルジア軍は既に中に突入した後だった。

 セルジアの名において占拠した、他国者は入れるなとの命だと、監視兵に入城を拒まれたエルデモーナは、その兵士を無礼打ちに切って捨てると強引に城内へ押し入った。そして馬を下り、宮殿の内へと向かう。

 王宮内は血の海だった。

 セルジア軍にはガレシス王より、王宮内にいる者は誰彼問わずすべて問答無用で首を刎ねろとの命令が出されていた。

 身分の上下、老若男女を問わず、首と胴体の離れた屍体があたり一面に転がる中で、エルデモーナはエフェルネイド六世の遺体の前で哄笑しているガレシス王を見つけた。

 話が違うと詰め寄ったエルデモーナに対して、嘲笑を浮かべた老王は、床に転がっていた王太子の遺体を指さして、これをくれてやるから目を瞑れ、と言い放ったそうだ。

 ―――ロワの戦姫(いくさひめ)よ。そなたの活躍のおかげで積年の恨みをとうとう晴らすことができた。感謝する。さあ、そなたを不細工と辱めた男の亡骸を持っていくがいい。‥‥傲慢なるヴェルデ・オキアめ。

 高らかに笑い続ける老王を見て、エルデモーナは激高し、剣を抜きかけた。

 その時一人の貴婦人がよろめきながらガレシス王の前へ出てきて、床にひれ伏した。

 ―――父上‥。どうか、どうか、兵をお止めください。どうか、お願いです、わが子たちだけはお目こぼしを‥。みな、あなたの孫です。

 セルジア王室より嫁した三の妃だった。彼女の背後には三人の王子王女が震えながら立ち竦んでいた。

 ガレシス王は笑いを顔に貼りつけたまま、一番上の王子の名を呼んだ。

 十一か二かの幼気いたいけな少年は目に見えて解るほど震えながらも、顔をきっと上げ、まっすぐに祖父の前に立った。

 ガレシス王はいきなり剣を振りかざし、孫にあたる王子の首を一刀のもとに刎ねた。三の妃の悲鳴が耳をつんざいて響く。

 ガレシス王は返す刀でそのまま、残りの二人の王子王女の幼い首を躊躇なく刎ねた。

 どくどくとあふれ流れ出す血溜まりの中を、三の妃は狂ったように泣き叫びながら這いずり回って、子どもたちの亡骸を必死に腕の中にかき集めようとする。

 ―――ヴェルデ・オキアの血は一滴たりともこの世に残さぬ。

 三の妃は頭上から振る父の冷たい言葉に、泣き濡れた顔を上げ、その手に提げられたままの血みどろの剣を見た。そしてやにわに剣を奪い取ると、自分の喉を突き、子どもたちの亡骸に覆いかぶさるようにして息絶えた。

 ガレシス王はなお笑みを浮かべたまま、実の娘の喉から剣を抜くと、ぶんと振ってその血を払う。

 ―――貴方は‥‥狂っている。

 エルデモーナが思わず口にすると、ガレシス王は再びにっこりと笑った。

 ―――狂気ならばずっと‥我が身とともにある。遙か遠い昔、ヴェルデ・オキアの血にいつか必ず思い知らせてやると、そのためにはどんな屈辱も忍び生きながらえてみせると神に誓った。その時からずっと我は狂っているのだよ、戦姫(いくさひめ)

 理解しろとは言わぬ。だが見逃せと老王は告げた。

 いつのまにか煙と炎が王宮内にも迫ってきていた。

 従身に促され、退出するガレシス王を見送り、エルデモーナは自分もその場を後にした。

「わたしたちが到着した時には、王城は炎に包まれて焼け落ちる寸前でした‥。同盟国には、姉妹や息女を後宮に入れたり子息を人質として預けていた国は少なくありませんでしたから、セルジア軍とガレシス王の独断的なやり方には当然のごとく非難が集中しました。中でも妹君を殺されたバルドのアルシャイド王の怒りは凄まじく、一時は一触即発状態となりましたが‥。」

 ―――ナターリャ‥。あの時無理にでも送るべきだった‥。

 ナターリャの腕の中で無心に自分を見ていた小さな黒い瞳。

 男はうなだれて、じっと自分の繋がれた両手を見る。

 ヨナンは彼の様子を冷静な目で観察しながら、言葉を継いだ。

「その時になって、誰もがやっと状況を把握しました。ヴェルドキアが滅亡したとなれば、西方地域に大国と呼べるのはもはやセルジアしかないという事実に‥。盟約に参加した国々の大半は、ヴェルドキアの影響力を弱めたいとは考えていましたが、ヴェルドキアが滅亡する事態までは想定していなかった。我々は皆‥バルドも含め、セルジアの野望に踊らされたようなものです。」

 ヨナンは溜息をつき、眉間に微かに皺を寄せた。

「セルジアの強い意向で、ヴェルドキアの作ったすべてが否定されました。法律や慣習、風俗。言葉までもね。現在公用語はセルジア語、古代セナ語、バルド語の三つです。ヴェルドキア語しか話せない純粋なヴェルドキア人は家も家財もすべて没収され、新たに定められた特別居住区に強制的に移されました。王都ヴェルデ・ダラッドは戦火の傷痕もそのままに廃墟となっています。」

 ヨナンはうつむいて黙ったままの男に憐れみ半分、嘲り半分といった表情を向けた。

「ガレシス王がヴェルドキア王家に、狂気に近い偏執的な怨恨を抱いているそもそもの原因が何であったのか。それはいまだに誰にも解らない謎ですが、事実として西方地域唯一の大国となったセルジアの王が、ヴェルドキア王家の血が‥それもヴェルドキアの黒い鷹と畏れられたエフェルネイド七世が生きていると知れば、再び戦乱が起きるのは必至でしょうね。‥‥わたしはね、ロワがそんな何の益にもならぬことにまきこまれるのはごめんなのですよ。」

 ヨナンは自分の酒杯を飲みほすと、手をつけられていない目の前の杯を皮肉な目で見た。

「今宵は‥‥ともに飲んではくれないのですか?」

 男はロワの宰相を静かに見返した。

「今の話を事実だと信じたからだ。‥‥俺がおまえならば、この場で当然俺を始末する。」

 金髪の男はふふっと声を立てて笑った。

「なるほど。つまりあなたは‥アリュイシオンなのですね? わたしに始末されるべき存在であると認めたわけだ。」

 男は冷笑を返した。

「それは問題ではないだろう? セルジアの気狂い爺いにロワが匿っているらしいと一度疑惑を抱かれれば、もはや真実など意味がない。確実に危険を回避するには、たった今ここで俺の首を刎ねればいい。あの女が留守のうちに。」

「それは‥とても誘惑的ですができませんね。わたしはガレシス王より何より、姉がこの世でいちばん怖いのですから。寵愛深いあなたに危害を加えたりしたら、二度と許してもらえないかもしれません。」

 ヨナンは盆を手に立ち上がり、彼の杯に残った酒をくいと飲みほした。そして呼び鈴を鳴らす。

 前の時と同様、扉が外から開いて、真夜中にも関わらずハンナの強張った顔が覗いた。

「ヨナンさま‥。大丈夫なのですか‥?」

 低めた声が聞こえる。

 ヨナンは侍女に柔らかな微笑を向けて微かにうなずいた。

 それから振り向くと肩ごしに挨拶を残し、蝋燭を灯したまま出ていった。


 ヨナンの立ち去った後、男は庭に出て天を仰いだ。

 ずっと知りたかった故国の消息。しかしそれは最悪の結果だった。

 彼が王宮を出た朝から数えて、たった十七日―――半月余りで滅んだというのか。

 いや、そうではない。男は考え直した。

 あの朝はむしろどこかで用意周到に準備された弓から、矢が放たれた瞬間だったのだ。サルベールを排除し、自分を廃し、最後がセレイオスの死だ。ヴェルドキアを護る盾が失われ、故国は崩壊した。

 実の祖父の手で首を刎ねられたという弟妹の顔が胸に浮かんだ。一番下の妹はまだ三歳だった。

 ヨナンが石を投げに来たのはよく解っている。さざ波を立てて、沼に魚がいるのかどうか確かめようというのだろう。

 だが解ってはいても平静ではいられなかった。

 弟妹たちだけではない、母も妃たちも―――幼い息子も。更に仕えてくれた数多あまたの者たち。皆まるで罪人のように首を刎ねられたかと思えばやりきれなかった。

 愚かで傲慢で弱い自分。何も見えず、幼稚な自負を抱えて、踏みとどまるべき場に踏みとどまれなかった。だから護るべきものを何一つ護れない。

 いくら後悔してももう遅い。何もかも遅すぎる。

 でもだからこそ知りたいのだ、まだ彼に償いの道は残されているのかを。

 たった一人、無様ぶざまに生き残ってしまったこの先に。

 男は満天の星を見上げ、一人声を殺して泣いた。


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