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第二章 山の上の王宮

 ロワ王国はヴェルドキアの北方、いくつもの山脈が(つら)なる入り組んだ山岳地帯にある。王都シーナは緑が広がる渓谷地で、王宮は街を見下ろす岩山の上に建てられていた。

 街の真ん中を流れる川は、山の洞窟を抜けていき、旧ヴェルドキア王国サルベ地方の丘陵地帯で幾本もの小さな川と合流し、やがて南方の海へと続く大河ユシュリスへ流れこむ。そのためシーナでは馬車より船が外へ行く商人たちの足となっており、船の発着場は朝早くからいつも賑やかだ。

 囚われの身となった男には、そんな街の様子を知る機会はまったくなかった。

 目覚めたあの日、目隠しをされて牢から出され、どこをどう歩いたかも解らぬまま、ただ延々と冷たい石造りの階段を上らされた。怪我が癒えたばかりの体は悲鳴を上げて、口も利けないほど息が上がったけれど、休ませて欲しいとは意地でも言いたくなかった。

 目隠しを外されて、押しこめられたのは小さな覗き窓一つしかない塔部屋だ。窓の下は断崖絶壁で、おまけに腕一本分ほどの間口しかない。

 押しこめた女は手をずっと引いていたのだから、自分も階段を上ってきたのだろうが、息一つ乱さない顔でにっこりと楽しげに笑った。

 ―――化け物女め。

 大きく息を切らせながら、心中で罵った。

 何より頭にくることに、たとえ体力が万全に戻ったとしても、この女には体術も剣術さえも到底敵わない。ウファルの戦闘でそれは身にしみていた。

 エルデモーナが何のために彼の命を助けたのかは、その夜のうちに解った。

 嘗て自分を公式の場で辱めた男を、反対に辱めるためだ。

 塔部屋は女王の私室に直結していた。

 その部屋は広々としていて、貴婦人の部屋というより、まるで学者の研究室みたいだった。壁一面に書棚があるかと思えば、やたら鉢植えや水栽培の植物が並んでいる棚があり、薬の調合台らしきテーブルの近くには大鍋の置かれた小さな竈がある。竈の横には外へ出る扉があって、色とりどりの花が咲き誇る庭園に繋がっていた。

 塔部屋へ繋がる小階段の足下には、天蓋のない低くて広いベッドが置かれていた。真上には大きな天窓があり、よく磨かれた玻璃が填めこまれ、ベッドに横たわると星が降るように輝いているのが見える。庭の四阿には自然の岩場と温泉を利用した湯あみ場も備えてあった。

 どうやら庭も含めたこの一郭は、女王が私的に過ごす離宮になっているらしく、彼女以外の人間は誰も入ってこない。

 エルデモーナは執務を終えて夜になると、塔部屋から彼を出し、ベッドに押し倒した。幸せそうな笑みを浮かべ、容赦なく全身を愛玩しつくす。

 初めのうちは激しく抵抗した。

 手枷に付けられた鎖を頑丈な石柱にくくられてしまい、上半身は動かせない。なので足で蹴りを入れてみたが、頬をかすった程度だった。

 エルデモーナは痛そうに頬を撫でて、もう、と顔をしかめた。

「まったく‥。容赦ないわね。わたしだから痛いくらいですんだけれど、貴方の蹴りがまっすぐ入ったら顎が砕けてしまうでしょ? 淑女の顔面を加減もせずに足蹴(あしげ)にするなんて! ひどい人!」

 彼は呆れ返ってどっちがひどい、と言い返した。

「淑女だと? 普通の淑女は男を鎖で繋いで姦したりしないぞ。」

 彼女は緑色の瞳を燦めかせて、あはは、と笑った。

「だって‥。そうしないと手に入らないんだもの。貴方の好みじゃないって初めから解っているんだし。命令したって大人しく従う人じゃないでしょ?」

 笑いながら彼女は、翌日から彼に足枷も付け、拘束した。

 頬を撫でながら、愛しいアリュイシオン、とつぶやく。

「この‥発情期の雌豚! 淫乱女! 変態! あばずれ!」

 罵って唾を吐きかければ、少しだけ傷ついた顔をした。なのでもっと罵ると、いきなり唇を塞ぎ、情熱的なキスをしてくる。

 息が苦しくなるほど長いこと舌を貪られて、やっと離れたと思ったら、彼女は体の上に跳び乗ってきた。

「ふふん‥。どうせ嫌われてるのは解ってるって言ったでしょ? 何て言われたって平気よ。貴方は‥‥わたしのもの。」

 戦場で敵国の捕虜になれば、たいていは奴隷身分に落とされる。それは知っていたしありふれた話だ。まして怨恨を負う身であれば、どんな惨い目に遭わされようと文句は言えない。当然だ。

 ―――しかし。こんな状況は予想外だ‥。

 ヴェルドキアでは、身分ある未婚の女があからさまに奴隷の男妾を持つなど考えられないのだが、ロワでは問題ないのだろうか。女が王になり、将軍になって戦場を駆けめぐるような蛮族の国では、その程度のお遊びは何も問題にはならないのかもしれない。

 ひと月過ぎた頃には抵抗するのを諦めた。

 ただ黙ってされるがままに身を横たえていると、天窓から見える星空がやけに美しいことに気づいた。

 十八からほとんどを戦場で過ごし、領土拡大の先頭に立って王都に戻ることも滅多にない日々だった。星を無心で眺めたのはいつのことだったか。うんと幼い日、十になる前はよく王宮の見張り塔から星を眺めた気がする。

 いや、そんな記憶はあるはずもない、と思い直した。物心つくより前から彼はいずれ国を背負う身として、遊びでさえもすべてが王になるための修練だった。無為な時間など少しも許されない。星を眺めたのは師について兵法を学んだ一環だ。方角を知り、天候を読む。

 しかし今異国の地の山の上から眺める星は、彼の記憶にある故国の星空とはまったく違っていた。

 窓を通してさえ天は非常に近く、降るほどに輝く星は無数にひしめいている。

 この満天がつくづくと教えるのは小賢しい知識などではなく、何もかも失い剥ぎ取られた一個の人間としての己の、あまりな小ささ。

 ―――国を失うということは‥‥人でさえなくなるということか。母上はご無事だろうか‥。父上と一緒に亡くなられたのか、それとも。

 母は十三で彼を産んだ。まだ十分若く、美しい。しかもヴェルドキアの王族の出で、ナターリャのように頼るべき故国が他にある身ではない。自分は―――自分の傲慢さのゆえにこんな情けない境遇に落ちこんでいるが、母は。

 そう思うと泣きたくなった。

 あの美しい母が陵辱されるなど考えただけで耐えられなかった。

 彼はぐっと唇を噛みしめて、体の上で満足げに吐息をついた女の顔を穴の開くほどじっと見つめた。

 視線に気づいて、戸惑ったように彼女はなあに、と訊ねた。

「‥‥謝るから。」

「え?」

「悪かった。あの時は‥他に不愉快なことがあって、八つ当たりしただけだ。ほんとうに不細工だと思ったわけではない。すまなかった、おまえは十分、可愛いかったよ。」

 エルデモーナはぱあっと真っ赤になったものの、胡散臭そうに探るような表情を浮かべた。

 彼は続ける。

「‥‥だからもう、許せ。もう十分恨みは晴らしただろう? 頼むから、さっさと殺してくれないか。」

 星明かりの中で一瞬だけ、エルデモーナの瞳がひどく寂しそうに歪んだ。

 しかしすぐに冷ややかな笑みを浮かべる。

「‥恨んでいたわけではないわ。あの場所でわたしは確かに毛色が違っていて、いちばん不細工だったもの。泣きながら国に帰ったけれど、不細工って言われたのが悲しかったんじゃないの。貴方がわたしの手を取ることは決してないんだと思い知らされて、悲しかったのよ。」

 彼女は彼の胸に顔を埋め、そうっと寄り添った。

「戦場で‥貴方を見つけた時、体が震えたの。あんな場所で名誉もなく名さえなく死にゆくのならば‥‥わたしが貰ってもいいんじゃないかと思った。だから拾ってきたんだもの。何度も言うけど、苛めたいわけじゃない。鎖で繋いでおかないと逃げちゃうから繋いでるだけよ。」

 男は自嘲を籠めて言い返す。

「俺は‥馬か、それとも犬か? いずれおまえに尻尾を振るようになるまで、繋いでおくつもりか。」

「まさか。貴方が誰かに尻尾を振る? ありえないわね。」

 彼女は体を離し、すっくと立ち上がって背中を向けた。

 素肌に薄ものをはおり、彼の手鎖を壁の金具から外す。足の枷を固定具から外し、代わりに鎖で繋ぐ。

「十年前‥。泣きながら帰国したわたしを母は優しく抱きしめてくれた。父は自分に似たせいだと言って、一緒に泣いてくれたの。兄はものすごく笑ったけれど、人質にならずにすんで良かったって‥。」

 柔らかい絹の上掛けを彼の体に掛けながら、でもね、とエルデモーナは続けた。

「あれからいろいろあって。父は七年前に戦で亡くなって‥母と兄は三年前に流行病で亡くなった。なんの巡り合わせか、ヴェルドキアに拒否されたわたしひとりが残る羽目になったのよ。とっくにこの国にいないはずだったのに‥。」

 ね、と彼女は続ける。

「運命ってわからないもの。三年前に王位を嗣いだ時だって、ヴェルドキアを攻めるなんて想像もしなかったし、貴方にもう一度会えるとも思っていなかった。わたしは運命がくれたものに手を伸ばしただけよ。」

 再び隣に寄り添って、彼女は背中合わせに体を横たえた。

 男は吐息をついた。

「‥‥教えてくれ。俺はどれくらい意識を失っていた?」

 躊躇いがちにひと月くらい、と答える。

 やはりそうか、と思う。城壁での闘いは冬の最中だったが今はどうやら春真っ盛りだ。

「薬を使ったんだな?」

「まあね。意識が戻ったら素直に治療させないだろうと思ったから。ロワに伝わる眠り薬よ、毒性はないから。」

 言い訳がましい声に呆れ返る。ひと月も眠らせておくなど、かなり強い薬のはずだ。毒性はないが聞いて呆れる。

「‥いっそのこと、鎖で縛るより媚薬でも使えばいい。素直におまえの命令を聞く人形になるだろうよ。」

 彼女はガバッと振り向いて、怒った。

「それじゃだめでしょ。あれは毒薬なのよ、使い続ければ発狂するわ。」

「狂ってしまえば幸せだろう。おまえの顔を見て、喜んでよだれを垂らす犬になる。」

 じっとこちらを見返す瞳に激しい光が灯る。

「薬は使わないわ。狂いたいのなら狂ってしまえばいい。でも離さないわよ。」

 ふふん、と冷笑を返した。

「ならばいつかおまえの寝首を掻いてやる。覚悟しろ。」

「そうこなくっちゃね。楽しみにしてるわ、アリュイシオン。」

 天窓からこぼれ落ちてきそうな満天の星空の下で、エルデモーナはにっこりと笑い返した。


 エルデモーナは翌日から彼を塔部屋に押しこめなくなった。

 さすがに火薬や火打ち石、ナイフなど危険品は手の届かない場所に隠してしまったようだったが、書棚の本はどれを読んでも構わないと告げた。

「ヴェルドキアの言葉で書いてあるのも結構あるはず。退屈凌ぎにはなるんじゃない? あまり悪さをしないでね、また閉じこめなきゃならなくなるから。」

 彼女は苦笑気味に無意味な忠告をして、部屋を出ていった。

 手足の枷と鎖はついたままだが、ひきずって部屋の中を歩くくらいはできる。天気の良い日には庭へ続く扉も開け放していくので、庭園を散歩することもできた。

 最初のうちはうろうろする気分にはなれなかった。

 何とかして故国の消息を得たいと思うのだが、外部との接触を断たれている以上エルデモーナに聞くより他に方法がない。しかし彼女はやんわりとはぐらかして、教えてはくれなかった。それに敵国の彼女が彼に真実を告げるとは限らない。

 それでもエルデモーナの平穏そうな毎日を見ていると、自分が眠らされていたひと月余りの間に、戦いは何もかも片づいてしまったのだろうと思わざるを得なかった。そんな短期間で片がつくというのはつまり―――完全勝利、ヴェルドキア側から見れば完全なる敗北しかありえない。

 しかし彼が放逐されたあの時点では、父王は何か算段をしていたはず、と思う。敗北はほぼ決していたけれども、和睦交渉は水面下で始まっていたに違いなく、軍議の場でも明日にも滅亡するほどの緊迫感はなかった。

 では交渉する余地もないほど、王都はあっさり陥落したのか。

 セレイオス率いる第三軍は無傷で入都していたし、第一軍だって無策のおかげで人的損害はほぼないままに詰めていたはずだった。一日二日で敗北するなどありえないし、最低でも王都を捨てて国王を担いでどこかへ―――たとえば南のアマサへ一時退避するくらいは退避するくらいはできただろう。

 しかし。

 ウファル城砦は半日も保たなかった。

 エルデモーナの率いるロワの騎馬兵団は凄まじく強かった。あのまま駆けぬけたなら、翌日には王都に攻め入ったのか。

 いや王都ヴェルデ・ダラッドには国軍の七割が備えていたのだ。いかに強くとも十倍の大軍に対して勢いだけで突っこんで行くはずもない。恐らくは王都に入る前に東の街道から攻め上がるバルド・セルジアの連合軍主力を待って、合流してから攻め入ったに違いない。

 ならばウファル陥落を聞いてから、王都では戦況に備えて手を打つ時間は十分あったはずなのに。

 ―――セレイオスは‥彼も死んだのだろうか? 

 自分に一から武術を教えこんだ武骨な老将軍が、あっけなく敗死したとは考えたくなかった。けれど彼が生きていたなら、父王と王太子を何としてでも逃がしたはずで、むざむざ王の自決と祖国ヴェルドキアの滅亡を手をこまねいて見ているなどありえない。

 王太子として死んだのは恐らく異母弟のタリエルだ。よく気のつく、賢くて優しすぎる弟だった。父のお気に入りで―――王宮の女たちにも人気があった。王太子の室に入った女たちはたいてい、タリエルが王太子であったら幸せだったのにとこぼしていたものだ。

 今の彼の境遇では、思い悩んだところですべてを喪失した事実は変わらない。

 名前や身分を失った時に、家族もすでに家族と呼んではならない身になった。

 それでも故国の血族がひとりでも多く戦火を生きのびていてほしいと思うのは、理屈ではなく真情だ。エルデモーナのように家族との仲睦まじい記憶があるわけではなくとも、たとえ数回しか言葉を交わしたことのない弟妹であっても、踏みにじられて平気なはずもない。

 山の上の庭園から、天空の果てしない広がりを眺め、嘆息をこぼした。

 悔やまれるのは己の過信と愚かさ―――何より傲慢さだ。

 昨年の夏まではヴェルドキアに対抗する勢力などありえなかった。

 彼が指揮を執った戦は敗け知らずで、王国は建国以来最大の領土を誇った。大陸西方部中央に大きく君臨し、同盟国という名の属国は二十を越えた。

 後から考えれば不穏な動きはそこらじゅうに存在していたけれど、その時は大した脅威であるとは思わなかった。国王である父との確執、そちらのほうが大きかった。

 ―――父上を井の中の蛙と嘲笑って‥結果はどうだ? 

 聞いてくれないと嘆く前に、父王に耳を傾けてもらえるような方策を真剣に探っただろうか。否だ。

 王子であるとの甘えが、自分の言葉を拒否する国王に非があると思いこませた。王を補佐する責務を忘れ、結局は国を傾け、王であり父である人を死なせる主因となってしまった。

 もしも時をウファル城砦に戻し、エルデモーナを退ける強さを得られたならば、迷わず王都に取って返すだろう。更にその前に戻れたなら、母の諌言に従い、一臣下としてどうか王宮を護らせて欲しいと、頭を床に伏して父に請い願うだろう。なおも前に戻れたなら、一身と引き替えてでも第二軍の処遇をセレイオスに託すよう計らえたはずだ。

 後悔してもし足りないほどに煮えくりかえる胸を抱いて、なぜ運命は自分を生かしておくのだろう?

 ―――どうにもならない後悔に身を灼いて、鎖枷の内側で這いずり回ってただ己の命のみを繋げというのか‥。それが贖罪なのか?

 しばらくの間、何日も天を仰ぎながら考え続けた。

 やがて彼は今手に入るものを手に入れよう、と心に決めた。

 エルデモーナの言った、『運命のくれたものに手を伸ばしただけ』という言葉が胸に強く残っていたからだ。

 運命が何を取り上げ、何を授けるかなど誰にも予測し得ないのであれば、先のことは考えず、今の状況で最大限の利益を得る。男は唯一与えられたこの空間で、得られる限りを得ようと考えた。

 手始めに彼は、異国の王室の書棚に並ぶ本を手に取った。

 最初はヴェルドキア語の本を読み始めたが、あまり目新しい記述はなかったので、やがてロワの言葉で書かれた書物に手を伸ばした。

 文字で書かれた言葉は耳で聞くよりも違和感が少なかった。

 そうしてみるとヴェルドキア語とロワ語は発音こそまったく違うけれど、もともとは同じ古代セナ族の言語から派生した言葉であるというのがよく実感できる。綴りや文法はほぼ同じだった。

 読めるようになってくるとロワの本は非常に興味深かった。

 動物や植物の育て方や利用の仕方。薬草の見分け方、薬の調合の仕方。狩りの方法、山で獣に出会った場合の対処。実用知識の宝庫だ。

 ロワ王国はもともと、山岳地帯に住む複数の部族が集まって国を成したのが始まりだと聞いている。主な生業は狩猟と採集で、一部牛馬や山羊の飼育。恐らくはそれぞれの部族ごとに持っていた様々な工夫と知恵を、王家の名の下に体系化し、書物としてまとめたのだろう。

 幼い頃に学んだヴェルドキアの主な産業は何だったろう。都市部の商工業が中心で、交易と―――属国からの税か。強大な軍事力を背景に、物品や技術を独占して多数の民族を従えてきた。

 成り立ちからして違うのだとつくづく思い知る。

 国とは何か、王とは何だ。

 あらためて考えればそこに唯一絶対の答などないのだと容易に気づく。誰のための何のための国であり王であるのか。視点を変えれば答は無数にある。

 またも自分の視野の狭さを思い知った。

 力でねじ伏せて形だけ恭順させても、頭を下げたその下で何を考えているかなど解るわけがないのだ。そもそもの日々の暮らしが異なれば、大切と思うものや視点がずれる。

 昨年の早春、今から思えば内乱の引き金になったと言える少数民族の叛乱があった。

 彼らは元来は大人しい部族だったのだが、どうやらヴェルドキアがその地方一帯にかけた井戸に対する税が、彼らの禁忌に触れてしまったらしい。道理が解らぬ暗昧な連中なのだと、はなからよく訴えも聞かずに力で抑えこんだ。そして彼らのすべてを没収した。

 根気よく説得してやればよかったのだと溜息をつく。

 ろくに戦闘経験もない極小民族だ。駆け引きしようと考えたわけではなく、彼らにとってはほんとうに生き死にに関わる問題があったのだろう。訴えを聞いてやり、納得させる方法も採れたはずだった。

 あの時もちらりとそう思った。だが彼の責任の範囲ではなかったため、関係ないと看過したのだ。

 しかし平和的で知られる少数民族の苛烈な抵抗と、無情な殲滅策による滅亡は周囲の小国にヴェルドキアへの不信と不安をあっという間に伝播させ、半年後には盟約からの大量離反とセルジア王の旗の下への参集という結果に繋がった。

 傲慢と怠惰。手間を惜しんだ結果が―――購いきれぬ代償。

 彼は頭を振って、果てしなく湧き出てくる後悔を封じこめた。

 今更考えても仕方のないことだ、と次の書を手に取る。

 薬草と薬作りの本は特に興味深く読んだ。挿絵を見て、どこかで見たことがある気がすると、大抵はエルデモーナの庭に植えてある。なるほど彼女も実際に育てて、薬を調合してみたわけだ、と気がついた。

 そこで彼は毎日のように本を片手に庭に出て、実際に確かめてみた。

 花や蕾、根の張り具合、葉の色や大きさ。手に取って触れてみて、時にはちょっと囓ってみたりして、黙々と学んだ。土の色や湿り気具合、陽当たりなどを丹念に調べながら、やがて彼はこの庭園が非常によく計画されて緻密に作られた庭だと知った。かなり試行錯誤を繰り返し、作り上げたのだろう。

 庭園に出てすぐ近く、東南の角隅に四阿が建っている。石を高く積み重ねた舞台を囲むように柱を八本建て、屋根を葺いただけの簡素なものだ。隣には単なる岩場に排水溝を切って屋根をつけただけの浴場があるが、そこは少量ながら温泉が湧きだしていた。

 そのあたりでは地熱が高いので、土は温かく湿っていた。だからシーナよりもっと低地や温暖な地域の森に生息するような植物が植えられている。

 四阿と反対側の北西の方角へ向かうにつれ、植えられているのはだんだんと高地や寒冷地の植物に移り変わっていった。花の咲き乱れる草地、低木の茂みを抜けて、庭園を囲った石積の城壁にたどりつく頃には、ごつごつした固い地面に所々名もない草が生えているだけの荒れ地が現れる。

 恐らくはこの荒れ地が、元来の山の上の風景だったに違いない。土を運び上げ、肥料と混ぜ合わせ、地熱を利用して各地の風土を縮小して再現する。その労力と時間を思えば、エルデモーナ一人の仕事とは思えなかった。代々王家に継承されてきた庭園なのだろう。

 四阿に戻って腰を下ろし、城壁ごしに見える遙か遠くの森や草原を眺めた。

 夏へ向かう柔らかな風が、肩を越えて伸びた髪を梳かしていく。

 頭上に広がる青い空を、翼の大きな鳥が影を落として悠然と通り過ぎていった。


 ある日の午後、まだ日が高いというのに、彼を呼ぶエルデモーナの声が庭園に響いた。

 彼は治療用の薬草ばかりが植えてあるあたりで、ちょうど咲き始めた花々を観察していたところだったが、特に振り向きもせず返事もしなかった。

 エルデモーナはあっという間に彼を見つけると、再び名を呼び、背中から抱きついてきた。

「アリュイシオン‥! 」

 背中に押しつけられた感触が、どうやら微かに濡れている。

 ―――泣いているのか? 

 少し意外に思った。まさか彼が部屋にいなかったせいでもないだろうが、何にせよ彼女が泣くことがあるとは。

 エルデモーナはしばらくじっと背中に顔を埋めていたが、唐突に離れると彼の腕を取って、部屋に戻りましょう、と言った。

「‥‥嫌だと言ったら?」

「ここで押し倒すわよ。わたしはいいけど。」

 彼は振り向いて、冷笑を浮かべた。

「できるならやってみればいい。」

 そう言うといきなり彼は、エルデモーナを地面に逆に押し倒し、両手を頭の横について手枷についた鎖で彼女の首を締め上げた。

 エルデモーナは苦しげにぐっ、と呻いて、辛うじて手で鎖を押し返す。

 男は躰をぐんと低くして、彼女の腰と膝を体重で押さえこみ、顔を近づけてせせら笑った。

「どうだ? 油断しただろう。‥このまま首を捩じ切ってやろうか。」

 エルデモーナの体術は、柔らかな筋肉を最大限にしならせて、速さと反動で相手の力を倍にして跳ね返すやり方だ。反動をつける空間的余地を与えなければ、所詮は女の躰だから抑えこむのは容易い。

 しかし彼女は悔しそうな顔もせず、微かに笑みを浮かべた。

 必死に鎖を押し上げながら、途切れ途切れに声を絞り出す。

「‥‥殺せばいい。そうしたら貴方だって‥ここで餓死するしかないのよ。わたしは貴方の腕の中で死ねるなら‥それも一緒に死ねるなら、嬉しいくらい。」

 彼女の首は思っていたより華奢でほっそりしている。ほんの一瞬で、簡単に捩じ切れそうだ。なのに緑色の瞳は怖いほど真剣で、王宮の庭ではなくまるで戦場で対峙しているかのような錯覚を覚えた。

 毒気を抜かれた気分で、彼はエルデモーナを解放した。

 隣の叢に倒れこみ、そのまま仰向けに寝転ぶ。

「‥‥わたしを殺さないの? 二度と油断はしないわよ。」

 ゆっくりと上体を起こし、せき込みながら彼女は尋ねる。

「ふん。おまえと心中などまっぴらだ。」

 エルデモーナはじっと彼を見ていたが、しばらくしてそっと顔を寄せてきて、唇を重ねてくる。静かに、やがて激しく貪欲に執拗に口づけだけを繰り返す。

 その肩ごしにラベンダーの紫色の花が、風にさやさやとそよいでいる。

 いつも彼女の付けている香水と同じ香りだとふと気づいた。

 やがて彼女は顔を上げて切なそうに目を細め、ふうっと吐息をつくとまるで甘えるように彼の胸に頭を埋め、寄り添った。

「‥‥らしくないな。女のようだ。」

「いつもだけどほんと、失礼ね! 貴方が認めなくても女だもの。いろいろあるのよ‥。」

 力なく答え、エルデモーナはますます強くすがりついてくる。

「わたし‥戦がなければてんで役立たずだから。兄さまみたいに賢くないし‥ほんとは王になんて向いていないのよ。つくづく疲れちゃうこともあるわ‥。」

 彼女の吐息には嘲笑と沈黙で応えた。

 エルデモーナは上体を起こして振り返り、にこにこっと微笑む。

「ふふふ‥。どうせバカのくせにって思ってるんでしょ? まあね。考えても仕方がないのよね、そもそも思考に向いてないんだから。」

 そんなこともないと思ったが、男は言葉にしなかった。

 咲き乱れる花々の香りを吸いこんで、静かに目を閉じる。

 再び肩にそっともたれかかってくる重みを感じた。

「アリュイシオン‥。わたし‥。貴方の子が産みたい。」

「‥‥今更ヴェルドキア王家の血に何の価値がある?」

「王家の血? 要らないけど‥?」

「じゃあ何のためだ? 女だって証明したいからか?」

 エルデモーナはムッと顔をしかめ、赤くなった。

「違うってば! もう、解らない人ねえ、ほんと!」

「解るわけがない。仮にもおまえは女王だろう? 戦争捕虜の種など産んだところで邪魔になるだけだ。子が欲しいならさっさと夫を迎えろ。」

 男は冷たく言い放ち、背中を向ける。

 ―――もしも産まれて‥始末されたりしたらやりきれない。

 だがエルデモーナはますます怒った顔になり、彼を強引に仰向かせ、あのねえ、と声をとがらせた。

「貴方って‥王家の血以外に自分に価値はないって思ってるの?」

「は?」

「わたしはね、貴方にそっくりのきれいな顔をした、賢くて、わたしを母さまって呼ぶ子どもが欲しいの‥。だって貴方はぜったいにわたしを好きにならないけど、そっくりの顔をした子が、男でも女でもいいけどね、わたしを慕って手を差しのべるのよ? 想像しただけでたまらないほど幸せじゃない?」

「妄想だな。親だからって無条件に慕われるわけじゃない。」

 ―――俺の子なら尚更、素直じゃないに決まってるのに。

 だが彼女は自信たっぷりに答える。

「大丈夫、めちゃくちゃに可愛がるんだから。わたしを見て母さまって呼んで、満面の笑みを浮かべるわ。」

 うっとりした表情で彼を見遣り、女王は勝ち誇った笑みを浮かべる。

 ―――この女、やはり獣に近いな。少なくとも王家の感覚じゃない。

 彼自身は自分で選んで妃にした女はひとりもいない。

 王の後継を産むに相応しい、由緒正しい血筋の女。あるいはナターリャやエルデモーナのように、国同士の思惑が絡んだ政略結婚のため送りこまれた女。感覚的には王太子の公務の一つに過ぎなかった。

 ナターリャが正妃になったのは、いちばん早く男児を産んだからだ。それに彼を冷たいと詰るナターリャにしても、彼に思慕の情を抱いていたわけではない。タリエルに好意を抱いているのを隠そうともしていなかった。でも彼は、生まれた子が自分の子ではないかもしれないと疑ったことは一度もない。

 ナターリャに違和感を覚えたことはないのだから、バルド王家は少なくとも同じ感覚なのだろう。エルデモーナの自由さはロワ王家の感覚なのだろうか。それとも彼女が変わり者なのか?

 呆れ返った視線に気づいて、エルデモーナは苦笑気味に笑う。

「女王のくせにって言うんでしょ? ふふ。大丈夫よ、その時は‥国は弟に譲るわ。賢い弟がいるのよ。」

 弟がいるのか、と重ねて驚いた。

 ヴェルドキアでは男しか王位継承権は認められないから、無意識に亡くなったという兄しか男兄弟はいなかったのだろうと思いこんでいた。

「兄さまが亡くなった時は、ロワは騎馬隊育成の真っ最中だったの。小国が独立と平和を維持していくためには、強い軍隊が必要だと兄さまは言っていたわ。他国にロワの名を刻みつけるような独創的で圧倒的な戦闘力、でもあくまでも防衛のためなので小数精鋭部隊でいい、とね。わたしは‥兄の遺志を継いで騎馬隊を完成させるために王位に就いたのよ。」

 ロワの名を刻みつける―――確かにこの戦で、ロワの騎馬兵団はヴェルドキア兵士にとって恐怖の象徴だった。

 北方のカル族、ベルケル族、西のエセル人。国と呼べる規模ではない辺境少数民族との絶え間ない国境紛争は、長年ロワの頭痛の種だったそうだ。休戦協定の一方的破棄、戦、和睦、再び協定。そんな繰り返しの中でエルデモーナの父は、エセル人との和睦の席でだまし討ちに遭い、命を落としたという。

「その報を聞いて頭に血が上ったわたしは、たった十数騎でエセル人の集落に乗りこんで報復戦を仕掛け、さらし者になっていた父さまの首を取り戻したの。兄さまには無謀だと後でさんざん叱られたけれどね。」

 狩りの要領で爆裂玉を使って集落を混乱させ、武器を持って出てきた者たちを離れた高所から弓矢で狙い撃ちにしたそうだ。それから馬に騎乗したまま首長の館に入って首長と息子を討ち取り、父の首を取り戻したと彼女は説明した。

「目的を果たしたから、その後はさっさと帰ってきたわ。兄さまは叱った後で褒めてくれて‥。どうもその時に騎馬隊を思いついたみたい。」

 エルデモーナはつかのま思い出を懐かしむような目をしたが、すぐにうつむくと小さな声でぽつんとつぶやいた。

「でも‥ヴェルドキア後の混乱が収まって、世の中が平和になればわたしはもう、王でいる必要はないの。」

 男は振り向き、さえざえとした視線を向ける。

「なぜ‥そんな内輪の話を俺にする?」

「ん‥。他の誰にも言えないからかしら?」

「‥‥ここから一生逃げられるはずがないと高を括っているわけだ?」

 思い切り皮肉をこめて男は言った。

「ふふ。逃がしたくない、とは思っているけれど。運命の星がどんなふうに瞬くのか、誰にも解らないわね‥。」

 エルデモーナは静かに微笑した。

 緩やかな風が頬を撫でて流れ、視界に広がる無限の天空はいつのまにかほんのりと茜色にそまっている。

 そろそろ日が落ちるから、と振り向いた髪はいつも以上に赤かった。

 星は自分の上にも瞬くのだろうか。

 男はくっと奥歯を噛みしめた。


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