第2話:金で買った死体、あるいは無菌の檻
自動ドアが開いた瞬間、鼓膜が軋んだ。
――音が、なかった。
そこにあるのは静寂ではない。
音そのものが死に絶えた、圧を伴う無音だ。
小野寺邸の廊下を歩くたび、巡は自分の輪郭が削り取られていくような錯覚に陥る。
壁に掛けられたルネサンス期の宗教画、廊下の隅に置かれた18世紀のアンティーク・チェスト。それらはどれも、歴史的な価値を証明された「本物」だ。しかし、それらはこの邸宅の過剰なまでの清浄さの中で、生命の痕跡を完全に漂白されている。巡には、それらが丁寧に防腐処理を施された**「金で買った死体」**を展示している列にしか見えなかった。
『やあ、巡さん。時間通りだね』
インターホン越しに聞いた誠の声が、脳裏でリフレインする。感情の起伏を排した、滑らかで冷たい声。
最新鋭の空気清浄機が吐き出す空気は、あまりに純粋すぎて、肺を撫でる摩擦すら存在しない。吸い込むほどに、自分の肺が不純物を拒むプラスチックの袋に変わっていくような錯覚。巡は、喉の奥にこびりつくような「息苦しさ」を感じながら、目的の部屋の前に立った。
白亜の重厚な扉が開く。
そこは、邸宅の中で最も終わりだけが整えられた場所だった。
「……失礼します。特別指定資産、品質監査に伺いました」
部屋の中央、光を吸い込むベルベットのソファに、彼女は置かれていた。
小野寺まゆ。
巡は、震える指先で彼女の頬に触れた。熱という概念を拒絶するような、絶対的な無機質の温度。
『……巡さん。報告を。前回から0.02%の誤差も許さないと言ったはずだ』
天井のスピーカーから、誠の平坦な声が降ってくる。親しみなど微塵もない、検品の精度だけを求める声。
「……はい。規定に基づき、各パーツの整合性を確認します」
巡は監査用の端末を起動し、まゆの首筋にある目立たないポートに極細の端子を接続した。視界の端に、彼女の生命維持ログが淡々と流れ始める。
だが、そんなデジタルな数字は、この「作品」の本質を何一つ語らない。
「失礼します、まゆさん。……始めます」
巡はセンターの入った鈍色の義手を、まゆの白い肩に置いた。
最新のクローンパーツで組み上げられた彼女の肉体は、産毛の一本、毛細血管の透け具合に至るまで、神業のような精密さで「人間」を再現している。
巡は義手の指先に神経を集中させた。
高感度センサーが、皮膚の下を流れる培養液の脈動や、人工筋肉の微かな弛みを拾い上げる。
それは、もはや検査というより、億単位の価値がある繊細な骨董品を鑑定する、薄氷を踏むような作業だった。もし指先の圧力を数グラム誤れば、この完璧な曲線に瑕をつけてしまう。
巡は、首筋から鎖骨、そして胸元へと、壊れ物を扱う手つきで義手を滑らせていく。
その指先が触れるたび、まゆの虚ろな瞳が、吸い寄せられるように自分を追った。
背中に、じっとりと冷たい汗が伝う。
彼女は今、何を感じているのか。
この指先に伝わる柔らかな弾力も、体温も、すべては誠という男が自分の都合で発注し、作り上げた「最高の道具」の機能に過ぎない。
(……俺は今、何を触っているんだ?)
一分が一年にも感じるような、窒息しそうな一時間。
巡は、自分が美しい女を検品しているのか、それとも精巧な墓標を磨いているのか、その境界線が分からなくなる恐怖に、奥歯を噛み締めた。
ようやく全ての項目がグリーンに染まり、巡は安堵で指先の力を抜いた。
(早く……一刻も早く、ここを……)
機材を鞄に押し込み、立ち去ろうとしたその時。
「あ……」
焦りから手が滑り、愛用の金属製メモ帳を床に落としてしまった。
「カーーン……」
音は、やけに長く尾を引いた。
無菌室に、あまりにも不吉に響き渡る。
『おや。随分と急いでいるようだね、巡さん。私の家は、そんなに居心地が悪いかな?』
誠の声に、獲物を狙う蛇のような粘り気が混じる。巡の心臓が、喉元まで跳ね上がった。
『あるいは――その指に残っている“古い家”の匂いを、早くどこかへ持ち帰りたいのか』
ギクリ、と肩が跳ねる。見られている。カメラ越しに、自分の動揺を、清水家への未練を、すべて見透かされている。
巡は震える手でメモ帳を拾い上げ、深々と頭を下げた。
「……失礼しました。次の公務の時間が迫っておりますので、これで」
逃げるように部屋を出る巡の背中に、まゆの視線が突き刺さっているような気がした。いや、それは妄想ではない。扉が閉まる直前、まゆの指先が、ほんの数ミリだけ、彼を呼び止めるように動いた――そんな気がして、巡はさらに足を早めた。
邸宅の門を出た瞬間、肺が激しく波打った。
排気ガスの混じった、濁って、ぬるい、外の空気。それをむせ返るように吸い込み、巡は崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。自分がまだ「生きている肉体」であることを確認するために、彼は震える手でポケットの端末を取り出す。
指が吸い付くように、スケジュール画面をタップする。
【次件:清水家 定期巡回(4日後 15:00)】
その文字を見た瞬間、喉を締め付けていた見えない手が、ふっと緩んだ。
あと、四日。
四日経てば、あの埃っぽい居間に行ける。
あの「ガラガラ」という車輪の音。
目を閉じれば、もう、お寿司が駆け寄ってくる音が聞こえたような気がした。
巡は、汚物でも拭うように自分の義手を強く握りしめ、前を向いた。




