第1.5話:『事務処理、あるいは逃避の色彩』
役所の執務室は、深夜の冷徹な静寂に包まれていた。
壁一面のホログラムスクリーンが、淡いブルーの光を巡の横顔に投げかけている。カチカチ、と小気味よい音を立てて、彼は義手の指先でキーボードを叩き続けていた。
この時間は、巡にとってある種の救いだった。
決められたフォーマットに、決められた数値を流し込む。感情を一切排除し、ただ「公務」というシステムの一部として機能する。そうすることで、三日後の予定から、わずかでも意識を逸らすことができるからだ。
周囲のデスクからは、とっくに同僚たちの気配が消えている。
『完全閉鎖まで、残り十五分です。未保存のデータを確認してください』
無機質なアナウンスが天井から降り注ぐ。巡は焦りを覚え、指の動きを早めた。
最後に開いたのは、**【対象者:清水康之】**のファイルだった。
画面に浮かび上がる、複雑な病名。肺と心臓を蝕むその疾患は、もはや「緊急性:高」の赤いアラートを点滅させている。
「……三ヶ月か」
巡は独り言を漏らした。手術を拒否し続ければ、やすの余命はそれしかない。
赤いアラートを見つめていると、やすの穏やかな笑い声と、お寿司の錆びた車輪の音が耳の奥で蘇る。
もし、やすがいなくなれば、あの家はどうなる?
お寿司は? そして、かいとは?
あの、唯一自分が「息ができる場所」が、この事務的なデータの山の中に消えてしまう。
(嫌だ)
巡は、奥歯を噛み締めた。
同時に、胃の底からせり上がってくるような、どす黒い吐き気が彼を襲う。三日後に訪れる「小野寺邸」の、あの無菌で死んだような空気が、幻覚のように喉元までせり上がってくる。
彼はそれを無理やり飲み下すように、強く目を閉じた。
(……今は、あそこにいるはずだ)
逃避するように、巡は妄想の世界へ潜り込む。
そこには、温かい湯気に包まれた清水家の食卓がある。
かいとが握った寿司を、やすが本当に旨そうに頬張っている。足元ではお寿司が、おこぼれを期待して巡の膝に顎を乗せている。
「……いいな。あの中に入りたかったな」
ポツリと、独り言が漏れた。
それは、職務としての視察でも、データの収集でもない、巡の奥底からこぼれ落ちた本音だった。
『完全閉鎖まで、残り五分。システムをシャットダウンします』
無慈悲なカウントダウンと共に、清水康之のファイルが閉じた。
光を失い、ただの黒い板に戻ったディスプレイ。
そこに映し出したのは、今の独り言を聞かれていないか怯えるような、無機質で、冷たい光に照らされた自分の顔だった。
画面の中の自分から目を逸らしたまま、巡は席を立った。




