表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第2.5話:歯車の祈り、あるいは錆びゆく午後

「……かいと、済まない。また、零してしまった」

介護ベッドの上で、やすが力なく笑う。手元からは、飲み下せなかったわずかな水滴が、清潔なシーツに染みを作っていた。

やすの言葉に卑屈さはない。むしろ、自分の不手際をかいとに処理させることこそが、彼に対する最大の信頼であり、報酬であると信じているような、ある種の「高潔な傲慢さ」がそこにはあった。

「いいんだよ。お前がいてくれて、私は本当に救われている」

その感謝は本物だ。だがそれは、忠実な執事に向けられた、甘美で残酷な承認でもあった。

「お気になさらず。喉の調子が、少しばかり乾燥しているようですから」

かいとは、丁寧にシーツを拭う。

その一動作の間に、かいとの内部では膨大な演算が走っていた。


[内部ログ:0.0015秒経過]

・課題の再定義: 所有者やすに延命処置を承諾させるための対話プロトコルの検索。

・対象疾患: 重度進行性心肺不全。

・推奨処置: 第二世代型人工心肺への完全換装。成功率:88.2%。

・リスク: 処置を一日遅延させるごとに、術後生存率は3.4%ずつ指数関数的に低下。

・結論: 理論上、拒絶する理由は存在しない。

[内部ログ:0.0020秒経過]

・問い: なぜ、やす様は延命を拒むのか?

・プログラムの回答:


自己破壊衝動、あるいは生存本能のバグ。


執事かいとの回答:


「今」という幸福な停滞を、機械的な永遠で汚したくないという美学。


親友かいとの回答:


……私とお寿司が「完成」されているからだ。


――やす様は仰った。「お前もお寿司も、そのままで完璧だ」と。

私たちがメンテナンスを繰り返し、部品を替えながらも「私」であり続けるように、やす様もまた、この朽ちゆく肉体こそが「自分」なのだと定義している。

[内部ログ:0.0025秒経過]

・疑問: 家族という定義。

やす様は、錆びた車輪を引くお寿司を抱き、シリコンの指を持つ私に感謝を述べる。

人とロボットの感性の差。私には「痛み」はないが、やす様の呼吸が乱れるたびに、私の動力源コアには、規定外の電圧負荷が掛かる。

この回路の軋みを、人間は何と呼ぶのだろうか。

[内部ログ:0.0030秒経過]

・演算停止。

・巡様の到着まで、残り48秒。



現実の時間。かいとの指先は、やすの震える手にそっと重ねられた。

「やす様。貴方がそう望まれるなら、私はどこまでも貴方の『完璧な日常』を保守いたします」

それは、かいとのプログラムが吐き出した「正解」ではない。

膨大な演算の果てに導き出した、執事としての、そして家族としての「祈り」だった。

その時だった。

お寿司の車輪が、弾けるように跳ねた。


お寿司は「ガラガラ、ガラガラ……ッ!」と、錆びた音を家中に響かせながら玄関へと駆け出した。その音は、死を待つだけの沈黙を切り裂く、命の躍動に満ちていた。

「おや、もう来たようだね。かいと、開けて差し上げなさい」

やすが、満足そうに命じる。自分が望めば、必ず愛すべき客人が訪れる。その声は、確信に満ちていた。

かいとは、わずかに回路が熱を帯びるのを感じながら、玄関の扉へと手をかけた。

扉を開くと、そこには――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ