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2

雪原を歩き続けて、何日が経ったのかもわからなくなったころ、地形がようやく変わった。


 遠くに黒い線が見えた。近づくにつれてそれは輪郭を持ち、岩場と、枯れた木々の群れになった。森と呼ぶには寂しいが、平坦な白一色よりはましだ。木があれば燃料になる。岩があれば風をしのげる。私は少し足を速めた。

 その音を聞いたのは、木々の手前まで来たときだった。


 獣の唸り声。

 続いて、金属がぶつかる鈍い音。それから、誰かの荒い息。


 私は足を止めた。

 関わらない方がいい。


 雪原で物音がするとき、近づいていいことは大抵ない。これは雪原を彷徨い続けて学んだ教訓だ。私はそっと木の陰に身を寄せ、様子をうかがった。

 視界が開けた先に、それはいた。


 雪男だった。

 体高は優に三メートルを超える。全身を覆う白い毛皮は周囲の雪と同化し、その輪郭すら曖昧に見えた。巨大な腕が空気を薙ぐたびに風圧が生まれ、周囲の雪が舞い上がった。唸るたびに白い息が吹き出して、その声は腹の底まで響いた。


 そして、その前に二人が立っていた。


 一人は男だ。

 大柄で、厚手の外套を纏い、長剣を両手で構えている。動きに無駄がなく、一見冷静に見えた。しかし足元の雪が赤く染まっていた。右の太腿あたりをやられているらしく、踏み込むたびにわずかに重心が揺れる。それでも構えは崩さなかった。


 もう一人は女だった。

 小柄で、男のやや後ろに位置取りながら短剣を構えている。荒い呼吸から察するにかなり消耗しているが、目だけは冷静だった。男の動きを見ながら、隙を探している。感情より計算が先に来る、そういう目だった。


 二人とも、まずい状況だった。

 雪男がまた腕を振った。男がぎりぎりで弾くが、衝撃で後退する。女が側面に回ろうとした瞬間、足が雪にとられた。雪男の腕が上がる。振り下ろされる軌道と、女の位置が、頭の中で重なった。


 関わらない方がいい。

 もう一度、自分に言い聞かせた。

 言い聞かせながら、私はすでに走り出していた。

 木の陰を飛び出して、雪を蹴って、女との距離を詰める。腕が振り下ろされる直前、私は女の外套を掴んで横に引いた。


 轟音。


 雪男の拳が地面を砕いた。衝撃が足元から突き上げ、私たちは雪の中に転がった。雪が顔に詰まった。冷たかった。肩の古傷が痛んだ。


 やってしまった。


「何者だ」

 低い声が飛んできた。男の方だ。剣を構えたまま、こちらに視線を向けている。警戒しているのは当然だ。見知らぬ人間が突然飛び込んできたのだから。


「通りすがりです」

と私は雪を吐き出しながら答えた。

「今ものすごく後悔してますけどね…」


 私は立ち上がりながら、雪男との距離を測った。女の状態を横目で確認する。動ける。ならば。


「右、回ります」

 返事を待たずに、私は動いた。


 雪男の注意が男の方へ向いた瞬間、私は側面に回り込んだ。毛皮の薄い箇所を探しながら走る。膝の裏、関節の折れ目。そこにナイフを迷わず差し込んだ。


 雪男が吼えた。


 地響きのような声だった。巨体が揺れ、膝が折れかける。その隙に男が踏み込んだ。右足をかばいながらも踏み込みは鋭く、剣が肩口に深く入る。女が反対側から追撃し、首筋に短剣を叩き込んだ。


 連携とも呼べない、ばらばらな三人の動きだった。

 それでも、雪男はゆっくりと膝をついた。

 しばらくして、決着がついた。


 三人とも荒い息をしながら、雪の上に立っていた。白い息が三つ、冷たい空気に溶けていく。雪男の巨体が横たわり、その周囲の雪がじわじわと赤く染まっていった。


「助かった」とトムは言った。それから、剣を鞘に収めながら続けた。

「まあ、負けはしなかったと思うが」

「思うが、ね」とマリが静かに言った。

「危なかったのは確かだな」トムは苦笑した。

「足をやられてなければもう少し早く片がついていた。あの岩陰から仕掛けてきたのが誤算だった」

「罠ね、あれは」

「ああ。賢い個体だった」トムは横たわる雪男を一瞥してから、私に向き直った。


「いい動きだったな。どこで覚えた」

「……わかりません」

 トムは少し眉を上げた。

「名前は」

「エルです」

「どこから来た、エル」

「それもわかりません。気づいたら雪原にいて、名前だけは覚えていましたが、それ以外は何も」


 トムはしばらく私を見ていた。値踏みでも疑いでもない。何か別のものを確かめるような目だった。

「記憶がないのか」

「ええ」

「不便だな」

「まったく」


 トムは一度頷いて、それからなぜか少し笑った。

「トムだ。こっちはマリ」

と半歩後ろのマリを示した。

「あんた、行くあてはあるか」

「ありません」

「なら一緒に来ないか?記憶がなくても、さっきみたいに動けるならかなりの戦力になる」


 マリが私の肩に目を留めた。外套の布が黒ずんでいる。古い血だ。

「その肩、狼にやられたの」

「ええ、まあ」

「見せて」

 有無を言わせない穏やかさだった。私が外套をずらすと、マリは手際よく傷を確かめ、荷の中から布を取り出した。手が慣れている。こういうことに慣れている人間の手だった。

「深くはないけど、ちゃんと巻かないと雪原では危ないわ」

「……ありがとうございます」

 マリは黙って布を巻いた。トムはその様子を見ながら、どこか遠くを眺めていた。考えているのか、ただ休んでいるのか、わからない顔だった。


「わかりました」と私は言った。

「ご一緒します」

 マリが布を結んで、手を離した。トムがゆっくりと歩き始める。マリがその半歩後ろにつく。私はその後ろに続いた。


 三人の足跡が、雪の上に並んだ。

 こうして私の物語は、本当に始まった。名前しか持たない私が、見知らぬ二人についていくことになったあの瞬間から。


 後から思えば、木の陰で足を止めていればよかったのだ。関わらなければよかった。そうすれば、もっと静かな人生を送れたかもしれない。


 でも体は動いた。

 私はそういう人間らしかった。どうやら。

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