1
私の名前はエルだ。
それだけは覚えている。どこから来たのか、何をしていたのか、なぜこんな場所で目を覚ましたのか——全部わからない。ただ、エルという名前だけが、空っぽになった頭の中にぽつんと残っていた。誰かに呼ばれた記憶なのか、自分でそう名乗っていたのか、それすらも定かではない。
それでも、名前があるだけましだ。そう思うことにした。
気づいたのは三日前のことだ。目を開けると、空が白かった。雪原の真ん中に、私は仰向けに倒れていた。体を起こすと全身が軋んだが、血が出るような傷は見当たらなかった。着ているものはそれなりに厚く、手袋もある。所持品は大ぶりのナイフが一本と、中身のよくわからない小袋がひとつ。
財産と呼ぶには心もとないが、あるだけましだった。どうも私は、ましという言葉が好きらしい。
あたりを見回した。地平線まで、白だった。空も白く淀み、太陽がどこにあるのかもわからない。グランド・フロストが来てから、この大陸の空はずっとこうだと——その程度の知識は、なぜか頭に残っていた。世界の形は覚えているのに、自分の形だけが抜け落ちている。妙な話だと思った。
風が吹いた。顔を刺すような冷たさだった。
私は立ち上がり、とりあえず歩き始めた。目的はなかった。ただ、立ち止まっていたら死ぬような気がした。それだけは、はっきりとわかった。
最初の夜は、岩陰で過ごした。
風をしのげる場所を探して歩き回り、日が暮れる前にどうにか見つけた。人の背丈ほどの岩が三つ、偶然に寄り添うように並んでいて、その隙間に体を押し込むと、吹きつける風が幾分やわらいだ。地面に積もった雪をかき集めて壁を作り、外套を体に巻きつけて丸くなった。
暖かくはない。ただ、死ぬほどでもない。
夜は長かった。風の音だけが続いた。耳が痛くなるような静けさの中で、私はぼんやりと天井のない空を眺めていた。雲が厚く、星は見えなかった。グランド・フロストの空というのは、夜になっても白みがかっている。どこか遠くで雪が降っているのか、それとも空そのものが濁っているのか。
そのうち、うとうとした。
夢とも記憶ともつかない像が、頭の奥に浮かんだ。暖かい部屋。揺れる灯り。小さな笑い声。柔らかい何か——手だったかもしれない。自分より小さな手が、私の指を握っている。
妻と子供がいたような気がする。
気がする、というだけだ。顔も名前も、どこにも見つからない。夢だったのかもしれないし、本当にそういう人間だったのかもしれない。どちらにしても、今の私には確かめる術がない。
だから私はそれ以上考えるのをやめた。考えたところで何も出てこないものを、掘り続けても仕方がない。今は寒さをしのぐ方が先だった。
目を閉じると、また風の音だけになった。
二日目の朝、運がよかった。
夜明けとともに歩き始めてしばらくすると、雪の上に黒い染みを見つけた。近づいてみると、焚き火の跡だった。まだ新しい。灰の表面はすでに冷えていたが、そっと手をかざすと、下の方からかすかな熱が伝わってきた。誰かがここで夜を過ごし、そう遠くない時間に立ち去ったらしい。
あたりに人の姿はなかった。足跡が雪の上に残っていたが、風に削られて方向まではわからない。
残されていたのは、炭と、獣の骨と、使いかけの火口だけだった。
十分だ、と私は思った。
骨についた肉をナイフでこそぎ取り、火口で火を起こした。最初はうまくいかなかった。指先が悴んでいて、思うように動かせない。何度かやり直しながら、それでも諦めなかったのは——諦めたら死ぬとわかっていたからだ。理由はそれだけだった。
どうにか小さな炎が生まれた。
あたりを見回して、雪に埋もれた枯れた灌木を引き抜いた。凍りついた根を折るのに時間がかかったが、折れてしまえば燃料になった。煙が細く上がるのを見ながら、私は骨を炙った。大した食事ではない。肉と呼ぶにも心もとない量だ。それでも温かいというだけで、体の芯が少し戻る気がした。
食べながら、ふと思った。
案外、生きていけるものだな。
根拠のない感想だったが、不思議と確信があった。記憶はなくても、体はこの世界の生き方を覚えているらしい。どこで覚えたのかは、やはりわからなかったけれど。
炎を眺めながら、私はしばらくそこに座っていた。急ぐ理由もなかった。どこかへ向かっているわけでもないのだから、焦る必要もない。ただ生きることだけを、その日の目標にしていた。
問題は、三日目の夜に起きた。
その日は少し遠くまで歩いた。地形が変わるところを見つけたかった。ずっと平坦な雪原が続くより、森なり岩場なりがあった方が、雨露をしのぐ場所も、獲物も見つけやすい。そう考えて歩いたが、結局日が暮れるまでに見つかったのは、浅い雪の窪地だけだった。
それでも風は幾分やわらかかった。昨夜より増しだ。
焚き火を起こし、昼間に仕留めた小動物を炙った。グランド・フロストの雪原にも、小さな獣は生きている。生命というのは、なかなかしぶとい。私も含めて。
炎が落ち着いてきたころ、雪の向こうで何かが動いた。
私は手を止めた。
音ではない。気配だ。複数の、重さのある気配が、弧を描くように私を囲んでいる。焚き火の光が届かない暗がりに、何かがいる。じっと耳を澄ますと、雪を踏む音が聞こえた。ゆっくりと、慎重に、間合いを測るように。
狼だ、と私は思った。
それも一匹ではない。
グランド・フロストが来てから、獣は人里近くまで降りてくるようになった。食べるものが減ったのか、縄張りが狂ったのか——いずれにせよ、人間と獣の距離は以前より縮まっている。そういう知識だけは、なぜか頭に入っていた。
私はゆっくりとナイフを抜いた。
焚き火から目を離さないようにしながら、暗がりの気配を数える。三、いや、四か。包囲されている。逃げても追われる。ならば、ここで凌ぐしかない。
最初の一匹が跳んできたのは、炎が一際小さくなった瞬間だった。
私は横に転がった。噛みつかれる寸前、前脚を両腕で受け止め、体重を利用してそのまま押し倒す。狼が地面に叩きつけられた一瞬、私はナイフを脇腹に入れた。獣が悲鳴に似た声を上げて離れる。
立ち上がる間もなく、二匹目が来た。
今度は間に合わなかった。肩口を爪が引っかき、外套ごと皮膚が裂けた。痛みが走る。深くはない、と冷静に判断しながら、私は焚き火に手を伸ばして燃えさしを一本掴んだ。熱さで手のひらが焼けたが、構わず狼の顔に押しつけた。
焦げる臭い。狼が甲高い声で後退する。
残りの気配が揺れた。躊躇している。
私は立ち上がった。息が乱れていたが、できるだけ大きく見せるように腕を広げ、燃えさしを高く掲げた。炎が風に揺れ、私の影が雪の上に伸びる。狼たちをゆっくりと見回し、動かなかった。
長い沈黙だった。
やがて、気配が遠ざかっていった。一匹、また一匹と、暗がりの向こうへ消えていく。最後の一匹が立ち去るまで、私は動かなかった。
気配が完全に消えてから、私はゆっくりとその場にへたり込んだ。
肩の傷を確かめる。外套に血が滲んでいたが、布を裂いて巻けばどうにかなる深さだった。手のひらはじんじんと痛んだ。燃えさしを素手で掴んだのは、われながら無茶だったと思う。
「……運がいい」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
空は白く淀んでいた。星も月も見えない。風が傷口を撫でるように吹き抜けた。痛かった。寒かった。それでも私は生きていた。
焚き火が細く燃え続けていた。私はその前に座り直し、傷に布を巻きながら、炎をぼんやりと眺めた。揺れる火を見ていると、不思議と落ち着いた。これもどこかで覚えたことなのか、それとも人間というのは元来、火を見ると安心するものなのか。
どちらでもよかった。
翌朝、私はまた歩き始めた。肩が痛んだ。手のひらも痛んだ。それでも足は動いた。目的はなかった。行き先もなかった。ただ、立ち止まる理由もなかった。
雪原はどこまでも続いていた。空は今日も白かった。
私は歩いた。それだけだった。




