9
出発の前夜、トムが全員を集めた。
広場に三百を超える人間が並んだ。精鋭と呼べる者を選りすぐった結果だ。全員の顔に、緊張と覚悟が混じっていた。初めての本格的な戦いだ。野獣の討伐とは、わけが違う。
トムは短く話した。
「明日、9号砦を落とす。相手は使徒だ。人間じゃない。ただの障害だと思え。考えるな、動け。自分の役割だけに集中しろ」
それだけだった。余計なことは言わなかった。でもそれで十分だった。広場の空気が、ぴりっと引き締まった。
マリが私に耳打ちした。
「カイトの様子はどう?」
「さっき飯を三杯食ってた」と私は言った。
「……緊張してないのかしら」
「してないと思う」と私は言った。
「あいつにとっては、たぶん訓練の延長だ」
マリは少し考えてから、「それでいいのかもしれないわね」と言った。
翌朝、夜明け前に動き始めた。
三百余の人間が、声もなく雪原を進んだ。9号砦は丘の向こうに見えている。石造りの重厚な構造で、グランドフロスト以前から存在していた建造物だ。今はその全てを使徒が占拠している。
トムが二手に分けた。
陽動隊は百人。正面から砦に向かい、使徒の注意を引きつける。消耗戦になるが、深追いはしない。引きつけて、散って、また引きつける。それだけでいい。
潜入隊は二百人。私とカイトが先頭だ。北側の旧搬入口から砦の内部へ入り、溶鉱炉のある最下層まで一気に駆け抜ける。
「エル」とトムは出発前に言った。
「カイトを頼む」
「わかった」と私は言った。
「カイト」とトムはカイトに言った。
「っす」とカイトは言った。
「腹は膨れてるか」
「バッチリっす」とカイトは言った。
トムは頷いた。それだけだった。
旧搬入口は、雪の下に埋もれていた。
事前に偵察隊が掘り起こしておいた場所だ。重い木の扉を引き開けると、冷たい空気が吹き出した。暗く、狭い通路が続いている。
「行くよ」と私はカイトに言った。
「っす」とカイトは言った。
私が先頭に立ち、カイトがすぐ後ろ。その後ろに二百人が続く。松明を持った者が数人、隊列の中に混じっている。
通路を進むと、最初の使徒に行き当たった。
人型だった。
人間と同じ体格をしているが、肌の色が違う。灰色がかった白で、目に光がない。手に剣を持っている。私たちを認識した瞬間、音もなく動き始めた。
速かった。
ただ、私の方が速かった。
踏み込みながら懐に入り、剣の腕を内側から弾いて、ナイフを首筋に叩き込んだ。使徒が崩れ落ちた。感情のない顔のまま、ただ機能を停止した。
「硬いね」「でも動きは読める」
「っす」とカイトは言った。もう次の使徒に向かっていた。
カイトの動きは、訓練のときと別人だった。
狭い通路の中で、カイトは二体の使徒を同時に相手にしていた。一体の剣を体を捻って躱しながら、もう一体の懐に飛び込む。肘で顎を打ち上げ、崩れたところに膝を入れた。どちらも一瞬で沈んだ。
後ろの隊員たちがざわめいた。
「すごい」と誰かが言った。
「行くよ」と私は言った。「止まらないで」
通路を抜けると、砦の内部に出た。
広い。石造りの廊下が複数の方向に伸びている。使徒の気配が複数ある。まだこちらに気づいていないが、時間の問題だ。
「三手に分かれる」と私は後ろの隊員に言った。事前に決めていた通りだ。「左が溶鉱炉へ。中央が武器庫へ。右が陽動隊と合流できる正門へ。全員、自分の役割だけ考えて」
三つの隊が動き始めた。
私とカイトは溶鉱炉への隊についた。
廊下を進むにつれ、使徒の数が増えた。一体、二体、三体——通路の角を曲がるたびに現れる。隊員たちも戦った。訓練の成果が出ていた。一人で倒せなければ二人で、二人で無理なら三人で。消耗しながらも、前へ進んだ。
私は前線で戦いながら、後ろ全体を意識していた。誰かが遅れていないか、囲まれていないか。エルの役割はカイトの補佐だけじゃない。二百人全体の流れを見ることだ。
「左の隊員、二体に挟まれてる」と私は叫んだ。「カイト、頼める?」
「っす!」
カイトが走った。二体の使徒の間に飛び込み、一体を引きつけながらもう一体を隊員から遠ざける。隊員が立て直す隙を作った。それだけじゃなく、引きつけた一体をそのまま仕留めてしまった。
「ありがとうございます!」と隊員が叫んだ。
「腹減ったな!」とカイトは叫んだ。
私は笑いながら走った。
溶鉱炉は、砦の最下層にあった。
階段を降りるにつれ、空気が重くなった。石の壁がいくつも重なり、外の冷気が届かない。最下層に辿り着いたとき、巨大な炉が目の前に現れた。
高さは優に十メートルを超える。長らく使われていないせいで煤に覆われているが、構造は完全に残っていた。傍らに燃料となる石炭が山積みにされている。
「これが溶鉱炉か」
とカイトは言った。初めて感心した声だった。
「でかいね」と私は言った。
「トムが言ってた通りだ」
溶鉱炉の前に、使徒が五体いた。
他より一回り大きかった。おそらく最下層を守る専用の個体だ。五体が同時に動き始めた。
「カイト」
「わかってます」
二人で走った。
私は右の二体を引き受けた。一体の剣を流しながら、もう一体の足元を払う。倒れた瞬間に踏みつけて、立ち上がる前に仕留めた。残り一体が剣を振り下ろしてくる。体を横にして躱し、首筋にナイフを入れた。
カイトは三体を相手にしていた。
正面の一体と打ち合いながら、体を回転させて左の一体の剣を背中で躱した。そのまま回転の勢いで右の一体に肘を叩き込み、崩れたところに膝を落とした。残り二体が同時に来た瞬間、カイトは一体の腕を掴んで盾にするように引き寄せ、もう一体の剣を受けさせた。使徒同士がぶつかった隙に、二体まとめて仕留めた。
後ろで隊員たちが息を飲んでいた。
「勝ったぞー!」とカイトが叫んだ
溶鉱炉の火入れは、事前に教わった手順通りだった。
石炭を炉に入れ、点火する。最初は小さな炎が、やがて轟音とともに溶鉱炉全体に広がった。熱が波のように広がり、最下層の空気が一気に変わった。
遠くから、歓声が聞こえた。
正面では、陽動隊が正門を開けていた。トムとマリの指揮のもと、砦の上層から順番に使徒を制圧していったらしい。
全体が繋がった。
砦の制圧が完了したのは、昼をいくらか過ぎたころだった。
正門の前にトムが立っていた。砦の石壁を背に、全員を見渡している。負傷者はいたが、死者はいなかった。
「よくやった」とトムは言った。
それだけだった。でもそれで十分だった。
私はカイトの隣に立って、砦を見上げた。石造りの重厚な壁が、今は鉄の軍団のものだ。武器庫の武器も、溶鉱炉も。
「どうだった、初陣」と私は聞いた。
「最高っす」とカイトは言った。「でも腹減りました。マジで」
「戦い終わったら飯食えるよ」
「今すぐ食いたいっす」
「我慢しなさい」
カイトは「っす」と言って、でも全然我慢する気がなさそうな顔で炊事の方向を見ていた。
マリが私の横に来た。
「お疲れ様」とマリは言った。
「カイト、よかったでしょ」と私は言った。
「……よかったわ」とマリは言った。少し間を置いて、「あなたの勘、今回は当たったわね」と続けた。
「今回は、じゃなくていつも当たるんだよ」と私は言った。
マリは小さく笑った。
砦の上から、風が吹いてきた。雪原の冷たい風だ。でも溶鉱炉の熱が背中にある。
一つ、落とした。
あと十一。
長い道のりだと思った。でも、始まった。それだけは確かだった。




