『忘却の都市』 沙織の提案
その瞬間、夏希の背に冷たい汗が伝った。
完全に——油断していた。
ここは“敵陣の中枢”。 ほんの一秒でも、それを忘れた自分が悔しかった。
すぐさま身体を傾けてデバイスを起動し、動こうとした——が。
「被験者番号:8番、進藤夏希ね?」
その声音は、まるで最初から存在に気づいていたかのような落ち着きだった。
夏希の指が止まる。
刃のように研ぎ澄まされた“名前の一言”が、その動きを封じた。
「とりあえず、一旦座って。あなたも、聞きたいことがあるでしょ?」
仮に今、デバイスを起動して飛びかかれば—— 恐らく1秒も経たずに拘束できるだろう。
だが、どこかこの女性には逆らえない雰囲気があった。
夏希は静かに腰を下ろした。
元いた位置へと、慎重に。
入ってきた女性は、まるで自分の部屋に帰ってきたかのように当然の顔で、怜奈の隣に腰を下ろす。
そして、何のためらいもなく怜奈に抱きついた。
怜奈が嫌そうに無言で身をよじらせて距離をとると、少し残念そうに腕を離し、自分の席へと戻る。
その様子を見届けた夏希は、思わず問いかけていた。
「……あなたは、一体?」
女は軽く整えた髪を払って、やや芝居がかった笑みを浮かべる。
「私の名前は——工藤沙織。この研究フロアの副責任者よ。 ああ、今は田中がいないから……代理で“責任者”ってことになるかしらね」
怜奈の方を見ると、彼女はややげんなりしたように目を逸らしながら頷いていた。
そして次の瞬間、空気が変わる。
「……で、単刀直入に聞くけど。 あなたたち——たぶん、全部知ったわよね?」
唐突。 けれど、鋭く、刺さるような一言だった。
その場に冷たい緊張が張り詰める。
夏希が再びデバイスを起動させようとする——
「——ああ、慌てないで」
工藤は、まるで日常会話の延長のように手をひらひらと振った。
「それは……まあ“良くはない”けど、この際、とりあえずいいわ」
一拍置いて、言葉を繋ぐ。
「……あなたたちは、怜奈を連れて——都市の外に逃げなさい」
——その一言は、あまりに不意打ちだった。
夏希も、悠人も、怜奈さえも。 息を呑み、言葉を失った。




