『忘却の都市』 揺れる足元、揺るがぬ意志
「そういえば、田中先輩はどうしたんですか?」
ふと思い出したように玲奈が訊ねた。
「……あー、あいつはね、なんかお偉いさんに呼ばれて“下”に行ってるらしいよ」
そう答えた工藤は、いつもの調子で肩をすくめる。
「まぁ、あんなんでもこのフロアの責任者だからね」
「“あんなんでも”って……田中先輩が聞いたら怒りますよ」
玲奈が苦笑まじりに返すと、工藤は悪びれもせず手をひらひらと振った。
「それに、そうなると副責任者の工藤先輩が今、ここの責任者じゃないですか。……いいんですか、こんなところにいて」
「いいの、いいの。責任者っていったって、特別な役目があるわけじゃないし。小言言われない分、みんなも楽でしょ?」
そう言って笑ったその顔には、どこか肝の据わった頼もしさと、気楽さが絶妙に混ざり合っていた。
——その時だった。
「……ん?」
建物が微かに、だが確かに揺れた。
壁に埋め込まれた機器がカタリと音を立て、一瞬、空気が凍りつく。
誰もが手を止め、視線が交錯した。
数日前の“あの事件”が、無意識に脳裏をよぎる。
——だが、警報は鳴らない。
警備灯も点灯しない。
「……今の、地震?」
「いや、何か……建物自体が振動したような……」
落ち着かない空気の中、工藤が立ち上がる。
「みんな、落ち着いて」
その声は凛としていた。
さっきまでの軽やかさは影を潜め、代わりに現れたのは“責任者”の顔だった。
「おそらく何もないとは思うけど、私が少し様子を見てくるわ。念のため、みんなもいつでも動けるようにしておいて」
職員たちは、自然と背筋を正す。
玲奈はそんな工藤を見つめながら、やっぱりこの人は——
頼りになるな、と静かに思う。
そして工藤が出発しようとしたその時、ふと悠人の方に視線を向ける。
「あなたは……うーん、まだ信用できないけど。玲奈を頼むわ。そこいらのヒョロヒョロの職員よりは、まだマシそうだし。」
そう言って、悠人に、にじり寄るように目を細める。
「もし万が一、玲奈に手ぇ出したりしたら……分かってるわよね?」
ぞくりとするほどの迫力に、悠人は無言のまま、コクコクと何度も頷いた。
その反応に満足したのか、工藤はようやく口元を緩める。
「……じゃあ、また後で」
その言葉を残し、彼女は奥へと姿を消した。
そして残されたのは——
玲奈と悠人、ふたりきりの静かな空間。
外の揺らぎと、内なるざわめき。
すべてが、次の瞬間に向けて、少しずつ動き出していた。




