『忘却の都市』 過去の刻印
静寂が、夏希の周囲を包み込んだ。
彼女の指先は、震えていた。
ファイルに記されていた文字——それは、"自身"の記録。
名前:進藤 夏希
性別:女性
被験者番号:8番
無機質に整理された文字列。
それを目で追いながらも、夏希は深く息を吐く。
そして——あるページで、指先が止まった。
視線を落とす。
そこにはこう……記されていた。
『進藤夏希について』
家族構成:父、母、進藤夏希。
一見、ごく普通の一般家庭。
——だが、それは表向きの姿にすぎなかった。
父親には酒癖の悪さがあり、家庭内ではたびたび暴力が繰り返されていた。
とくに母親への暴力は激しく、近隣住民の証言によれば、母親は次第に外出を控えるようになり、姿を見かけることも少なくなっていったという。
ある晩、母親は娘を連れて家を出る事を決意。
荷物は最小限。玄関に手をかけたそのとき、帰宅した父親と鉢合わせる。
口論はすぐに激しい揉み合いへと発展し、結果的に母親は死亡。
死因は、複数箇所への打撲および頭部の強打によるものとされている。
その後、父親の暴力は娘へと向けられた。
しかし、少女は即座にキッチンへ向かい、包丁を手に取ると、そのまま父親の腹部に突き立てた。
騒ぎを聞いた近隣住民が通報し、警察が現場に到着。
玄関先には、無言で立ち尽くす少女の姿があった。
第一発見者の証言によれば、少女は泣いておらず、外傷も見られなかった。
その後の現場検証および関係者への聞き取りにより、上記の内容が確認されている。
……言葉が出ない。
ページの最後に記されていたのは、あまりにも冷たい一文だった。
『以上から、彼女は今回のテストケースに適正かと思われる。被験者番号8番として登録し、のちの経過を観察する。』
まるで、その出来事が——
彼女の人生そのものが、ただの“実験条件”として処理されているかのようだった。
“進藤夏希”という名前が、記録の中でただの番号に変わり、その事実が、胸の奥にじわりと広がっていく。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、深く、静かな喪失感だけが、そこにあった。




