第5章:「私が操縦します」
「私が操縦します」
明日香の声が操縦室に響いた。
返事をする者はいない。
左席の佐藤は目を閉じ、窓側へ頭を傾けたまま動かなかった。ほんの数秒前まで、彼は機長として管制と交信し、画面へ手を伸ばしていた。その人物が突然、呼びかけにも反応しない重い身体へ変わっている。
明日香の中で、恐怖と訓練が同時に動き出した。
恐怖は佐藤へ手を伸ばそうとした。
訓練は計器を見ろと命じた。
最初に守るべきものは、飛行状態だった。
機体が安定していなければ、佐藤を助けることも、客室へ援助を求めることもできない。
明日香は正面の表示を確認した。
自動操縦、作動中。
高度、フライトレベル340で安定。
速度、正常。
経路、正常。
エンジン、正常。
警報なし。
先ほど開始した降下はすでに完了し、A350は新しい高度を維持していた。機械は、操縦室の片方で人間が倒れたことを知らない。与えられた指示のとおり、何事も起きていないように飛び続けている。
明日香は右側のサイドスティックにある優先操作のボタンへ親指を置き、押した。
「プライオリティ、ライト」
機械音声が操縦室へ告げる。
左側から意図しない操縦入力が加わった場合に備え、自分の側の入力を優先させる。佐藤の右腕は肘掛けの外へ落ち、左手もサイドスティックには触れていない。それでも、救出の際に身体が動き、腕や衣服が操縦装置へ触れる可能性がある。
明日香は左側のサイドスティック周辺を目で確認した。
接触なし。
自動操縦の表示にも変化はない。
「私が操縦します」
もう一度、はっきり言った。
これは意識のない佐藤へ聞かせるためではない。
操縦権が自分にあると、自分自身へ認識させるための宣言だった。
右手をサイドスティックへ添え、左手で自動操縦の設定を確認する。必要ならいつでも手動で操縦できる。しかし今、慌てて自動操縦を切る理由はない。安定している機械を使い、自分は救護の指示と次の判断へ注意を配るべきだ。
優先順位を頭の中で並べた。
飛行。
援助。
通信。
判断。
飛行状態は安定している。
次は援助だ。
操縦室の扉では、森川が解錠を求める合図を送っている。森川を呼んだ直後に、佐藤は完全に意識を失った。
明日香は扉を解錠した。
開いた扉から、森川が入ってくる。
「失礼します」
いつもの入室時と同じ言葉だった。
だが、左席の佐藤を見た瞬間、森川の表情が変わった。
驚きは一秒だけだった。
すぐに客室責任者の顔へ戻る。
「機長が意識を失いました」
明日香は計器から目を離さずに告げた。
「自動操縦で機体は安定しています。呼吸と脈拍を確認してください。もう一人、応援を呼んでください」
「承知しました」
森川は佐藤の肩へ手を置いた。
「佐藤機長、聞こえますか」
反応はない。
呼吸を確かめるため顔を近づけ、胸の動きを見る。首元へ指を当てる。
「呼吸はあります。脈も触れます」
その報告を聞いた瞬間、明日香の胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
生きている。
だが、安心するには早い。
「酸素を準備してください。左席から動かす前に、身体が操縦装置へ触れないよう注意してください」
「分かりました」
森川はインターホンで前方担当の山下を呼んだ。
「山下さん、操縦室へ。携帯用酸素ボトルを持って、すぐに来てください」
声は落ち着いていた。
客室の乗客へ異常を悟らせないためでもあり、山下を動揺させないためでもあった。
「承知しました」
返答の直後、森川は佐藤の肩のハーネスを確認した。意識を失った身体が前へ倒れ、計器や操縦装置へ触れないよう固定されている。
明日香は計器と佐藤を交互に見る。
操縦室は二人が座ればいっぱいになるほど狭い。意識のない大人を座席から出すには、シートを後方へ下げ、背もたれを倒し、身体を扉の方向へ移さなければならない。その間、森川や山下の腕が中央の装置へ触れる危険もある。
「救出を始める前に、私が合図します」
「はい」
無線から東京コントロールの呼び出しが入った。
「スカイエア914、現在高度を確認してください」
先ほどの交信が途中で乱れたため、管制官が状況を確かめているのかもしれない。
明日香は即座に応答した。
「東京コントロール、スカイエア914、フライトレベル340を維持しています」
「スカイエア914、了解」
管制官の声は通常どおりだった。
明日香はまだ緊急事態を通報しなかった。
隠すためではない。
機体の安全を確保し、佐藤の状態を最低限把握し、何を要求するか決めてから、短く正確に伝えるためだ。数十秒の遅れが直ちに危険を生む状況ではない。無線へ断片的な情報を流し、何度も訂正するほうが作業を増やす。
山下が酸素ボトルを抱えて入ってきた。
「機長が……」
言葉が止まる。
「山下さん、私を見て」
森川が低い声で言った。
山下は佐藤から視線を外し、森川を見た。
「呼吸と脈はあります。訓練どおりに行います。酸素マスクを準備してください」
「はい」
山下の手はわずかに震えていた。それでも、ボトルの状態を確認し、マスクを取り出す。
森川は明日香へ尋ねた。
「このまま座席で酸素を使いますか」
「まず装着してください。その後、前方客室へ移します」
「承知しました」
山下がマスクを佐藤の口と鼻へ当てる。森川が位置を調整し、酸素を流した。
佐藤の胸は浅く上下している。
目は開かない。
「佐藤機長、聞こえますか」
森川が繰り返し呼ぶ。
反応はない。
明日香は飛行状態をもう一度確認した。
高度、速度、経路、正常。
前方の天候に危険な表示なし。
周囲の交通は管制によって管理されている。
「これから左席を後ろへ下げます」
明日香は二人へ告げた。
「身体や衣服がサイドスティック、スラストレバー、ペダルへ触れないようにしてください。何か触れた場合は、すぐ言ってください」
「分かりました」
森川は佐藤の上半身を支え、山下がシートの操作を行う。
左席がゆっくり後方へ下がった。
佐藤の膝が計器盤から離れ、足がペダルの位置から遠ざかる。背もたれを倒すと、頭が森川の腕へ重く預けられた。
「サイドスティック周辺、接触ありません」
森川が報告する。
「確認しました」
明日香は表示を見た。
自動操縦は維持されている。
異常な操縦入力を示す警告もない。
森川と山下は、限られた空間で身体の向きを変えた。佐藤の肩を扉側へ向け、脚をシートの外へ出す。
意識のない人間の身体は、想像以上に重い。
森川の額に汗が浮かぶ。山下は唇を結び、呼吸を合わせた。
「一度で持ち上げようとしないでください」
明日香が言う。
「機体は安定しています。安全に動かしてください」
「はい。山下さん、肩を。私は腰を支えます」
「はい」
二人は佐藤を座席から少しずつずらした。
その時、佐藤の左腕が外へ落ちた。
袖口が左側のサイドスティックへ近づく。
「左腕、注意」
明日香が鋭く告げる。
森川がすぐ腕を抱え、胸の上へ戻した。
「接触していません」
「確認しました」
短い言葉が飛び交う。
誰も叫ばない。
誰も急がない。
だが、一つの動作に許される余裕はほとんどなかった。
佐藤の身体が操縦室の扉を通過する。
山下が先に客室側へ下がり、上半身を支えた。森川は脚と酸素ボトルを管理する。
前方ギャレーにいた別の客室乗務員が加わった。
「前方の床を空けました」
「毛布を敷いて。AEDと救急医療キットを持ってきてください」
森川が指示する。
佐藤は前方客室の床へ慎重に寝かされた。
操縦室から見える範囲に、乗客の顔がいくつかあった。
前方座席の乗客たちは、突然現れた制服姿の男性と、周囲に集まる客室乗務員を見ている。何が起きたか理解できず、立ち上がりかける者もいた。
「皆さま、お席にお座りください」
別の客室乗務員が、落ち着いた声で案内する。
「前方で体調を崩された方の対応を行っております。通路を空け、シートベルトをお締めください」
機長という言葉は使わなかった。
操縦室には明日香しかいないと知られれば、客室に不安が広がる可能性がある。必要な情報は伝える。しかし、今知らせる必要のない事実まで公表しない。
明日香は操縦室の扉を閉めるべきか迷った。
保安上は閉める必要がある。一方で、森川との連絡と救護状況の把握も必要だ。
「森川さん」
「はい」
「医療従事者を探してください。私は操縦室の扉を閉めます。状況はインターホンで報告してください」
「承知しました」
「救護に必要な時だけ、手順どおり入室してください」
「分かりました」
明日香は扉を閉め、施錠した。
客室の声が遠のく。
左席は空になった。
佐藤が座っていたシートは後方へ下がり、背もたれが倒れたままだ。ヘッドセットが横へ外れ、ケーブルだけが残っている。
明日香は、訓練センターで繰り返した単独操縦の課目を思い出した。
シミュレーターでは、機長役の教官が突然動かなくなり、その直後に天候悪化や機器の故障が重ねられることがあった。訓練生を苦しめるためではない。人間の注意には限界があり、作業が増えた時に何を捨て、何を残すかを学ばせるためだった。
最初の訓練で、明日香はすべてを一人で完璧に処理しようとした。
管制への報告、会社への連絡、着陸性能の計算、客室への説明、チェックリスト。どれも必要に見えた。届いた順に手をつけ、途中で別の呼び出しが入ればそちらへ移った。
結果として、機体の速度監視が遅れた。
教官は訓練を止めたあと、机の上へ五枚のカードを並べた。
飛行。
経路。
通信。
判断。
その他。
「全部を同じ重さで持つな」
教官は一番上の「飛行」を指した。
「飛行機を飛ばせなければ、ほかの作業を完璧に終えても意味がない。次に、どこへ向かうか。通信はそのあとでもいい。会社への連絡が数分遅れても機体は落ちない。飲み物の報告が遅れても、誰も困らない」
明日香は、必要な作業を省くことへ抵抗を覚えた。
「ですが、全部必要です」
「必要であることと、今すぐ必要であることは違う」
教官は答えた。
その区別が、完璧主義の明日香には難しかった。
未処理の項目が残っていると、頭の中で警報が鳴り続ける。早く終わらせなければならないと思い、結果として最も重要な作業へ向ける注意が薄くなる。
訓練を重ねる中で、明日香は意識して言葉にする方法を身につけた。
今は飛行。
これは後でよい。
これは誰かへ任せる。
これは行わない。
作業を増やす能力ではなく、減らす判断が必要だった。
今、佐藤の空席を前にして、その訓練が現実になっている。
救護は森川へ任せた。
医療判断は機内の医師へ任せる。
管制への通報は必要だが、飛行状態を確認してから行う。
会社への詳細報告は後でよい。
乗客への説明は森川が行う。
明日香が今、引き受けるべきものは、機体の操縦と着陸地の決定だった。
そう整理しても、感情は簡単に従わない。
操縦室の外で佐藤が処置を受けていると考えるたび、扉を開けて状態を確かめたい衝動が起きる。脈は本当にあるのか。呼吸は弱くなっていないか。名前を呼べば目を開けるのではないか。
しかし、明日香が席を離れることはできない。
自動操縦が作動していても、操縦室を無人にはできない。機械が故障しなくても、管制から指示が来る。天候が変わる。ほかの航空機との間隔を調整する必要が生じる。
佐藤を助けたいなら、明日香は右席に座り続けなければならない。
それは、冷たい選択に思えた。
目の前で倒れた人へ手を伸ばさず、計器を見る。
だが、三百七十九人を安全に地上へ運ぶことも、佐藤を医療機関へ届けることも、同じ操縦によってしか実現できない。
明日香は空席から目を離した。
「今は飛行」
小さく声に出した。
「救護は森川さん。医療は先生。私は飛行」
役割を分ける言葉が、散らばりかけた思考を一つに戻した。
その空席を見た瞬間、明日香は初めて、自分が一人になったことを実感した。
訓練では、隣の教官が意識を失ったふりをしても、シミュレーターの外に別の教官がいる。停止ボタンを押せば、映像も音も止まる。誤った判断をしても、振り返りの材料になるだけだ。
今は違う。
この機体は現実の空を飛んでいる。
三百七十九人の乗客がいる。
佐藤は本当に意識を失い、客室の床で救護を受けている。
明日香の決断を採点する教官はいない。
結果だけが残る。
息が浅くなった。
指先が冷たい。
視野の外側が暗くなるような感覚がした。
恐怖が、訓練を追い越そうとしている。
明日香は意識して、正面の計器を声に出して読んだ。
「高度、フライトレベル340」
「速度、正常」
「オートパイロット、オン」
「経路、正常」
聞く者はいない。
それでも声にすることで、思考が現在へ戻ってくる。
息を四秒かけて吸い、長く吐いた。
もう一度、計器を走査する。
異常なし。
飛行機は飛んでいる。
次に必要なことをする。
インターホンが鳴った。
森川からだった。
「操縦室、森川です」
「どうぞ」
「機内に医師が一名いらっしゃいました。現在、機長の状態を確認しています。呼吸と脈拍は維持されていますが、意識は戻っていません。酸素投与を継続しています」
「医師の見立ては」
「まだ判断中です。AEDは準備済み。救急医療キットも開封できる状態です」
「分かりました。変化があればすぐ知らせてください」
「承知しました」
森川は一拍置いた。
「田中副操縦士」
「はい」
「客室はこちらで対応します。操縦に集中してください」
明日香は返事をしようとしたが、喉が詰まった。
一人ではない。
左席は空いている。操縦できるパイロットは自分だけだ。
それでも客室には森川たちがいる。地上には管制官がいる。会社の運航管理者もいる。自分が助けを求めれば、使える人と仕組みがある。
「ありがとうございます。お願いします」
ようやく答えた。
通信を切る。
客室では、医師が佐藤のそばへ膝をついていた。
四十代半ばの女性で、家族旅行から帰る途中だった。客室乗務員の呼びかけを聞き、座席から立った。制服姿の佐藤を見ても驚きを表に出さず、まず気道と呼吸、循環を確認した。
「呼びかけに反応はありません。自発呼吸はあります。脈は触れますが、状態は不安定です」
森川が酸素マスクを保持し、山下が時刻と医師の所見を記録する。
「既往歴や服薬は分かりますか」
医師が尋ねた。
「現時点では分かりません」
「発症前の症状は」
「副操縦士によると、胃の重さ、反応の遅れ、発汗があったとのことです。その後、言葉が出にくくなり、意識を失いました」
森川は明日香から聞いた内容と、自分が見た様子を簡潔に伝えた。
医師は佐藤の瞳孔と手足の反応を確認した。
「脳血管の問題も、心臓の問題も否定できません。できるだけ早い着陸と医療機関への搬送が必要です」
「羽田へ向かっています。操縦室へ伝えます」
「意識や呼吸に変化があれば、すぐ知らせてください。脈がなくなればAEDを使用します」
「承知しました」
森川は、着陸時に佐藤の身体をどこで、どのように固定するかを考えた。
前方ギャレーの床に寝かせたままでは、降下や着陸時の揺れで身体が動く危険がある。空いている座席はほとんどない。乗客三百七十九人に対し、三百九十一席仕様の機体だから、計算上の空席は十二席だけだった。その空席も客室の各所へ分散している。
前方で隣り合う複数席を確保し、背もたれやベルトを使って安全に保持できるか。医師が処置を続けられる位置か。周囲の乗客を移動させる必要があるか。
森川は客室の座席表を開き、前方担当の乗務員と確認した。
「二列目の中央に空席が二つあります。通路側のお客さまへ移動をお願いすれば、三席使えます」
「移動先は」
「後方の空席を確保できます。ご家族ではなく、お一人でご搭乗の方です」
「事情は、救護のためとだけ説明してください。無理にお願いしないで、難しければ別の方法を考えます」
「承知しました」
担当乗務員は座席へ向かった。
対象の男性は説明を聞くと、すぐノートパソコンを閉じた。
「移ります。荷物も全部持ったほうがいいですか」
「ありがとうございます。お手回り品をお持ちください。頭上のお荷物は、こちらで移動いたします」
男性は前方で救護されている佐藤を見たが、何も尋ねなかった。周囲の乗客も、通路を空けるため足を引き、客室乗務員が動ける場所をつくった。
医師は森川の案を聞き、頷いた。
「呼吸が続いているなら、できるだけ水平に近い状態を保ちたいです。ベルトで胸や腹部を強く圧迫しないようにしてください。頭部も揺れないよう支えましょう」
「分かりました。着陸前までに安全な姿勢を整えます」
「搬送時に状態が変わる可能性があります。動かす前に、もう一度確認します」
「お願いします」
森川は山下へ、酸素ボトルの残量を確認するよう指示した。
「着陸まで継続できる量か、予備を含めて見てください」
「現在の流量なら足ります。念のため、予備を隣に準備します」
「AEDのパッドは、まだ装着しません。先生の指示に従ってください」
「はい」
山下は答えながら、記録用紙へ時刻を書いた。
発見時刻。
呼吸と脈の確認。
酸素投与開始。
医師が処置を始めた時刻。
意識状態。
着陸後、救急隊へ正確に引き継ぐための情報になる。
焦りの中では、数分前のことでも曖昧になる。だからその場で記録する。
山下の文字は最初の一行だけ震えていた。二行目からは、いつもの筆跡へ戻っている。
森川はその変化を見て、何も言わず肩へ一度手を置いた。
「このまま続けてください」
「はい」
客室乗務員たちは、恐怖を感じていないわけではない。
機長が倒れたという事実を理解している。操縦室にいるのは明日香一人だ。だが、恐怖を共有する時間はなかった。
一人が酸素を管理し、一人が記録し、一人が乗客を案内し、森川が全体を判断する。
具体的な役割が、恐怖を行動へ変えていた。
前方の乗客たちは、客室乗務員の案内に従って座っていた。
好奇心と不安の混じった視線が、床で処置を受ける佐藤へ向けられている。携帯電話を取り出そうとする乗客に、山下が撮影を控えるよう頼んだ。
「救護活動中です。ご協力をお願いいたします」
山下の声は震えていなかった。
森川は機内放送のマイクを取った。
「お客さまにお願いいたします。前方で体調を崩された方の救護を行っております。通路を空け、座席ではシートベルトをお締めください。皆さまのご協力をお願いいたします」
必要なことだけを伝える。
客室全体にざわめきが広がったが、立ち上がる者はいなかった。
眠っていた少年が目を覚まし、母親へ何があったのか尋ねた。
「具合の悪い人がいるんだって。静かにしていようね」
母親は少年の手を握った。
老夫婦の妻は、前方を見たあと目を閉じ、胸の前で指を組んだ。仕事をしていた男性はノートパソコンを閉じ、通路から足を引いた。
乗客は事情を知らない。
それでも、誰かの命を救うために自分たちができることは、座って通路を空けることだと理解した。
操縦室の明日香は、到着地の選択を始めていた。
現在位置。羽田までの距離。周辺空港。天候。滑走路。救急搬送体制。
まず明日香は、最も近い滑走路だけを探そうとした。
一分でも早く地上へ降りれば、それだけ佐藤が助かる可能性は高くなる。そう考えるのは自然だった。
しかし、飛行機は現在地から真下へ降りられるわけではない。
三万四千フィートの高度から安全に降下し、進入経路へ入り、着陸するには距離が必要だ。近くに空港があっても、現在の進行方向から大きく旋回しなければならない場合がある。空港の天候や滑走路が適していなければ、やり直しによってかえって時間を失う。
明日香は一つずつ候補を確認した。
羽田。
成田。
中部。
必要なら、ほかの空港も選べる。
画面に表示された距離だけでなく、降下経路と到着後の動きを頭に描く。
羽田は到着機が多い。しかし、緊急事態を宣言すれば優先的な取り扱いを受けられる。消防と救急の体制があり、航空会社の地上支援も整っている。明日香が何度も離着陸した空港であり、滑走路、誘導路、周辺地形を熟知していることも、単独操縦では重要だった。
成田は長い滑走路を持ち、天候も良好だった。ただし現在の経路と風向を考えると、必ずしも羽田より早く着けるとは限らない。着陸後に航空会社の支援を受けるまでの時間も比較する必要がある。
中部へ戻る選択は、現在位置からの距離と進行方向を考えると不利だった。
明日香は、羽田を選びたいという自分の感情も点検した。
ホームベースだから安心する。
慣れた空港へ帰りたい。
それだけで選ぼうとしていないか。
目的地へ戻ることに固執し、より安全な選択肢を見失う心理は、訓練で繰り返し戒められている。
明日香は羽田という名前を一度頭から外し、条件だけを比較した。
飛行時間。
気象。
滑走路。
進入の難易度。
地上支援。
医療搬送。
単独での作業量。
それでも結論は変わらなかった。
羽田が最善だった。
慣れているからではない。現在の条件で、佐藤を最も早く適切な医療へつなぎ、乗客全員を安全に降ろせる可能性が高いからだ。
明日香は候補の比較をメモへ短く残した。
後で誰かへ説明するためだけではない。
極度の緊張の中で、数分後に自分が同じ疑問を繰り返さないためだ。一度判断したことを記録しておけば、新しい情報がない限り、同じ比較へ注意を奪われずに済む。
最短時間で着陸できる空港が、必ずしも最善とは限らない。滑走路の長さ、進入方式、現在の高度からの経路、到着後に救急車が機体へ近づけるか。着陸後の医療機関への搬送時間も考える必要がある。
明日香は地図表示を広げた。
羽田はホームベースで、気象は良好。長い滑走路と緊急対応体制がある。航空会社の支援も受けやすい。現在の経路から大きく外れる必要もない。
成田も候補になる。中部へ戻る選択肢もある。
だが、佐藤には一分でも早い診療が必要だ。
明日香は残り飛行時間を比較した。
羽田へ直行し、優先的な進入を受けるのが最も合理的だった。
結論を出した時、インターホンが再び鳴った。
「森川です。医師から、できるだけ早く着陸する必要があるとのことです。意識は戻っていません。呼吸と脈はあります」
「了解しました。羽田へ優先的な取り扱いを要請します。着陸後、救急隊が機体へ直接来られるよう手配を求めます」
「客室はどう準備しますか」
「通常より早く着陸態勢に入る可能性があります。サービスはすべて終了したまま、手荷物と通路を確認してください。機長の救護場所を確保し、着陸時に身体を安全に固定できる方法を医師と相談してください」
「承知しました」
「乗客には、現時点で機長のことは伝えないでください。体調を崩した者がいるため優先着陸するとだけ案内します」
「分かりました」
「森川さん」
「はい」
「私から連絡できない時間が続いても、飛行操作と管制対応を行っています。客室の緊急事態でない限り、報告は要点だけにしてください」
「承知しました。こちらからの連絡を必要最小限にします」
役割が明確になる。
森川は客室と救護を統括する。
明日香は飛行と地上との調整を担う。
二人の間に扉はあるが、一つのチームとして動いている。
明日香はQRHを開き、乗員の職務遂行能力喪失に関する手順を確認した。
訓練で覚えているからといって、記憶だけに頼らない。すでに行った項目と、これから必要な項目を照合する。
操縦の確保。
職務遂行不能となった乗員の保護。
客室乗務員への援助要請。
酸素と医療対応。
管制と会社への通報。
着陸地の選択。
飛行乗務員が一人になった状態での作業再編。
明日香は指で一項目ずつ追った。
これまでの対応に大きな漏れはない。
次は管制への通報だ。
通常の交信と同じように話せばいい。
誰が聞いているかを考えず、必要な事実と要求だけを伝える。
機長が職務遂行不能。
機体は正常。
副操縦士一名で操縦中。
羽田への優先直行と降下。
着陸後の救急隊。
明日香はメモへ短く書いた。
文字がわずかに震えている。
自分の手が震えていることに、その時初めて気づいた。
ペンを置き、両手を一度強く握ってから開く。
震えは消えなかった。
消す必要はない。
操作できる。話せる。判断できる。
恐怖を感じていることと、職務を行えないことは同じではない。
佐藤は以前、機長になっても着陸は緊張すると言った。
怖さがなくなることと、慣れることは違う。
明日香はその言葉を思い出した。
怖くても、次の行動を選べる。
完璧でなくても、誤りを見つけて戻れる。
今、自分に必要なのは、恐怖を消すことではない。恐怖があるまま、優先順位に従うことだ。
正面の計器をもう一度確認する。
高度、正常。
速度、正常。
経路、正常。
自動操縦、正常。
羽田までの残り距離は確実に短くなっている。
無線から、東京コントロールが別の航空機へ高度変更を指示する声が流れた。
空の交通は通常どおり動いている。
明日香が何も言わなければ、地上はSA914便の操縦室で起きたことを知らない。
助けを得るには、自分から伝えなければならない。
彼女は送信ボタンへ指を置いた。
左席は空いている。
隣から確認の声は返らない。
明日香は一度だけ息を吸い、無線の向こうにいる管制官へ向けて口を開いた。




