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私が操縦します (I Have Control)  作者: 久遠 睦


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第6章:東京コントロール

「パン・パン、パン・パン、パン・パン。東京コントロール、こちらスカイエア914」


明日香は送信ボタンを押し、無線の向こうへ呼びかけた。


通常の交信と同じ速度で、言葉を一つずつ区切る。


声が震えていないか、自分では分からなかった。


左席は空いている。佐藤は前方客室で医師の処置を受けている。機体は自動操縦でフライトレベル340を維持し、羽田へ向けて飛行中だ。


正面の計器には異常がない。


だからこそ、伝えるべき異常は人間に起きたことだけだった。


東京都心から離れた東京航空交通管制部の管制室では、管制官の鈴木正志が、担当空域を飛ぶ航空機の動きをレーダー画面で監視していた。


薄暗い室内に、複数の管制席が並んでいる。画面には航空機を示す記号と、便名、高度、速度などの情報が表示されていた。管制官たちはヘッドセットを着け、絶え間なく交信を続けている。


静かに見えるが、室内にあるのは沈黙ではない。


航空機への指示。隣接する担当区との調整。キーボードを操作する音。監督者への報告。何十もの短い言葉が同時に交わされ、それぞれが空の中の位置と時間を動かしている。


鈴木の担当する航空機は、それまで順調だった。


高度を変更する便。目的地へ向けて降下を始める便。天候を避けるため、わずかに経路を変える便。どれも日常的な調整の範囲にある。


その中で、三度繰り返された「パン・パン」は、ほかの音から明確に浮かび上がった。


鈴木の背筋が伸びる。


遭難状態を示す「メーデー」とは異なるが、緊急の取り扱いを必要とする通報だ。機体の故障、乗員や乗客の急病、燃料上の問題。理由はまだ分からない。


最初に行うのは、相手の送信を受け取ったと伝えることだった。


「スカイエア914、東京コントロール。どうぞ」


鈴木は短く応答し、画面上のSA914便を確認した。


高度三万四千フィート。速度と経路に異常な変化はない。レーダー上では、ほかの航空機と同じように安定して飛んでいる。


明日香はメモへ書いた要点を見た。


機長、職務遂行不能。


副操縦士一名で操縦。


機体正常。


羽田へ優先直行。


救急隊。


「スカイエア914、メディカル・エマージェンシーです。機長が意識を失い、職務遂行不能となりました。現在、副操縦士一名で操縦しています。機体に異常はありません。羽田への優先的な取り扱いと、可能な限りの直行経路を要求します。着陸後、救急隊を要請します」


言い終えた瞬間、操縦室がさらに静かになったように感じられた。


自分が一人だと、地上へ正式に伝えた。


それまでは、操縦室の中だけの現実だった。言葉にしたことで、引き返せない事実になった。


鈴木は内容を聞きながら、SA914便の情報へ緊急状態を示す入力を行った。


機長が意識を失った。


副操縦士一人。


機体は正常。


羽田への優先取り扱い。


管制官として必要なのは、驚きを表すことではない。


相手が安全に飛び続けられる環境をつくることだ。


「スカイエア914、東京コントロール。了解しました。羽田への優先取り扱いを行います。現在の高度と飛行状態を確認します。フライトレベル340を維持、機体は正常でよろしいですか」


「フライトレベル340を維持。機体は正常です。自動操縦作動中です」


「了解。飛行可能な状態ですか」


「飛行可能です」


「承知しました。必要な時間を取ってください」


最後の一言が、明日香の耳に残った。


必要な時間を取ってください。


急がなければならない。佐藤を早く病院へ届けたい。


しかし、急ぐことと、作業を乱すことは違う。


管制官は、今すぐすべてを答えろと求めなかった。


明日香は一度息を吐いた。


鈴木は左手を上げ、近くにいた監督者へ合図した。


監督者が管制席へ近づく。


鈴木は送信していない状態を確認し、要点だけを伝えた。


「スカイエア914、機長が意識不明。副操縦士一名で操縦継続。機体異常なし。羽田へ優先着陸を要求しています」


監督者の表情が引き締まった。


「了解。周辺席と羽田側の調整を始める。君は交信を継続。質問は必要最小限に」


「はい」


「別周波数へ移す時は、受け側に状況を完全に引き継ぐ。それまでは安易に移管しない」


「了解しました」


監督者はすぐ別の担当者へ指示を出した。


一人の管制官がSA914便と話している間に、周囲で複数の調整が始まる。


羽田への到着を扱う管制機関への連絡。


緊急機が向かう経路上の担当区との調整。


周囲を飛ぶ航空機の経路と高度の変更。


空港側への緊急情報の伝達。


一つの交信の背後で、地上の仕組みが動き出していた。


鈴木はレーダー上で、SA914便の前方にいる航空機を確認した。


そのまま直行経路を与えれば、到着順や高度の調整が必要になる。明日香へ複雑な回避指示を出すのではなく、周囲の航空機を動かすほうがよい。


「スカイエア914、現在位置から羽田到着経路へ向けた直行を調整中です。現針路を維持してください」


「現針路を維持します、スカイエア914」


明日香は復唱した。


通常なら、管制官から新しい経路が与えられるまでの数分は、何でもない待ち時間だ。


今は違った。


救急隊の到着。佐藤の意識。羽田までの距離。すべてが時間に結びついている。


それでも、鈴木の「調整中」という言葉に、明日香はわずかな安堵を覚えた。


自分が一人で空路を切り開く必要はない。


地上が道をつくっている。


鈴木は前方の便へ交信した。


「サンライズエア325、交通流調整のため、右旋回ヘディング090」


突然の経路変更を受けた機長は理由を尋ねず、指示を復唱した。


別の航空機には降下開始を遅らせる。


さらに別の便には速度を落とすよう求める。


乗客には分からないほど小さな変更だ。


だが、それらを組み合わせることで、SA914便の前方に空間が生まれる。


空に目に見える道路はない。


管制官の言葉によって、航空機同士の間に安全な道がつくられる。


「スカイエア914、羽田到着経路上の地点へ直行できます。準備できましたら右旋回、ダイレクトを許可します」


鈴木は地点名を伝えた。


明日香は飛行管理システムで位置を確認した。


現在の経路から無理のない右旋回で入れる。高度と残り距離にも余裕がある。


「ダイレクト、確認しました。右旋回します、スカイエア914」


明日香は自動操縦へ新しい経路を入力した。


入力した地点が正しいか、画面上の線と距離を確認する。


通常なら、隣の機長が相互確認する。


今は誰もいない。


明日香は指を離し、最初からもう一度見た。


地点名。


方位。


距離。


経路上に不自然な折れや戻りがない。


「実行」


機体が穏やかに右へ傾く。


飛行モード表示を確認する。


経路捕捉。


高度維持。


速度、正常。


「右旋回、ダイレクト。飛行状態正常」


明日香は声に出した。


鈴木はレーダー上で、SA914便の記号が新しい方向へ動くのを見た。


指示どおりの旋回。


高度の変化なし。


応答も明瞭。


副操縦士は、極度の状況の中でも機体を正確に管理している。


鈴木は十数年前、自分が訓練生だった頃に聞いた話を思い出した。


緊急機を扱う時、管制官が陥りやすい誤りは、助けようとして話しすぎることだと教官は言った。


状況を詳しく知りたい。すぐに降下させたい。必要な情報を一度で集めたい。善意から質問を重ねるほど、操縦室の作業量は増えていく。


「管制官の安心のために、操縦士へ答えさせるな」


教官の言葉だった。


必要な情報と、今すぐ必要な情報を分ける。


答えがなくても機体の安全を保てる質問は、待つ。


地上で確認できることを、空へ尋ねない。


鈴木はSA914便への次の送信内容を頭の中で短くした。


一つの交信に、一つの目的。


高度指示と長い質問を同時に出さない。


復唱が必要な数字を増やさない。


明日香の声に変化があれば、飛行可能かを確認する。ただし、落ち着いている限り、同じ確認を繰り返さない。


レーダー画面では、航空機は小さな記号にしか見えない。


その中に操縦室があり、右席に一人の人間が座っている。鈴木には顔も、手の震えも見えない。判断材料は、声と機体の動きだけだった。


明日香の復唱は正確だった。


旋回も高度維持も指示どおり。


今のところ、過剰に介入する理由はない。


鈴木はヘッドセット越しの静けさを受け入れた。


何も話さない数分も、支援の一部だった。


だからこそ、余計な作業を増やしてはいけない。


緊急時、管制官は情報を集める必要がある。搭乗者数、残燃料、危険物の有無、希望滑走路、機体の状態。空港の消防救急へ伝えるために重要な項目だ。


しかし、一度に質問すれば、一人で操縦する明日香の作業量を増やす。


鈴木は監督者と相談し、優先順位を決めた。


まず、羽田へ安全に進めること。


次に、降下を開始できる状態か。


搭乗者数や燃料は、明日香が安定した段階で聞く。


会社から得られる情報は、航空会社側へ確認する。


「スカイエア914、降下開始の準備ができましたら報告してください。現時点で急ぐ必要はありません」


「了解しました。到着準備に数分必要です」


「承知しました。フライトレベル340を維持してください」


明日香は、管制官が自分の作業を理解していると感じた。


降下を急かされない。


周囲の航空機との間隔は地上が確保する。


自分は羽田への準備に集中できる。


彼女は到着情報を表示し、使用滑走路、風、気圧、高度制限を確認した。


インターホンが鳴る。


森川からだった。


「操縦室、森川です」


「どうぞ」


「機長の意識は戻っていません。呼吸と脈はあります。医師から、状態は不安定であり、最短での着陸が必要とのことです」


「了解しました。管制へ緊急通報済みです。羽田への直行経路を受けました。着陸後、救急隊を機体へ向かわせます」


「客室の準備を進めます」


「お願いします。搭乗者数を確認します。乗客三百七十九名、乗員十名、合計三百八十九名で相違ありませんか」


「相違ありません」


「機長を含みます」


「はい」


「危険物や、救急対応に影響する特別貨物の報告はありません」


「承知しました」


森川は一拍置いた。


「田中副操縦士、声は大丈夫ですか」


明日香は質問の意味をすぐ理解できなかった。


「声、ですか」


「少し息が浅く聞こえます」


自分では気づいていなかった。


管制との交信、経路入力、客室からの報告。作業を続けるうち、呼吸が速くなっていた。


「操縦に問題はありません」


反射的に答えた。


その言葉は、出発前から佐藤が何度も言ったものと同じだった。


明日香は息を止めた。


大丈夫だと言い張り、周囲の指摘を退ける。


自分が同じことをしてはいけない。


「……緊張しています。ですが、判断と操作はできます」


言い直した。


「分かりました。深呼吸を一度してください。客室は私たちに任せてください」


「ありがとうございます」


明日香は鼻から息を吸い、ゆっくり吐いた。


一度だけでは足りず、もう一度繰り返す。


心拍は速いままだが、視界の狭さが少し戻った。


「客室の変化がなければ、次の報告は着陸準備完了時で構いません」


「承知しました」


通信を終える。


東京コントロールの管制室では、監督者から航空会社と羽田側へ情報が送られていた。


航空会社の運航管理部門では、SA914便を担当する運航管理者が、画面に表示された緊急情報を確認した。


機長職務遂行不能。


副操縦士一名。


羽田へ優先着陸。


その文字を見た瞬間、室内の複数の担当者が動いた。


運航管理者は、機体の運航計画、搭載燃料、乗客数、機材情報を確認する。別の担当者は羽田の地上部門へ連絡し、着陸後に使用する駐機位置と救急車の進入経路を調整する。医療支援の担当は、空港救急と受け入れ先医療機関へ情報をつなぐ。


佐藤の個人情報と緊急連絡先は、必要な範囲で確認される。


同時に、明日香へどのような支援を提供できるかが検討された。


同型機の経験が豊富な機長を通信支援へ待機させる案。


到着空港の気象と滑走路情報を整理し、余計な情報を省いて伝える案。


着陸後の牽引や乗客降機を含む地上計画。


ただし、会社から操縦室へ直接大量の連絡を入れれば、明日香の負担になる。


運航管理者は、管制を通じて必要な支援だけを確認する方針を選んだ。


「現時点では、羽田への経路と救急対応を優先。副操縦士へ直接連絡を求めない。追加の技術支援が必要か、管制経由で確認してください」


責任者が指示した。


地上にいる者は、助けようとするあまり、空の一人へ仕事を増やしてはいけない。


運航管理者の高橋は、SA914便が那覇を出発する前から、その便の飛行計画を担当していた。


出発時の気象、搭載燃料、代替空港、機体重量。佐藤と明日香がブリーフィング室で確認した資料の向こう側には、高橋の仕事がある。


通常、便が離陸したあとは、計画と実際の飛行を監視し、天候や空港状況に変化があれば乗員へ知らせる。多くの便は、短い連絡だけで目的地へ着く。


今日のSA914便も、そのはずだった。


高橋の画面には、機体の現在位置と高度が表示されている。レーダーとは異なる情報系統を通じて、飛行の進み方を追うことができる。


機長職務遂行不能という通知を受けたあと、高橋は出発前の記録を確認した。


乗員から体調不良の申告はない。


機材に運航を妨げる不具合はない。


燃料は羽田の混雑を見込み、計画より余裕を持たせている。


その追加燃料が、今は明日香の選択肢を守っている。


緊急着陸を急ぐとしても、燃料が少なければ、経路や進入のやり直しに対する余裕がなくなる。十分な燃料があれば、天候や滑走路状況が変化した時にも別の空港を選べる。


出発前、佐藤と明日香が余裕を持たせる判断をしたことを、高橋は記録から知った。


安全への備えは、必要になった瞬間には新しくつくれない。


問題が起きる前の小さな判断が、危機の中で時間と選択肢に変わる。


「同型機の機長を呼べます」


近くの担当者が高橋へ言った。


「技術的な助言が必要なら、すぐ対応できます」


高橋は一瞬考えた。


明日香はA350の有資格者であり、飛行状態は安定している。管制との交信も成立している。そこへ別の機長から助言を送り始めれば、聞く、理解する、必要か判断するという新たな作業を加えることになる。


「待機だけ依頼してください。こちらから直接つながない。副操縦士が支援を求めた場合か、機体の不具合が発生した場合に備えます」


「了解しました」


「羽田の到着情報は、変更があったものだけ管制へ渡す。現在の資料を繰り返し送らないでください」


高橋は指示しながら、自分も明日香へ連絡したい衝動を抑えた。


大丈夫か。


何が必要か。


会社は支援している。


そう伝えたかった。


しかし、励ましの言葉も、受け取る側には一つの通信になる。返事を求めれば、さらに作業を増やす。


今は、話しかけないことが支援だった。


高橋は画面上のSA914便を見つめた。


機体は羽田へ向けた直行経路へ入り、高度を維持している。


「こちらでできることを、先に終わらせる」


自分へ言うように呟いた。


駐機位置の調整。


救急車の進入許可。


乗客を安全に降ろすための地上要員。


機長の家族への連絡準備。


明日香が着陸後に操縦室を離れられるよう、代わりに機体を引き継ぐ乗員と整備士。


空の明日香が着陸までに考えなくてよい事柄を、地上で一つずつ処理していく。


それが運航管理者の仕事だった。


羽田空港では、消防救急の担当へ緊急情報が届いた。


「到着予定機、SA914便。機長が意識不明。機体異常なし。副操縦士一名で操縦。乗客三百七十九、乗員十」


救急車両と消防車両の乗員が装備を確認する。


着陸後、機体が滑走路上で停止するのか、自走して指定場所まで移動するのかはまだ決まっていない。機体に異常がなければ、通常に近い形で誘導路へ出る可能性が高い。しかし単独操縦であり、着陸後の作業量を減らすため、滑走路付近で救急隊を接近させる選択もある。


空港側は複数の配置を想定した。


どの滑走路へ着陸しても動ける位置。


機体の進路を妨げず、最短で前方ドアへ到達できる経路。


乗客の降機と救急搬送が重なった場合の動線。


受け入れ先病院への搬送ルート。


まだ空にいる一機のため、地上で空間が空けられていく。


救急隊長の中村は、車内で無線を聞きながら、隊員へ状況を共有した。


「患者は五十代後半の男性。意識なし。自発呼吸と脈拍あり。機内に医師がいて、酸素投与中。原因は不明」


「心疾患と脳血管障害、両方を想定しますか」


「どちらも除外しない。機内での発症時刻と、最後に正常だった時刻を必ず確認する」


脳血管障害では、治療開始までの時間が重要になる。心臓の問題でも同じだ。意識を失った時刻だけでなく、言葉が出にくくなった時刻、反応が遅れ始めた時刻が診療の手がかりになる。


「客室乗務員が記録している可能性があります」


「受け取る。服薬、既往歴、アレルギーが分かれば確認する。ただし、機内で無理に探させない。まず患者の状態だ」


隊員たちは心電図モニター、酸素、気道確保器具、搬送用ストレッチャーを点検した。


航空機が停止した直後に接近できるとは限らない。


エンジンが停止し、機体周囲の安全が確認され、地上係員から許可が出るまで待つ必要がある。巨大なエンジンの近くへ不用意に近づけば、救助する側が危険にさらされる。


一分を争う状況でも、安全手順を飛ばすことはできない。


「着陸後の停止位置は未定です」


運転担当が言った。


「変更に備えて、管制無線と空港側の指示を両方聞く。前方左ドアへ接近できる経路を優先する」


中村は滑走路と誘導路の配置図を確認した。


空港は広い。


どこで機体が停止するかによって、到着までの時間が変わる。消防車両と競合せず、翼やエンジンを避け、前方ドアへ最短で入る経路を選ばなければならない。


空港消防の指揮車から、待機位置が指定された。


救急車が動き出す。


窓の外では、通常の航空機が離着陸を続けていた。搭乗橋では乗客が便を待ち、手荷物車両が走り、整備士が機体の周囲で作業している。


その日常の中に、緊急対応のための別の流れがつくられていた。


SA914便がまだ何十キロも離れた空にいるうちから、救急隊は受け入れる準備を整えている。


中村は無線へ手を伸ばした。


「救急一、指定位置へ移動中。患者情報の更新があれば連絡を願います」


返答が届く。


「了解。現在、意識回復なし。呼吸、脈拍あり。到着予定時刻は更新後に通知する」


「救急一、了解」


中村は時計を見た。


空の一分を、地上で無駄にしない。


管制室の鈴木は、SA914便の速度と経路を見守りながら、次の交信の時機を待った。


明日香へ質問したい項目はある。


残燃料。


希望滑走路。


着陸後の停止場所。


追加支援の要否。


しかし、無線が静かだからといって、相手が暇なわけではない。


一人で到着準備を進めている。


鈴木は送信を控えた。


レーダー画面上で、SA914便は直行経路を安定して進んでいる。


数分後、明日香から呼び出しが入った。


「東京コントロール、スカイエア914。降下準備に入ります。羽田の最新気象と使用滑走路を要求します」


声は先ほどより落ち着いていた。


鈴木は用意していた情報を伝えた。


南寄りの風。


視程良好。


雲底に問題なし。


使用滑走路は16Lを予定。


気圧値。


明日香は一つずつ復唱した。


「滑走路16L、気圧値確認。RNP進入を要求します」


「スカイエア914、RNP滑走路16Lで調整します」


「ありがとうございます」


通常の交信では、管制官へ礼を言わないことも多い。


だが明日香の口から自然に出た。


鈴木は「了解」とだけ返した。


その短い言葉に、応援しているという感情を込めることはできない。


管制官の役割は、落ち着いた声と正確な指示で支えることだ。


「スカイエア914、追加情報を確認します。搭乗者数と残燃料を、可能な時に通報してください」


「搭乗者三百八十九名。残燃料は確認して通報します」


「了解。急ぎません」


明日香は燃料表示を確認した。


計画値より余裕がある。羽田へ直行するため、待機がなければ十分すぎる量だった。着陸重量も制限内に収まる。


「スカイエア914、残燃料は約二時間半。危険物の搭載報告なし」


「了解しました」


鈴木は情報を入力し、監督者へ共有した。


搭乗者三百八十九。


残燃料二時間半。


機体異常なし。


滑走路16Lを希望。


緊急時の数字は、地上の対応規模を決める。


万一、着陸時に別の問題が起きた場合、消防救急がどれだけの人と燃料を相手にすることになるか。その前提になる情報だ。


明日香は、管制官へ必要事項を伝え終えた。


次に、降下と進入の準備を一人で行わなければならない。


通常なら、操縦担当と監視担当が分担する。


一人が飛行管理システムへ入力し、もう一人が元資料と照合する。一人が管制と交信し、もう一人が計器を監視する。チェックリストは呼びかけと応答で確認する。


今は、そのすべてを明日香が担う。


左席の空白を見ないようにしても、視界の端へ入る。


佐藤なら、次に何を確認するか。


佐藤なら、自分の入力をどう監視するか。


明日香は、隣にいない機長の声を頭の中で再現した。


その時、東京コントロールから新しい指示が入った。


「スカイエア914、準備できましたら降下してください。フライトレベル240まで降下可能です。降下開始時に報告してください」


「フライトレベル240まで、準備でき次第降下。開始時に報告します、スカイエア914」


明日香は高度設定を三万四千から二万四千フィートへ変更した。


すぐには実行しない。


設定値を確認する。


三万四千ではない。


一万四千でもない。


二万四千。


画面上の経路と、高度制限を照合する。


問題なし。


「高度、フライトレベル240、セット」


隣から「確認」という返事はない。


明日香は自分で、もう一度言った。


「フライトレベル240、確認」


降下モードを選ぶ。


機首がわずかに下がり、垂直速度の表示が動く。


「ディセント」


飛行モード表示。


速度。


経路。


すべて正常。


「東京コントロール、スカイエア914、降下を開始しました」


「スカイエア914、了解。貴機を優先します。周囲の交通は調整済みです」


その言葉どおり、無線からは他機への速度調整や経路変更が続いていた。


明日香の前方に、見えない一本の道が開かれている。


高度計の数字がゆっくり減り始めた。


羽田へ近づいている。


佐藤を地上へ届ける時が近づいている。


同時に、明日香が一人で着陸しなければならない瞬間も近づいている。


「スカイエア914」


鈴木が呼びかけた。


「何か必要な支援があれば、いつでも要求してください」


明日香は送信ボタンを押した。


「ありがとうございます。現在、降下と進入の準備を継続します」


「了解しました」


鈴木は送信を終えたあと、監督者へ小さく頷いた。


監督者は別の電話回線を切り、鈴木へ報告した。


「羽田側、受け入れ準備中。滑走路16Lを優先して空ける。消防救急、待機に入った。航空会社も地上支援を準備済み」


「副操縦士へ伝えますか」


「今は降下操作中だ。安定してから、短く伝えよう」


「了解」


情報を持っているからといって、すぐ送る必要はない。


鈴木はSA914便が二万八千フィートを通過するのを見た。


降下率は安定している。


前方の空域は調整済みだ。


別の管制席から、到着便一機を待機経路へ回したとの連絡が入る。その便の操縦士には、緊急機のためとは伝えられていない。必要な指示だけが出され、乗客は到着が数分延びる理由を知らないままだろう。


さらに一機が速度を落とし、SA914便の後方へ順序を変更する。


一機を優先するということは、ほかの航空機を無視することではない。


すべての機体の安全な間隔を保ったまま、順序と経路を組み替えることだ。


鈴木の画面上で、複数の記号が少しずつ位置関係を変えていく。


空の流れが、SA914便を中心に静かに編み直されていた。


高度二万六千フィート。


鈴木は交信の間を選び、明日香を呼んだ。


「スカイエア914、情報です。羽田は滑走路16Lを貴機のため優先します。消防救急は待機中です。航空会社の地上支援も準備されています」


短い沈黙のあと、明日香の声が返った。


「スカイエア914、了解しました。ありがとうございます」


今度の礼には、先ほどより感情が混じっていた。


鈴木はそれを指摘せず、通常どおり応答した。


「降下を継続してください」


「降下を継続します」


明日香は一人で操縦している。


だが、着陸後に誰もいないわけではない。


救急隊が待っている。


地上要員が待っている。


その事実を伝えることは、今なら作業を増やさず、支えになると鈴木は判断した。


交信が終わる。


操縦室には、再びエンジンと空調の音だけが残った。


明日香は一人だった。


だが、孤立してはいなかった。


レーダーの向こうで鈴木が進路を守っている。


管制室では監督者が周辺空域を調整している。


航空会社では運航管理者が情報を集めている。


羽田では消防車と救急車が待機している。


客室では森川たちと医師が佐藤の命をつないでいる。


目には見えない多くの手が、SA914便へ向けて伸びていた。


明日香は正面の青い空を見た。


その先に、まだ羽田の滑走路は見えない。


それでも、帰るための道は確かにつながっていた。


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