第II部:静かなる墜落 第4章:リズムの綻び
巡航高度に達してから一時間余りが過ぎ、SA914便は本州へ近づいていた。
機内では飲み物のサービスが一段落し、多くの乗客が静かな時間を過ごしている。窓の外には青い太平洋が続き、白い雲の峰が点在していた。雲の切れ間から海面が見えるたび、午後の日差しが小さな銀色の帯をつくっている。
操縦室も、離陸直後の忙しさから解放されていた。
自動操縦装置は設定された高度と経路を維持し、二基のエンジンは一定の音を響かせている。計器に警報はない。燃料消費は計画とほぼ一致し、羽田への到着予想時刻も定刻の範囲内だった。
明日香は正面の表示から中央の画面、頭上のパネルへ視線を移した。
姿勢。高度。速度。経路。エンジン。燃料。与圧。
同じ順序で状態を確認する。
何も変わっていないように見える時間ほど、注意を意識して保たなければならない。異常が起きれば誰でも画面を見る。警報が鳴れば、意識は強制的にそこへ向く。しかし、警報になる前の小さな変化を見つけるには、人間が自ら注意を動かし続ける必要がある。
佐藤は左席で、到着に関する最新情報を確認していた。
羽田の風は南寄り。滑走路16Lへの到着が続いている。都心上空を通る進入経路にも大きな変更はない。
「到着時刻は、ほぼ計画どおりだな」
佐藤が言った。
「はい。向かい風が予報より弱い状態が続いています」
「早着しすぎることもなさそうだ」
「羽田で待機が出れば、ちょうどよくなるかもしれません」
佐藤は小さく笑い、画面を切り替えた。
会話は自然だった。
離陸前から明日香が気にしていた胃の不快感も、肩や首の凝りも、佐藤はもう口にしていない。水のボトルは半分ほど減っている。顔色にも、目立った変化はなかった。
先ほど一度だけ長く目を閉じたことも、その後は繰り返されていない。
明日香は、自分の警戒がようやく空振りに終わりそうだと感じていた。
それでいい。
心配しすぎだったと笑えるなら、そのほうがいい。
客室からインターホンが入った。
明日香が応答する。
「コックピットです」
「森川です。客室に異常ありません。サービスは終了し、到着前の準備まで休憩に入ります」
「了解しました。現在、揺れは予想されていません。ただし、関東へ近づいた段階で気流の変化があるかもしれません。早めに連絡します」
「承知しました」
森川は一拍置いてから続けた。
「機長、副操縦士、お飲み物はいかがですか」
明日香は佐藤を見た。
「機長、何か頼みますか」
佐藤は反応しなかった。
画面へ視線を落としたまま、右手の人差し指で資料の一行を追っている。
「機長?」
二度目に呼ぶと、佐藤は顔を上げた。
「ああ、何だ?」
「森川さんが、飲み物はいかがですかと」
「そうだな。コーヒーを頼む」
「機長、先ほど胃が重いとおっしゃっていました。コーヒーで大丈夫ですか」
明日香が念を押すと、佐藤は少し考えた。
「では、水でいい」
明日香はインターホンへ戻った。
「私は温かいお茶をお願いします。機長は水を」
「承知しました」
通信を切ったあと、明日香は佐藤へ視線を戻した。
「何か考え事をしていましたか」
「到着経路を見ていた。呼ばれたのに気づかなかっただけだ」
「体調に変化はありませんか」
「ないよ」
佐藤の返答は即座だった。
明日香は時計を見た。
呼びかけへの反応が一度遅れた。それだけで異常と判断することはできない。集中して資料を読んでいれば、隣からの声を聞き逃すことはある。
だが、先ほど佐藤が言った言葉を思い出す。
機長だから。経験があるから。本人が大丈夫と言うから。周囲が何も言わなくなることがある。
明日香は、今の出来事を小さな事実として記憶した。
客室では、飲み物のサービスを終えた山下が、後方ギャレーでカートの中を整理していた。使用済みのカップをまとめ、残った飲み物の本数を数え、到着後の片づけがしやすいよう配置を戻す。
森川は乗客の様子を確認しながら、通路を前方へ歩いていた。
小学生の少年は窓の日除けを半分下ろし、母親の肩にもたれて眠っている。沖縄を離れる時には景色から目を離さなかったが、離陸の興奮が収まるとすぐ眠気に負けたらしい。
仕事の資料を開いていた男性は、ノートパソコンの画面を見つめたまま手を止めていた。考えているのか、眠っているのか分からない。老夫婦は二人とも目を閉じ、妻の手が夫の腕に軽く触れている。
前方の座席で、若い女性が森川を呼び止めた。
「すみません。東京には、何時頃着きますか」
「現在のところ、ほぼ定刻を予定しております。到着前に改めてご案内いたします」
「よかった。乗り継ぎではないんですけど、人と約束があって」
女性は安心したように笑った。
「羽田空港も混み合う時間帯ですので、お降りになってからの移動には少し余裕を見ていただければと思います」
「分かりました。ありがとうございます」
森川は頭を下げ、前方へ進んだ。
三百七十九人の予定が、一機の到着時刻に結びついている。
会う約束。仕事。帰宅。次の交通機関。病院へ向かう者や、家族のもとへ急ぐ者がいるかもしれない。
乗客に見えるのは、静かな客室と窓の外の空だけだ。
操縦室で起きる小さな変化は、扉の向こうへ伝わらない。
森川は前方ギャレーで水と温かいお茶を準備し、所定の手順で操縦室へ入った。
「失礼します」
「ありがとう」
明日香が受け取る。
佐藤は正面を向いたままだった。
「機長、お水です」
森川が声を掛けると、佐藤は少し遅れて振り返った。
「ああ、そこへ置いてくれ」
「かしこまりました」
森川はカップホルダーへボトルを置いた。佐藤の顔を一瞬見たあと、明日香へ視線を移す。
その目に、言葉にならない問いがあった。
明日香は小さく頷いた。
今のところ問題はない。そう伝えるための頷きだった。
森川はそれ以上何も聞かず、操縦室を出て扉を閉めた。
客室へ戻った森川は、前方ギャレーで一度足を止めた。
佐藤の反応が普段より遅かった。顔色も、搭乗前より白く見えた。明日香は問題ないという意味で頷いたはずだが、その表情には固さがあった。
森川は山下を呼び、周囲の乗客に聞こえない声で伝えた。
「前方の担当をしばらく代わってください。私は操縦室から連絡があれば、すぐ動けるようにします」
山下の顔に緊張が浮かぶ。
「何かあったんですか」
「まだ何もありません。念のためです」
「承知しました」
森川は、救急医療キットとAEDの収納位置を目で確認した。毎便、搭載場所と封印を点検している。今さら確かめる必要はない。それでも、操縦室で感じた違和感が、彼女を確認へ向かわせた。
客室乗務員は病名を診断することはできない。しかし、意識や呼吸の確認、酸素投与、AEDの準備、医療従事者を探す放送など、機内でできる初期対応は訓練されている。
必要にならなければ、それでよい。
森川はインターホンの表示を見た。
呼び出しはない。
客室は穏やかなままだった。眠っている乗客。映画を見る乗客。窓の外を眺める乗客。誰も、前方の扉の向こうで機長の体調が疑われているとは知らない。
森川は客室全体を見渡した。
もし呼ばれたら、まず誰を操縦室へ連れていくか。前方を山下に任せ、もう一人の乗務員へ応援を求める。医療対応が必要なら、通路を確保し、乗客へ落ち着いて案内する。
まだ何も起きていないうちに、頭の中で役割を組み立てた。
準備をしたからといって、異常が起きるわけではない。
起きた時、最初の数分を失わないために備えるのだ。
操縦室で明日香が佐藤の小さな変化を追っていたのと同じように、森川も扉の外で待っていた。
「機長、水を飲んでください」
明日香が言う。
「分かっている」
佐藤はボトルを手に取ったが、蓋を開けようとして一度指を滑らせた。
小さなプラスチック音を立て、ボトルがホルダーへ戻る。
「貸してください」
「いや、大丈夫だ」
二度目は問題なく蓋が開いた。
佐藤は水を一口飲み、元の場所へ戻した。
「手が滑っただけだ」
明日香が何か言う前に、佐藤は説明した。
「汗ですか」
「そうだろう」
操縦室は適温に保たれている。佐藤の手が汗ばんでいる理由はない。
明日香は彼の右手を見た。
震えはない。指の動きにも異常は見えない。
「胸の痛み、頭痛、吐き気はありませんか」
「ない」
「視界は正常ですか」
「正常だ」
「左右の手足に違和感は」
佐藤はそこで、明日香へ顔を向けた。
「田中君。私は大丈夫だ」
声は穏やかだったが、会話を終わらせようとする響きがあった。
「何かあれば言うと約束しただろう」
「はい」
「今は何もない」
明日香は、それ以上質問しなかった。
本人の言葉を尊重したからではない。
観察を続けるために、いったん会話を終えた。
彼女は到着情報の確認へ戻りながら、視界の端に佐藤を置いた。
佐藤は資料を読み、必要な数値を画面へ入力している。入力速度は普段と変わらないように見えた。間違った項目を選んでもいない。
明日香の中で、二つの判断がせめぎ合う。
一つは、佐藤の状態を異常と見なすには根拠が足りないという判断。
もう一つは、複数の小さな変化が同じ方向を示しているという感覚。
呼びかけへの反応の遅れ。ボトルの蓋で指を滑らせたこと。手の汗。長い瞬き。
どれも単独では、誰にでも起こる。
だが、別々の偶然として片づけてよいのか。
完璧な答えが出るまで待とうとする癖は直したほうがいい。
出発前に佐藤から言われた言葉が、また浮かんだ。
明日香は決めた。
次に一つでも反応の異常があれば、本人の申告だけでは終わらせない。具体的な操作や確認を求め、職務を正常に行えるか確かめる。それでも疑いが残れば、客室乗務員を呼ぶ。
決断というには小さかったが、先送りではなかった。
明日香が初めて操縦士の職務遂行能力喪失を訓練で経験したのは、副操縦士として路線へ出る前だった。
シミュレーターの中で、教官が機長役を務めていた。離陸後、片方のエンジンに異常が起き、警報と管制交信が重なる。明日香はチェックリストを追い、機体が空港へ戻れる状態を整えることだけに集中していた。
その間に、隣の機長役は言葉を減らしていった。
最初は、忙しいから黙っているのだと思った。次に出した指示が少し曖昧でも、緊急事態の緊張によるものだと解釈した。高度の設定を誤った時には、自分が聞き間違えたのではないかと考えた。
教官は意識を失って倒れなかった。
目を開け、正面を見て、時折短い返事をした。だから明日香は、その人物がすでに機長として機能していないことに気づかなかった。
機体が指示された高度を越え、管制官役から警告を受けたところで、訓練は停止された。
映像が止まり、エンジン音が消えたあと、教官は左席で明日香を見た。
「いつから、私がおかしいと思った?」
明日香は答えられなかった。
違和感を覚えた瞬間はいくつもあった。だが一つずつ理由をつけ、正常なものとして処理した。
「気づかなかったわけではありません」
苦し紛れに言うと、教官は頷いた。
「そうだ。君は全部見ていた。見ていたが、自分の判断を信じなかった」
その言葉は、厳しい叱責より明日香へ残った。
教官はホワイトボードに、二つの言葉を書いた。
明白な機能喪失。
明白でない機能喪失。
意識を失って倒れる。激しい痛みを訴える。けいれんする。誰が見ても異常だと分かる状態は、発見そのものは難しくない。訓練どおりに操縦を引き継ぎ、援助を求めればよい。
危険なのは、目を開けたまま、少しずつ判断力や反応を失う状態だと教官は説明した。
返答が遅れる。手順を飛ばす。通常ならしない操作をする。会話が噛み合わない。それでも本人は大丈夫だと言い、周囲も疲れているだけだと考える。
「人は、隣にいる経験豊富な機長が突然機能しなくなるとは思いたくない。だから正常に見える理由を探す。特に、相手を尊敬している時ほど難しい」
教官の言葉に、当時の明日香は反発を覚えた。
安全に関わる場面で、尊敬や遠慮を持ち込むつもりはない。自分なら、必要な時に必ず声を上げられる。そう思っていた。
しかし、現実の操縦室はシミュレーターとは違った。
隣にいるのは、異常を演じる教官ではない。何度も自分を支え、機長昇格を推薦すると言ってくれた佐藤だ。
胃が重いという訴えには、遅い夕食という理由があった。長い瞬きには、寝不足という理由があった。呼びかけへの反応が遅れたのは、資料へ集中していたからかもしれない。ボトルの蓋で指を滑らせることなど、健康な人間にもある。
正常に見える理由はいくらでも見つかった。
明日香は今になって、教官の言葉の意味を理解していた。
異常の発見を妨げるのは、知識の不足だけではない。
相手を信じたいという気持ち。
自分の懸念が誤りであってほしいという願い。
便を止めるほどではないと考える周囲への配慮。
そして、自分の判断で機長へ異議を唱えることへの恐れ。
すべてが、もっともらしい理由の形をしている。
訓練の最後に教官は言った。
「診断する必要はない。病名を当てるのは医師の仕事だ。君たちが判断するのは、その人が今、操縦士として必要な行動を取れるかどうかだ」
胸が痛いか。脳に異常があるか。疲労か。脱水か。
原因が分からなくても、適切な応答や操作ができなければ、操縦を任せてはいけない。
明日香は佐藤の横顔を見た。
まだ、必要な操作は行えている。
だが、先ほどの質問には一度、噛み合わない答えを返した。
次の変化を待つという判断が、本当に正しいのか。すでに確認を始めるべき段階ではないのか。
明日香は、自分が定めた条件をすぐに修正した。
もう一つ異常が起きるまで待たない。
現在の飛行状況に関する具体的な確認を行い、佐藤が理解しているかを見る。答えられなければ、直ちに操縦を交代する。
「機長」
「何だ」
「現在位置と、次の管制移管までのおおよその時間を確認していただけますか」
佐藤はナビゲーション画面へ目を移した。
「現在位置は……」
指が画面の経路を追う。
「四国の南東。次の移管は、もう少し先だ」
答えは正しかった。
「到着時に想定している滑走路は」
「16L」
「進入方式は」
「RNP」
佐藤は明日香へ顔を向けた。
「これで試験は終わりか」
わずかな笑みがあった。
「念のための確認です」
「私は状況を理解している」
「分かりました」
すべて答えられた。
明日香は安堵したが、警戒は解かなかった。
一時的に正常な応答ができることと、その状態が続くことは同じではない。症状によっては、良く見える時間と悪化する時間を繰り返すことがある。
「では、次の高度変更は私が交信し、機長が設定してください」
「いつもそうしているだろう」
「はい」
明日香は正面へ向き直った。
自分が過敏になっている可能性は残っている。それでも構わないと思った。何も起きなければ、後で佐藤へ謝ればいい。慎重すぎたと笑われてもいい。
見逃した時の結果は、謝罪では戻せない。
その考えに至るまで、出発前から何度も迷った。
判断が遅かったという自覚はある。
だからこそ、ここからは迷わない。
佐藤は再び到着資料へ目を落とした。
その横顔を見ながら、明日香は初めて佐藤と乗務した日の着陸後を思い出した。
天候の悪化で進入をやり直し、明日香は管制指示の復唱を一度聞き返した。安全上の問題にはならなかったが、本人にとっては許しがたい遅れだった。乗客が降りたあとの操縦室で、彼女は自分の失敗を十項目近く挙げた。
佐藤は途中で遮らず、最後まで聞いた。
そして、改善する行動と、自分を責める言葉を分けるよう求めた。
「聞き返したことは失敗じゃない。分からないまま復唱するほうが危険だ」
当時の明日香は、その言葉に救われた。
今日、佐藤の異常を疑うことは、彼から受けた信頼を裏切る行為ではない。むしろ、分からないまま進まず、違和感を口にするよう教えたのは佐藤自身だった。
もし状態に問題がないなら、彼は明日香の確認を理解するはずだ。
もし理解できない状態なら、なおさら操縦を任せてはいけない。
どちらであっても、確認することが正しい。
明日香はようやく、自分の中で一本の基準を持てた。
その時、佐藤が小さく咳をした。
一度、二度。
口元へ手を当て、深く呼吸する。
「息苦しいですか」
「違う。喉に水が引っかかっただけだ」
佐藤はボトルを置いた。
「今、水は飲んでいませんでした」
明日香が言うと、佐藤の手が止まった。
数秒前、彼は資料を読んでいた。水を口にしたのは、それより前だ。
「そうだったか」
「はい」
「なら、空気が乾燥しているからだろう」
佐藤は何でもないように答えた。
説明自体は不自然ではない。
しかし、自分が直前に何をしたかという記憶が曖昧になっている。
明日香は決めていた基準に従った。
「機長。いったん操縦を交代してください」
「必要ない」
「現在の飛行に異常はありません。だからこそ、今のうちに交代できます」
「田中君、私は大丈夫だと言っている」
「先ほど、飲んでいない水が喉に引っかかったとおっしゃいました。呼びかけへの反応も遅れています」
明日香は事実だけを並べた。
佐藤は答えなかった。
「五分で構いません。私が操縦を担当します。その間に水を飲み、状態を確認してください」
「……分かった」
長い間のあと、佐藤が言った。
「任せる」
明日香は、操縦交代の定型句を告げようとした。
その瞬間、無線から管制官の声が入った。
無線から自分たちの便名が聞こえた。
「スカイエア914、ディセンド・パイロット・ディスクレション、フライトレベル340」
前方の交通との間隔を調整するため、管制官が高度変更を指示した。
明日香は内容を聞き取り、佐藤へ目を向けた。
通常なら、交信を担当する明日香が復唱し、操縦を担当する佐藤が高度を設定する。
「フライトレベル340、パイロット・ディスクレション、スカイエア914」
明日香が復唱する。
佐藤は高度設定ノブへ手を伸ばした。
表示が三万四千フィートへ変わる。
「フライトレベル340、セット」
佐藤が言う。
「確認しました」
操作は正確だった。
だが、佐藤は降下開始の操作をしなかった。
パイロットの判断で降下を始めてよいという許可だから、すぐ降りる必要はない。前方の気流や燃費、到着計画を考え、適切な時点で開始すればよい。
明日香は理由を尋ねた。
「降下開始は、どの地点を予定しますか」
佐藤は画面を見た。
「もう少し先でいい」
「前方の雲を越えてからですか」
「そうだな」
答えは成立している。
明日香も、前方に弱い雲域があることを確認した。雲の中で高度を変えるより、通過後のほうが乗客へ与える揺れを抑えられる可能性がある。
「了解しました」
機体は三万八千フィートを維持したまま進む。
数分後、雲域を通過した。
明日香は佐藤を見た。
佐藤は降下開始の操作をしない。
「機長、雲域を通過しました」
「分かっている」
「フライトレベル340への降下を開始しますか」
佐藤は正面の高度表示を見上げた。
「まだ三万八千だな」
明日香の背中に、冷たい感覚が走った。
設定した三万四千フィートは、佐藤自身が先ほど操作した。現在高度が三万八千であることも、見れば分かる。
しかし彼の返答は、質問への答えになっていなかった。
「はい。管制から、任意の時点でフライトレベル340へ降下する許可を受けています。開始しますか」
明日香は一語ずつ、明瞭に言った。
佐藤は数秒考えた。
「ああ。開始しよう」
高度選択ノブを操作し、降下モードを選ぶ。
機体の機首がわずかに下がった。
「ディセント、確認」
明日香は飛行モード表示と降下率を確かめた。
操作自体は正常だった。
「機長、今の管制指示を復唱していただけますか」
明日香は意図的に尋ねた。
「何だって?」
「直前に受けた高度の指示です」
「三万四千……だったな」
「パイロット・ディスクレションで、フライトレベル340です」
「そうだ」
答えられた。
だが、いつもの佐藤なら確認するまでもない内容だった。
明日香の中で、疑いは警戒へ変わった。
疲労だけではないかもしれない。
彼女は佐藤の顔を観察した。
肌の色が、先ほどより白く見える。日差しの角度や画面の光のせいではない。額の生え際に、細かな汗が浮いていた。
「機長、こちらを向いてください」
「どうした」
佐藤は顔を向けた。
左右の表情に明らかな差はない。口元も下がっていない。片方の腕が動かない様子もない。
それでも、目の焦点が合うまでに一瞬かかった。
「もう一度確認します。胸の痛みはありませんか」
「ない」
「頭痛は」
「ない」
「気分が悪くありませんか」
佐藤は答える前に唾を飲み込んだ。
「少し、胃が重いだけだ」
出発前と同じ言葉だった。
「乗務を続けられますか」
明日香は初めて、直接その問いを口にした。
佐藤の眉がわずかに動いた。
「もちろんだ」
「客室乗務員を呼びます。念のため状態を見てもらいます」
「必要ない」
「機長」
「私は操縦できている」
確かに、機体は正常に降下している。
だが、それは自動操縦が設定された指示を実行しているからだ。佐藤が今、どこまで状況を理解し続けているかは別の問題だった。
明日香は、佐藤の自尊心や便の遅れを考えるのをやめた。
「体調を確認します。森川さんを呼びます」
「大げさだ」
「安全のためです」
言い切った瞬間、明日香の胸は強く打った。
機長の判断へ、明確に異議を唱えた。
佐藤は明日香を見つめた。怒るかもしれない。自分の状態を否定されたと感じるかもしれない。
しかし、佐藤はしばらく黙ったあと、短く息を吐いた。
「分かった。次の交信が終わってからにしよう」
「今、呼びます」
明日香は譲らなかった。
インターホンへ手を伸ばした、その時だった。
無線から管制官の声が入る。
「スカイエア914、コンタクト・トウキョウ・コントロール、132.1」
担当管制機関を変更する、日常的な指示だった。
明日香が応答しようとした瞬間、佐藤が先に送信ボタンを押した。
「東京コントロール、スカイエア914……132.1」
言葉の順序が違う。
通常なら、指定された周波数を復唱し、便名を続ける。意味は通じる。管制官も訂正を求めない程度の違いだった。
だが、佐藤の声は低く、語尾が曖昧だった。
明日香は新しい周波数を設定し、表示を指差した。
「132.1、セットしました。確認してください」
佐藤は周波数表示を見た。
「確認した」
「新しい管制機関へ、現在高度と許可高度を通報してください」
明日香は、あえて具体的な行動を求めた。
佐藤はマイクのボタンへ指を置いた。
「東京コントロール、スカイエア914、フライトレベル……」
そこで言葉が止まった。
現在高度は、三万六千フィートを通過して降下中。許可高度は三万四千フィート。正面に大きく表示されている。
佐藤は数値を見ている。
それでも、言葉が出なかった。
送信状態のまま、数秒の沈黙が無線へ流れる。
明日香は自分の送信ボタンを押し、交信を引き取った。
「東京コントロール、スカイエア914、フライトレベル360を通過、340へ降下中です」
管制官が応答し、レーダーで捕捉したことを告げる。
明日香は送信を終えた。
「機長」
佐藤は前を向いていた。
「今の交信で、言葉が出ませんでしたね」
「周波数が……」
「周波数は正しく設定されています」
「分かっている」
声に力がなかった。
明日香はインターホンを押した。
「森川さん、操縦室へ来てください」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
「承知しました。すぐ伺います」
森川の返答が届く。
佐藤は明日香のほうを見なかった。
「機長、操縦を私に交代してください」
明日香は明確に告げた。
「私が操縦を担当します。機長は監視をお願いします」
佐藤の右手が、スラストレバーの近くでわずかに動いた。
「いや、私が……」
「機長、私を見てください」
返事がない。
「佐藤機長、私を見てください」
二度目は、声量を上げた。
佐藤はゆっくり顔を向けた。
目の焦点が定まっていない。
顔色は明らかに青白くなり、額からこめかみに汗が流れていた。唇がわずかに開いているが、呼吸は浅い。
明日香の胸の奥で、恐怖が形を持った。
これは疲労ではない。
佐藤は正常に職務を続けられる状態ではない。
「機長、お加減が悪いですか」
佐藤は答えようとした。
口が動き、喉から音が出る。
しかし、それは言葉にならなかった。
「う……あ……」
意味を持たない、低いうめき声。
明日香の体から血の気が引いた。
個人的な感情が、一気に押し寄せる。
佐藤さん。
出発前に止めるべきだったのではないか。胃が重いと言った時、医務室へ行かせるべきだった。長い瞬きも、手の汗も、反応の遅れも、もっと早く結びつけるべきだった。
自分は見ていたのに、判断を遅らせた。
後悔が思考を埋めようとした。
だが、機体は三万四千フィートへ向けて降下中だ。周囲には他の航空機がいる。三百七十九人の乗客が、扉の向こうにいる。
今、過去を振り返る時間はない。
明日香は訓練で学んだ確認を行った。
単に返事を求めるのではなく、状況を理解していなければ答えられない、具体的な指示を出す。
「機長。現在の許可高度を確認してください」
佐藤の目が正面の表示へ動いた。
しかし、答えない。
「機長、フライトレベル340を確認してください」
より直接的に、二度目の呼びかけを行う。
応答はなかった。
佐藤の右腕から力が抜け、手が肘掛けの外へ落ちた。
体が左側へ傾く。
ショルダーハーネスが上半身を支えたが、頭は窓側へゆっくり倒れていった。
「機長!」
明日香は叫んだ。
佐藤の目は閉じている。
呼びかけに反応しない。
操縦室の扉の向こうで、解錠を求める合図が鳴った。森川が到着したのだ。
同時に、自動操縦装置が設定高度へ近づいたことを示す音がする。
明日香は視線を正面へ戻した。
機体は正常に飛んでいる。
姿勢は安定し、高度も速度も管理されている。
だが左席には、もう操縦を続けられる機長はいない。
佐藤が倒れるまで、操縦室には二人のパイロットがいた。
その瞬間から、三百八十九人の命を空の上で導ける者は、明日香一人になった。




