第3章:青への上昇
プッシュバック車両がゆっくり力を加えると、三百八十九人を乗せたA350は、駐機位置から音もなく後方へ動き始めた。
操縦室の正面窓に見えていた搭乗橋が、少しずつ右へ流れていく。先ほどまで機体の周囲に集まっていた地上係員たちは、安全な位置まで離れていた。誘導員の合図、車両の位置、左右の翼端。明日香は視線を動かし、異常がないことを確認する。
機内ではすでに、乗客全員が座席に着き、シートベルトを締めている。客室乗務員も担当位置へ座っていた。地上では多くの人が機体を送り出すために動いていたが、操縦室の扉が閉じた今、その姿は窓の外にしか見えない。
「エンジンスタート、シークエンス。ナンバー2、ナンバー1」
佐藤の声が静かな操縦室に響いた。
「ナンバー2、スタート」
明日香は手順に従ってエンジン始動を選択し、表示を注視した。
機体上部の赤い衝突防止灯はすでに点滅している。周囲にいる作業員へ、エンジン始動の準備に入ったことを知らせる光だ。右側のロールスロイス製トレントXWBエンジンへ圧縮空気が送られ、内部の回転数が上がっていく。
数値が動き始める。
明日香は、回転数、燃料流量、排気温度、油圧を順に確認した。始動中に異常な温度上昇や回転の停滞があれば、直ちに中止しなければならない。
「燃料、オン」
燃焼が始まり、低い振動が床から伝わってきた。外から聞けば巨大な音を発しているはずだが、防音された操縦室では、遠くの雷鳴に似た低い響きに変わる。
数値は正常に上昇した。
「ナンバー2、スタビライズ」
「確認」
続いて左側のエンジンが始動する。
同じ手順。同じ確認。だが、同じだからといって注意を弱めてよいわけではない。明日香は一基目の記憶に頼らず、表示を最初から追った。
「ナンバー1、スタビライズ」
二基のエンジンが安定すると、操縦室を包む音に厚みが増した。機体はまだ車両に押されているだけだが、自ら動く力を得たことが分かる。
佐藤がパネルを確認する。
「エンジン、正常」
「正常です」
地上係員から連絡が入った。
「コックピット、グランドです。プッシュバック完了。パーキングブレーキ、セットしてください」
佐藤がブレーキをかける。
「パーキングブレーキ、セット」
「セット確認しました。車両を切り離します」
機首の下で、プッシュバック車両と機体をつないでいた装置が外される。明日香から直接その作業は見えない。だから表示と通信を通じて、見えない場所の状況を確かめる。
数十秒後、誘導員が機首前方の安全な位置へ現れた。取り外した器具を示し、進路から離れる。最後に両腕を上げ、出発可能を知らせる合図を送った。
佐藤と明日香は手を上げて応じた。
地上で機体を送り出す者と、空へ運ぶ者の間で交わされる短い別れだった。
「アフター・スタート・チェックリスト」
明日香が項目を読み、佐藤が確認する。発電系統、空調、飛行操縦系統、フラップ、トリム。離陸に必要な状態へ機体を整えていく。
「フライトコントロール、チェック」
佐藤は周囲を確認してから、サイドスティックとラダーペダルを動かした。明日香は表示画面で、補助翼、昇降舵、方向舵が入力どおりに動くことを監視する。
「フル・アップ。フル・ダウン。ニュートラル」
「確認」
「フル・レフト。フル・ライト。ニュートラル」
「確認しました」
機械は操縦入力を電気信号として受け取り、各操縦翼面を動かす。先ほど佐藤が話した、機械と人間の関係が画面の中で確かめられていた。
佐藤は一つの操作を終えるごとに、明日香の確認を待った。機長だから自分の判断だけで先へ進むのではない。二人の認識が一致して初めて、次の項目へ移る。
「フライトコントロール、チェック完了」
「チェックリスト、コンプリート」
明日香は無意識に息を吐いた。
出発準備中に起こした暫定重量の入力ミスは、まだ頭の片隅に残っていた。結果に違和感を持って修正した。それで終わりだと佐藤は言った。それでも、次の操作を誤らないようにという意識が強くなり、肩へ余計な力が入る。
目の前の項目だけを見る。
過ぎた誤りを操縦室へ持ち込まない。
明日香は自分へ言い聞かせた。
佐藤が地上管制へ交信した。
「那覇グランド、スカイエア914、タキシー準備完了」
管制官から、使用する誘導路と滑走路36Rまでの経路が伝えられる。
明日香は指示を聞き取り、空港図の上で経路を追った。複数の誘導路名。途中で横断する箇所。停止位置。聞き間違いがあれば、地上で他機の進路へ入る危険がある。
佐藤が復唱する。
管制官から訂正はない。
「タクシー開始」
佐藤がパーキングブレーキを解除し、スラストをわずかに加えた。
巨大な機体が、自らの力で動き出す。
最初の一歩に似た、ごく小さな前進だった。速度がつくと佐藤はスラストを戻し、慣性を使ってゆっくり進む。前輪は誘導路の黄色い中心線を正確に追った。
明日香は速度と周囲を監視した。地上走行中は、飛行中とは異なる危険がある。翼端は操縦室から遠く、曲がる時には内側の主脚と外側の翼端が別の軌跡を描く。車両、標識、他の航空機。すべてに注意を配らなければならない。
右側の窓の向こうを、小型機が牽引されていく。
左前方には、離陸を待つ別の旅客機がいた。その後方で、エンジン排気に揺らされた景色が陽炎のように歪んでいる。
「右側、クリア」
明日香が告げる。
「確認」
佐藤は速度を抑え、曲線に沿って機体を進めた。
客室では、窓際の乗客が動き出した景色を見ていた。
右側の座席に座る小学生の少年は、窓へ額が触れそうなほど顔を寄せていた。母親に何度も座り直すよう言われながら、誘導路を行き交う飛行機から目を離さない。昨夜、沖縄旅行の最後の日だと分かって泣いたが、空港へ来てからは飛行機を見ることに夢中だった。
通路を挟んだ席には、仕事の資料を膝へ置いた男性がいた。離陸前から携帯電話の画面を確認し、最後のメッセージを送ろうとしている。客室乗務員に電波を発しない状態へするよう案内され、ようやく端末をしまった。
後方には、娘夫婦と別れて東京へ帰る老夫婦が座っている。搭乗口へ遅れて到着した二人だった。妻は息を整えながら、間に合ってよかったと何度も夫へ言った。夫は窓の外を見て、娘が暮らす街の方角を探している。
三百七十九人の乗客にとって、地上走行は旅の一部だった。
操縦室にいる二人にとっては、離陸へ向けた最後の準備時間だった。
「キャビン・クルー、プリペア・フォー・テイクオフ」
客室へ合図が送られる。
森川たちは座席ベルト、手荷物、テーブル、背もたれを確認し、担当席へ戻っている。やがて、客室の準備が完了したことを知らせる表示が点いた。
「キャビン、レディ」
明日香が確認する。
「確認」
滑走路へ近づくにつれ、操縦室の会話は必要な内容だけになった。
佐藤の横顔から、ブリーフィング室で見せた疲労の影は消えている。視線は外と計器を一定のリズムで往復し、管制指示への反応も速い。明日香はその様子を確認し、胸に残っていた不安をさらに小さくした。
離陸前の忙しさが、余計な思考を追い出しているだけかもしれなかった。
「田中君、離陸後にエンジン故障が起きた場合」
滑走路手前で待機している間、佐藤が確認を始めた。
離陸前ブリーフィングで共有した内容を、重要な部分だけもう一度合わせる。
「V1前で停止可能と判断した場合は、離陸中止。V1後は原則として離陸を継続します。正の上昇を確認後、脚を上げ、指定された経路または管制指示に従います」
「操縦は私。君は異常の確認、管制への通報、チェックリスト」
「はい」
「私が応答しない場合は?」
明日香は一拍置いた。
「二度、明確に呼びかけます。応答がなければ職務遂行能力の喪失と判断し、操縦を引き継ぎます」
訓練で何度も答えた内容だった。
佐藤は何の感情も見せず頷いた。
「それでいい。離陸中は遠慮する時間がない」
「承知しました」
その確認は、すべての便で想定される非常事態の一つに過ぎない。明日香はそう理解していた。先ほどまで佐藤の体調を気にしていたから、その言葉だけが特別に重く聞こえるのだ。
「逆に君が応答しなくなれば、私が同じようにする」
佐藤は付け加えた。
「機長も副操縦士も、人間であることは同じだからな」
「はい」
滑走路へ進入する一機が着陸した。逆噴射の低い音が遠くに響き、機体は速度を落として誘導路へ出ていく。
管制から呼び出しが入った。
「スカイエア914、ランウェイ36R、ラインアップ・アンド・ウェイト」
佐藤が復唱し、明日香は滑走路と進入方向を目視した。
「左、クリア」
「右、クリア」
A350は停止位置を越え、滑走路へ入った。
黄色い誘導路の線から、白い滑走路中心線へ。佐藤はゆっくり旋回し、機首を北へ向ける。正面に、長く伸びる舗装面と白い中心線が現れた。その先には青空がある。
機体が中心線上で停止した。
離陸許可を待つ数秒が、明日香にはいつも長く感じられる。
すべての準備を終え、あとは空へ出るだけの状態。離陸滑走を始めれば、途中で簡単に止まることはできない。速度が上がるにつれ、選択肢は減っていく。
明日香は計器を見た。
エンジン表示、正常。飛行操縦系統、正常。設定された離陸速度、確認。客室、準備完了。
佐藤の両手は落ち着いていた。左手はサイドスティックの近く、右手はスラストレバーに置かれている。
管制官の声が届いた。
「スカイエア914、ウインド350アット10、ランウェイ36R、クリアード・フォー・テイクオフ」
明日香は即座に復唱した。
「クリアード・フォー・テイクオフ、ランウェイ36R、スカイエア914」
佐藤が明日香を見る。
「テイクオフ」
「チェック」
スラストレバーが前へ動く。
二基のエンジンの音が強まり、背中が座席へ押しつけられた。機体は最初ゆっくりと、次の瞬間には明確な加速を伴って走り始める。
滑走路の中心線が、正面窓の下へ次々に吸い込まれていく。
明日香はエンジン出力を確認した。
「スラスト、セット」
佐藤は足元のペダルで方向を保ち、中心線を追う。
速度が増す。窓の外の標識が線になって流れ、機体の振動が細かくなる。
「80ノット」
明日香がコールする。
「チェック」
二人の速度計表示が一致している。佐藤の声は明瞭だった。
ここまでは、異常があれば離陸を中止できる可能性が残されている。だが速度が上がるほど、停止に必要な距離は長くなる。
明日香の視界は、計器と佐藤の操作へ絞られた。
数値がV1へ近づく。
この速度を過ぎれば、重大な異常が起きても、原則として空へ上がる。残された滑走路で止まろうとするより、離陸して対処するほうが安全だからだ。
「V1」
明日香が告げた。
佐藤の右手がスラストレバーから離れ、サイドスティックへ備える。
戻らない地点を越えた。
「ローテート」
佐藤がサイドスティックを穏やかに手前へ引く。
機首が上がった。
滑走路の先端が窓の下へ消え、空が正面いっぱいに広がる。主脚が地面を離れた瞬間、振動が急に小さくなった。巨大な機体が、三百八十九人を抱えたまま空へ浮かぶ。
「ポジティブ・クライム」
昇降計と高度の増加を確認し、明日香が告げる。
「ギア・アップ」
佐藤の指示で、明日香は脚上げレバーを操作した。
機体下部で大きな脚が格納される。空気抵抗が減り、上昇が滑らかになった。
客室では、少年が窓の外へ目を輝かせていた。
滑走路と空港の建物が急速に小さくなる。那覇の街並みが広がり、その向こうにエメラルド色の海が現れた。少年は声を上げかけ、隣の母親に静かにするよう口元へ指を当てられた。それでも笑顔は抑えられなかった。
老夫婦は、窓の外に見える島へ静かに目を向けていた。妻が夫の手へ自分の手を重ねる。二人の娘が暮らす街は、建物の集まりの中へすぐ見分けられなくなった。
操縦室では、風景へ見入る余裕はなかった。
離陸直後は、飛行の中でも作業が集中する時間だ。姿勢、速度、上昇率、経路。管制からの指示。フラップの格納。周囲の航空機。
「スカイエア914、コンタクト・ディパーチャー」
明日香が周波数変更を復唱し、新しい管制機関へ連絡する。
「那覇ディパーチャー、スカイエア914、ランウェイ36Rより離陸、上昇中」
管制官から、さらに高い高度への上昇許可が出た。
佐藤が自動操縦装置を作動させる。
「オートパイロット、オン」
「確認しました」
機体は設定された経路と速度を保ちながら上昇を続けた。
自動操縦が入っても、仕事が終わるわけではない。むしろ操縦を機械へ任せたからこそ、機械が何をしようとしているかを監視しなければならない。
明日香は飛行モード表示を指差して確認した。
「上昇モード、ナビゲーション」
「チェック」
設定どおりに経路を追っている。高度指示も正しい。
佐藤は右手をスラストレバーの近くから離し、シートへ深く座り直した。
「いい離陸だった」
「はい」
明日香は返事をしながら、佐藤の呼吸を確認した。
離陸滑走の間も、離陸後の操作にも異常はなかった。声は安定し、判断も遅れていない。
胸の内に残っていた不安が、ようやく現実から離れたものに思えてくる。
「機長、体調は」
それでも明日香は尋ねた。
佐藤は計器から目を離さず答えた。
「問題ない。離陸したら、胃のことも忘れたよ」
「無理はしないでください」
「分かっている」
返答に苛立ちはなかった。
高度が上がるにつれ、沖縄本島の輪郭が一望できるようになった。濃い青の海と、浅瀬の明るい緑。白い雲が、海面へ小さな影を落としている。
佐藤が右側の窓へ視線を向けた。
「この景色は、何度見てもいいな」
「先ほど、何千回飛んでも富士山を探すとおっしゃっていましたね」
「沖縄では海を見る。北海道では山を見る。結局、毎回見ている」
「達観には、まだ遠そうですね」
明日香が那覇で交わしたのと同じ言葉を返すと、佐藤は笑った。
「田中君も言うようになったな」
短い笑いが操縦室の緊張をほどいた。
それでも明日香の視線は計器から長く離れない。操縦担当は佐藤だが、監視する自分が風景に気を取られるわけにはいかなかった。
高度一万フィートを通過する。
機体は、地上付近の慌ただしい空域から、より高い空へ移っていく。速度を上げ、離陸に使ったフラップを段階的に格納する。
「フラップ、アップ」
「フラップ、アップ。表示確認」
主翼は巡航に適した滑らかな形へ戻った。
佐藤がシートベルト着用サインを確認する。雲を抜けるまで、乗客には着席を続けてもらう。
「雲の上へ出るまで、サインはこのままにしよう」
「はい。客室へも伝えます」
明日香は森川へ連絡した。
「現在、上昇中です。雲を通過するため、もうしばらく着席を継続してください。サインが消えるまで、客室乗務員も安全を優先してください」
「承知しました。客室に異常ありません」
森川の声は落ち着いていた。
「お客さま一名が化粧室の使用を希望されていますが、着席をお願いしています」
「ありがとうございます。状況が安定したら、すぐお知らせします」
通信を終える。
高度が上がれば、気圧は下がり、外気温も急速に低くなる。機外は人間が生存できない環境へ変わっていくが、客室は与圧と空調によって地上に近い状態へ保たれる。乗客の多くは、飲み物のサービスがいつ始まるかを考えながら、静かな座席に座っているだろう。
その日常を支えているのは、目に見えない複数の系統だった。
明日香は機体システムの表示を切り替え、与圧、電気、油圧、燃料の状態を確認した。
すべて正常。
「システム、正常です」
「確認」
佐藤は上昇経路の先にある雲を見た。
正面の気象レーダーには、弱い降水域が色で示されている。危険な発達ではないが、中心を通れば揺れる可能性がある。
「少し右へ避けよう」
「管制へ要求します」
明日香は無線で、天候回避のための経路変更を求めた。管制官は周囲の交通を確認し、右側への偏向を許可する。
佐藤が自動操縦へ新しい指示を入力した。
機体は穏やかに右へ傾き、雲の中心から離れていく。
「乗客には、曲がったこともほとんど分からないでしょうね」
明日香が言った。
「それでいい。うまく避けたことを知ってもらう必要はない」
佐藤は答えた。
「安全運航は、何も起こらなかったように見える仕事だ」
出発前に明日香が考えていたことと、ほとんど同じだった。
彼女は少し驚き、佐藤を見た。
「何だ?」
「いえ。私も同じように考えていました」
「だから君は、この仕事に向いている」
佐藤は前を向いたまま言った。
胸の奥が温かくなる。
同時に、昇格審査という言葉が再び重さを持った。
自分は機長になれるのか。隣に佐藤がいない状態で、同じ判断ができるのか。誰かの確認を待たず、最終的な責任を引き受けられるのか。
明日香はその疑問を口にしなかった。
今は今日の飛行だけを考える。
機体は雲の上へ出た。
窓の外が急に明るくなる。下には白い雲の海が広がり、その上に濃い青空があった。地上から見上げる空より深く、吸い込まれそうな青だった。
揺れが収まったことを確認し、佐藤はシートベルト着用サインを消した。
客室で電子音が鳴る。
乗客たちがベルトを外し、客室乗務員が立ち上がった。飲み物の準備が始まり、化粧室を待っていた乗客が席を離れる。
森川から連絡が入った。
「サイン消灯、確認しました。サービスを開始します」
「お願いします。経路上の天候は概ね良好ですが、状況が変われば早めに連絡します」
「承知しました」
明日香は水を一口飲んだ。
離陸前から続いていた集中が、わずかに緩む。しかし上昇はまだ終わっていない。管制から段階的に高度が与えられ、機体はさらに高く進む。
那覇の管制圏を離れ、担当する管制機関が変わった。
「スカイエア914、コンタクト・フクオカ・コントロール」
「フクオカ・コントロールへ、スカイエア914」
明日香は新しい周波数を設定し、交信する。
「フクオカ・コントロール、スカイエア914、上昇中」
周囲には、目で見えない多くの航空機が飛んでいる。管制官はそれぞれの高度と経路を把握し、安全な間隔を保っている。無線からは別の便名と指示が絶え間なく流れた。
明日香は自分たちへの呼び出しを聞き逃さないよう注意を向ける。
自動操縦が正確に飛び、エンジンが安定していても、操縦室の人間が注意を失えば安全は崩れる。
巡航高度の三万八千フィートが近づく。
上昇率が緩やかになり、エンジン音の調子が変わった。機体は指定高度へ滑らかに合わせようとしている。
「千フィート・トゥ・レベルオフ」
明日香がコールする。
「チェック」
佐藤は高度計を確認した。
三万八千フィート。
機体は上昇を終え、水平飛行へ移った。
「クルーズ」
「確認しました」
エンジン出力が巡航に適した状態へ下がり、機首姿勢も落ち着く。正面の表示では、設定された高度と経路が維持されている。
明日香は巡航移行後のチェックを行った。
燃料消費は計画の範囲内。左右差なし。機体システムに警報なし。気象レーダー上、進路前方に大きな発達域はない。
「クルーズ・チェック、コンプリート」
「ありがとう」
佐藤はシートへ深く座り、肩を一度回した。
明日香はその動きを見逃さなかった。
「肩が痛みますか」
「いや、凝っているだけだ。離陸で少し力が入ったかな」
「先ほど、緊張するのは私だけではないとおっしゃっていましたね」
「私は緊張しないとは言っていない。何千回飛んでも、離陸と着陸は特別だ」
佐藤は水を飲んだ。
「胃の具合は?」
「もう大丈夫だ。君は本当に医者より細かいな」
「乗務中ですから」
「分かっている。何かあれば、必ず言う」
佐藤は明日香へ顔を向け、今度は冗談ではなくはっきり答えた。
明日香は頷いた。
その言葉を信じる以外に、今できることはない。
操縦室の窓の外には、青だけが広がっていた。
上には濃い青空。下には白い雲と、ところどころに見える太平洋。地上の街も道路も、ここからは見えない。人の暮らしから切り離された、静かな世界だった。
客室では飲み物のカートが通路を進み、乗客たちがコーヒーやジュースを受け取っていた。少年は窓の外を見続け、母親から受け取ったジュースへほとんど口をつけていない。仕事の資料を持っていた男性はノートパソコンを開き、老夫婦は並んで目を閉じていた。
前方ギャレーでは、森川がサービスの進み具合と残り時間を確認していた。満席に近い便では、一つの作業が数分遅れるだけで、後方まで影響が広がる。飲み物を選ぶ乗客、眠っていて声を掛けるべきか迷う乗客、小さな子どもを抱いてテーブルを使えない乗客。それぞれへ同じ案内をするだけでは、円滑なサービスにならない。
新人の山下は、熱いコーヒーを希望した乗客へカップを渡す時、揺れに備えて片手を座席へ添えていた。昨日、森川から教えられた動作だ。通路の途中で機体がわずかに揺れると、山下はカートのブレーキを確認し、無理に進まず止まった。
「大丈夫ですよ」
近くの乗客が声を掛けた。
「ありがとうございます。念のため、揺れが収まるまで少々お待ちください」
山下は笑顔で答えたが、手のひらには汗をかいていた。
彼女にとって、この程度の揺れでも判断の連続だった。続けるか、止まるか。熱い飲み物を出してよいか。乗客へどのように説明するか。操縦室とは異なる場所で、同じ安全運航が支えられている。
森川は後方からその様子を見ていた。山下が自分でカートを止め、周囲へ声を掛けられたことを確認すると、何も言わず別の列の対応へ向かった。必要な時には助ける。しかし、自分で判断できる場面まで先回りして奪わない。それが、経験の浅い乗員を育てるために必要だと知っていた。
数分後、揺れは収まった。
山下はサービスを再開し、先ほど待ってもらった乗客へ改めて礼を言った。乗客は気にしていない様子でコーヒーを受け取り、窓の外へ目を戻した。
その小さな出来事が操縦室へ報告されることはない。報告する必要がないまま終わったからだ。
航空機の安全は、記録に残る大きな判断だけで成り立っているのではない。危険になる前に止めた動作、口に出した確認、見過ごさなかった違和感。誰にも気づかれない無数の選択が積み重なり、一便の平穏をつくる。
操縦室でも、明日香は同じように小さな変化を追っていた。
向かい風の強さ。燃料消費と計画との差。客室高度。外気温。前方を飛ぶ機体との間隔。どれも異常ではない。それでも、変化の方向を見ていなければ、異常になった瞬間を捉えられない。
佐藤は巡航速度を確認したあと、右手で首筋を軽く揉んだ。
「肩だけでなく、首も凝っていますか」
「ホテルの枕が合わなかったのかもしれない」
「頭痛はありませんか」
「ない。視界も普通だ」
明日香に聞かれる前に、佐藤は正面の表示を指で示した。
「数字も全部読めている」
「そこまでは疑っていません」
「どうだか」
佐藤は笑ったが、その後で一度だけ目を閉じた。
瞬きを少し長くした程度だった。開いた目には意識の濁りもなく、すぐ計器の走査へ戻る。
明日香は時刻を記憶した。
今後同じ動作が繰り返されるか。それとも単なる疲れか。一度の変化だけで結論を出さず、しかし忘れもしない。観察を続けることが、自分にできる最も現実的な対応だった。
誰もが、予定どおり羽田へ到着すると信じている。
それは当然の信頼だった。
操縦室の二人も、その信頼へ応えるためにここにいる。
佐藤が飛行計画の残り時間を確認した。
「向かい風が予報より少し弱い。今のままなら、羽田にはほぼ定刻だ」
「到着時の南風運用も継続しています」
「では、予定どおり16Lを想定しておこう」
明日香は到着経路の情報を呼び出した。
都心上空を通る進入。高度制限、速度制限、進路。到着までまだ時間はあるが、早めに準備しておけば、天候や管制指示が変わった時にも余裕を持てる。
「田中君」
「はい」
「さっきの離陸前、私が応答しない場合の話をしただろう」
明日香は手を止めた。
「はい」
「あれは体調が悪いから言ったわけじゃない。誤解させたならすまない」
「いえ。通常のブリーフィングだと理解しています」
「君が気にしているようだったからな」
佐藤は前を向いたまま、少し間を置いた。
「機長席に座ると、周囲が何も言わなくなることがある。経験があるから。責任者だから。本人が大丈夫と言うから。だが、機長も間違うし、倒れることもある」
「縁起でもないことを言わないでください」
明日香は思わず答えた。
佐藤が小さく笑った。
「そうだな。ただ、君が私の状態を何度も確認したことは正しい。相手が誰でも、気づいたことは言えばいい」
「分かりました」
「私も、自分の体調は自分だけで判断しないようにする」
その言葉に、明日香はようやく胸の奥に残っていた緊張がほどけるのを感じた。
「お願いします」
会話はそこで終わった。
無線から、別の航空機への高度変更指示が聞こえる。エンジンは一定の音を保ち、A350は見えない空の道を北東へ進んでいる。
明日香は計器を走査した。
姿勢、正常。
高度、三万八千フィート。
速度、計画範囲内。
経路、正常。
エンジン、正常。
すべてが整っていた。
機械は命じられたとおりに飛び、二人のパイロットはそれを監視している。
この時点で、運航に異常はなかった。
ただ一つ、明日香が知ることのできない変化が、佐藤の身体の内側で静かに進み始めていた。




