第三話 一 発熱
診療所の前には、正吉の長靴が置かれていた。
真由と悠介が中へ入ると、正吉は診察室の丸椅子に座っていた。
右手を机の上へ載せている。
手のひらには白いガーゼが当てられ、医師が包帯を巻いていた。
「痛くないんですか」
奈緒が正吉へ聞いた。
正吉は、自分の手を見ていなかった。
窓の外へ顔を向けている。
「畑へ行かんと」
「終わってからにしましょう」
「雨が降る」
「今は降っていませんよ」
奈緒が言うと、正吉は窓の外を見たまま黙った。
宮内は包帯の端を留めた。
「深い傷ではありません。しばらく濡らさないようにしてください」
「血が出ていませんでした」
真由が言った。
宮内が顔を上げる。
「昨夜、窓に手をついていたときです。皮膚が裂けていたのに、血が見えなかったんです」
「雨で流れたのかもしれません」
「顔も、昼とは違いました」
正吉が真由へ顔を向けた。
朝の光の中では、昨日までと変わらない老人に見えた。
目は真由へ合っている。頬にも薄く血の色があった。
「死んでいる人みたいでした」
真由が言うと、診察室が静かになった。
正吉は何も反応しなかった。
宮内は机の上の道具を片づけた。
「一夜熱のあと、夜になると身体が冷えたり、動きが鈍くなったりする人がいます」
「顔まで変わるんですか」
「正吉さんは痩せていますし、昨夜は雨にも濡れていたので」
宮内は正吉の肩へ手を置いた。
「今の様子なら、問題はありません」
真由は正吉の顔を見た。
昨夜、ライトの中に浮かんだ目とは違っていた。
「正吉さんは、昨夜のことを覚えていないんですか」
「夜?」
正吉が聞き返した。
「私たちの家の窓にいました」
正吉は少し考えたあと、包帯を巻かれた手を上げた。
「誰がやった」
「傷ですか」
「わしの手じゃ」
「正吉さんの手ですよ」
奈緒が言った。
「怪我をしたから、先生に診てもらったんです」
正吉は包帯を何度か裏返して見た。
それから真由へ目を戻した。
「水を飲んだか」
「私は飲んでいません」
正吉は悠介を見た。
悠介は診察室の壁に寄りかかっていた。
「俺は飲みました」
「そうか」
正吉は椅子から立ち上がった。
包帯を巻かれた手を下げ、玄関へ向かう。
「正吉さん、家まで一緒に行きます」
奈緒があとを追った。
二人が出ていくと、宮内は真由へ向き直った。
「怖い思いをさせてしまいましたね」
「正吉さんだけなんですか」
「夜に歩くのは、正吉さんが多いです」
「奈緒さんも、昨夜は変でした」
宮内は真由を見た。
「正吉さんを連れていくとき、歩き方がひどく遅かったんです」
「夜中に起きて、雨の中を歩いたんでしょう」
「それだけには見えませんでした」
真由が続けようとすると、悠介が横から口を挟んだ。
「暗かったし、顔までは見えてないだろ」
「でも、あんな歩き方は――」
「また何かあれば、すぐに呼んでください」
宮内が言った。
話はそこで終わった。
診療所を出ると、奈緒と正吉の姿はもうなかった。
雲の切れ間から日が差し、濡れた道を白く照らしている。
「怒ってる?」
悠介が聞いた。
「別に」
「真由が見たものを、嘘だとは言ってないよ」
「気にしすぎだとは思ってるんでしょ」
「正吉さんは、今は普通だっただろ」
悠介は首を回した。
「夜は暗かったし、雨も降ってた。そういうこともあるよ」
「奈緒さんまで?」
「連れ戻しに来ただけじゃないか」
真由は答えなかった。
悠介は何度か喉を鳴らした。
「水、持ってくればよかったな」
「家に戻る?」
「まだ大丈夫」
診療所の脇に、水道があった。
悠介は蛇口をひねり、両手で水を受けた。
顔を近づけ、そのまま飲む。
「そんなところで飲まなくても」
「喉が渇いたんだよ」
一度顔を上げたあと、もう一度水へ口を近づけた。
真由は少し離れて待った。
その日は、村の外れにある果樹畑を見せてもらう予定だった。
奈緒と合流し、三人で斜面を上った。
柿や栗の木が何列も並んでいたが、手入れされているのは半分ほどだった。草の中に落ちた実が、雨を吸って割れている。
「ここも借りられるんですか」
悠介が聞いた。
「持ち主の方は、誰かが使ってくれるならと言っています」
奈緒が答えた。
「全部は無理でも、道に近いところだけなら」
「木の手入れなんてしたことないよ」
真由が言う。
「教えてもらえます。枝を切る時期を間違えると、翌年に実が減りますけど」
「失敗したら困りますね」
「今も半分は採れていませんから」
奈緒は落ちた栗を拾い、草の外へ投げた。
悠介も腰をかがめた。
何個か拾ったところで、動きを止める。
「どうしたの」
「少し寒い」
真由は空を見た。
日は差している。
「汗が冷えたんじゃない?」
「そうかも」
悠介は腕を擦った。
奈緒が顔を上げる。
「家へ戻りますか」
「まだ大丈夫です」
悠介は歩き始めた。
だが、斜面を下りるころには、肩をすぼめていた。
「やっぱり寒い」
声が震えていた。
真由は悠介の額へ手を当てた。
熱い。
「熱がある」
「歩いたからだろ」
「そんな熱さじゃないよ」
家へ戻り、体温を測った。
三十八度六分だった。
三十分後には、三十九度を超えた。
悠介は布団の中で身体を丸め、歯を鳴らしていた。
真由は宮内へ電話をかけた。
まだ外は明るかった。
宮内は奈緒と一緒に来た。
悠介の熱を測り、胸と背中へ聴診器を当てる。
首や腹にも触れ、何度か名前を呼んだ。
「一夜熱ですか」
真由が聞いた。
「症状は似ています」
「どうして今になって」
「分かりません」
宮内は聴診器を外した。
「村では一年、出ていませんでした」
「井戸水じゃないんですか」
真由は台所を見た。
「悠介だけ、ずっと飲んでいます」
「水は何度も調べています」
「でも、ほかに違いはありません」
「昨日は水路にも入っていますし、畑の土にも触れています」
「私も触れました」
「今の段階では、何とも言えません」
宮内は鞄から薬を出した。
「熱を下げる薬です。飲めるようなら飲ませてください」
「病院へ連れていかなくていいんですか」
「呼吸と脈は保たれています。今すぐ山道を動かすより、ここで休ませたほうがいいでしょう」
「もっと悪くなったら?」
「すぐに電話してください。夜中でも構いません」
宮内は悠介の手首をもう一度取った。
「村の人たちは、皆、この熱を越えています」
「一晩寝れば治るんですか」
「朝には熱が下がった人が多いです」
奈緒が洗面器へ水を入れ、畳の脇へ置いた。
「身体を拭くと楽になると思います」
「持ってきた水を使います」
真由が言うと、奈緒は頷いた。
「飲めるものを飲ませてください」
外が暗くなり始めていた。
宮内は診療所へ戻り、奈緒も一度家へ帰ると言った。
「何かあれば、電話してください」
奈緒は玄関で振り返った。
「朝までには、熱が下がると思います」
二人が帰ると、悠介が布団の中から腕を伸ばした。
「水」
真由はボトルを開けた。
「少しずつ飲んで」
悠介の頭を持ち上げ、口元へ差し出す。
一口含んだ途端、悠介は顔を背けた。
水が頬を伝い、枕へ落ちる。
「まずい」
「いつも飲んでる水だよ」
「臭い」
「熱で味が変になってるんじゃない?」
「井戸のをくれ」
悠介の手がボトルを押した。
力は弱かった。
それでも、もう一度口元へ近づけると、唇を固く閉じた。
「分かったから、動かないで」
真由は台所へ向かった。
蛇口をひねる。
管の中を水が走り、少し遅れて透明な水が出た。
コップへ注ぐと、濡れた土の臭いが立った。




