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一夜熱  作者: 古江 門
第一部 真由

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9/14

第三話 一 発熱

 診療所の前には、正吉の長靴が置かれていた。


 真由と悠介が中へ入ると、正吉は診察室の丸椅子に座っていた。


 右手を机の上へ載せている。


 手のひらには白いガーゼが当てられ、医師が包帯を巻いていた。


「痛くないんですか」


 奈緒が正吉へ聞いた。


 正吉は、自分の手を見ていなかった。


 窓の外へ顔を向けている。


「畑へ行かんと」


「終わってからにしましょう」


「雨が降る」


「今は降っていませんよ」


 奈緒が言うと、正吉は窓の外を見たまま黙った。


 宮内は包帯の端を留めた。


「深い傷ではありません。しばらく濡らさないようにしてください」


「血が出ていませんでした」


 真由が言った。


 宮内が顔を上げる。


「昨夜、窓に手をついていたときです。皮膚が裂けていたのに、血が見えなかったんです」


「雨で流れたのかもしれません」


「顔も、昼とは違いました」


 正吉が真由へ顔を向けた。


 朝の光の中では、昨日までと変わらない老人に見えた。


 目は真由へ合っている。頬にも薄く血の色があった。


「死んでいる人みたいでした」


 真由が言うと、診察室が静かになった。


 正吉は何も反応しなかった。


 宮内は机の上の道具を片づけた。


「一夜熱のあと、夜になると身体が冷えたり、動きが鈍くなったりする人がいます」


「顔まで変わるんですか」


「正吉さんは痩せていますし、昨夜は雨にも濡れていたので」


 宮内は正吉の肩へ手を置いた。


「今の様子なら、問題はありません」


 真由は正吉の顔を見た。


 昨夜、ライトの中に浮かんだ目とは違っていた。


「正吉さんは、昨夜のことを覚えていないんですか」


「夜?」


 正吉が聞き返した。


「私たちの家の窓にいました」


 正吉は少し考えたあと、包帯を巻かれた手を上げた。


「誰がやった」


「傷ですか」


「わしの手じゃ」


「正吉さんの手ですよ」


 奈緒が言った。


「怪我をしたから、先生に診てもらったんです」


 正吉は包帯を何度か裏返して見た。


 それから真由へ目を戻した。


「水を飲んだか」


「私は飲んでいません」


 正吉は悠介を見た。


 悠介は診察室の壁に寄りかかっていた。


「俺は飲みました」


「そうか」


 正吉は椅子から立ち上がった。


 包帯を巻かれた手を下げ、玄関へ向かう。


「正吉さん、家まで一緒に行きます」


 奈緒があとを追った。


 二人が出ていくと、宮内は真由へ向き直った。


「怖い思いをさせてしまいましたね」


「正吉さんだけなんですか」


「夜に歩くのは、正吉さんが多いです」


「奈緒さんも、昨夜は変でした」


 宮内は真由を見た。


「正吉さんを連れていくとき、歩き方がひどく遅かったんです」


「夜中に起きて、雨の中を歩いたんでしょう」


「それだけには見えませんでした」


 真由が続けようとすると、悠介が横から口を挟んだ。


「暗かったし、顔までは見えてないだろ」


「でも、あんな歩き方は――」


「また何かあれば、すぐに呼んでください」


 宮内が言った。


 話はそこで終わった。


 診療所を出ると、奈緒と正吉の姿はもうなかった。


 雲の切れ間から日が差し、濡れた道を白く照らしている。


「怒ってる?」


 悠介が聞いた。


「別に」


「真由が見たものを、嘘だとは言ってないよ」


「気にしすぎだとは思ってるんでしょ」


「正吉さんは、今は普通だっただろ」


 悠介は首を回した。


「夜は暗かったし、雨も降ってた。そういうこともあるよ」


「奈緒さんまで?」


「連れ戻しに来ただけじゃないか」


 真由は答えなかった。


 悠介は何度か喉を鳴らした。


「水、持ってくればよかったな」


「家に戻る?」


「まだ大丈夫」


 診療所の脇に、水道があった。


 悠介は蛇口をひねり、両手で水を受けた。


 顔を近づけ、そのまま飲む。


「そんなところで飲まなくても」


「喉が渇いたんだよ」


 一度顔を上げたあと、もう一度水へ口を近づけた。


 真由は少し離れて待った。


 その日は、村の外れにある果樹畑を見せてもらう予定だった。


 奈緒と合流し、三人で斜面を上った。


 柿や栗の木が何列も並んでいたが、手入れされているのは半分ほどだった。草の中に落ちた実が、雨を吸って割れている。


「ここも借りられるんですか」


 悠介が聞いた。


「持ち主の方は、誰かが使ってくれるならと言っています」


 奈緒が答えた。


「全部は無理でも、道に近いところだけなら」


「木の手入れなんてしたことないよ」


 真由が言う。


「教えてもらえます。枝を切る時期を間違えると、翌年に実が減りますけど」


「失敗したら困りますね」


「今も半分は採れていませんから」


 奈緒は落ちた栗を拾い、草の外へ投げた。


 悠介も腰をかがめた。


 何個か拾ったところで、動きを止める。


「どうしたの」


「少し寒い」


 真由は空を見た。


 日は差している。


「汗が冷えたんじゃない?」


「そうかも」


 悠介は腕を擦った。


 奈緒が顔を上げる。


「家へ戻りますか」


「まだ大丈夫です」


 悠介は歩き始めた。


 だが、斜面を下りるころには、肩をすぼめていた。


「やっぱり寒い」


 声が震えていた。


 真由は悠介の額へ手を当てた。


 熱い。


「熱がある」


「歩いたからだろ」


「そんな熱さじゃないよ」


 家へ戻り、体温を測った。


 三十八度六分だった。


 三十分後には、三十九度を超えた。


 悠介は布団の中で身体を丸め、歯を鳴らしていた。


 真由は宮内へ電話をかけた。


 まだ外は明るかった。


 宮内は奈緒と一緒に来た。


 悠介の熱を測り、胸と背中へ聴診器を当てる。


 首や腹にも触れ、何度か名前を呼んだ。


「一夜熱ですか」


 真由が聞いた。


「症状は似ています」


「どうして今になって」


「分かりません」


 宮内は聴診器を外した。


「村では一年、出ていませんでした」


「井戸水じゃないんですか」


 真由は台所を見た。


「悠介だけ、ずっと飲んでいます」


「水は何度も調べています」


「でも、ほかに違いはありません」


「昨日は水路にも入っていますし、畑の土にも触れています」


「私も触れました」


「今の段階では、何とも言えません」


 宮内は鞄から薬を出した。


「熱を下げる薬です。飲めるようなら飲ませてください」


「病院へ連れていかなくていいんですか」


「呼吸と脈は保たれています。今すぐ山道を動かすより、ここで休ませたほうがいいでしょう」


「もっと悪くなったら?」


「すぐに電話してください。夜中でも構いません」


 宮内は悠介の手首をもう一度取った。


「村の人たちは、皆、この熱を越えています」


「一晩寝れば治るんですか」


「朝には熱が下がった人が多いです」


 奈緒が洗面器へ水を入れ、畳の脇へ置いた。


「身体を拭くと楽になると思います」


「持ってきた水を使います」


 真由が言うと、奈緒は頷いた。


「飲めるものを飲ませてください」


 外が暗くなり始めていた。


 宮内は診療所へ戻り、奈緒も一度家へ帰ると言った。


「何かあれば、電話してください」


 奈緒は玄関で振り返った。


「朝までには、熱が下がると思います」


 二人が帰ると、悠介が布団の中から腕を伸ばした。


「水」


 真由はボトルを開けた。


「少しずつ飲んで」


 悠介の頭を持ち上げ、口元へ差し出す。


 一口含んだ途端、悠介は顔を背けた。


 水が頬を伝い、枕へ落ちる。


「まずい」


「いつも飲んでる水だよ」


「臭い」


「熱で味が変になってるんじゃない?」


「井戸のをくれ」


 悠介の手がボトルを押した。


 力は弱かった。


 それでも、もう一度口元へ近づけると、唇を固く閉じた。


「分かったから、動かないで」


 真由は台所へ向かった。


 蛇口をひねる。


 管の中を水が走り、少し遅れて透明な水が出た。


 コップへ注ぐと、濡れた土の臭いが立った。


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