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一夜熱  作者: 古江 門
第一部 真由

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8/12

第二話 四 まだ温かい

 その夜、真由はほとんど眠れなかった。


 目を閉じるたび、携帯電話の光の中に浮かんだ正吉の顔が戻ってきた。


 朝になり、障子の隙間から光が入っても、すぐには布団を出られなかった。


 悠介が先に起き、台所へ向かった。


 蛇口をひねる音がする。


「そんなにひどい顔だったの?」


 悠介が居間から聞いた。


「見たって言ったでしょ」


「暗かったし、雨も降ってた」


「ライトを当てた」


「正吉さん、昨日も顔色はよくなかったよ」


「あれとは違う」


 悠介はコップを置いた。


「どんなふうに?」


 真由は答えられなかった。


 死んだ人の顔だった。


 そう言おうとすると、昨夜の正吉の目が浮かんだ。


 玄関が叩かれた。


 真由は身体を固くした。


 悠介が戸を開ける。


 奈緒だった。


 昨日と同じように髪を束ね、乾いた上着を着ている。朝の光の中では、顔色も普通に見えた。


「おはようございます」


 奈緒は二人を見た。


「昨夜、正吉さんがこちらへ来ませんでしたか」


「来ました」


 悠介が答えた。


「奈緒さんが連れて帰ったと思うんですけど」


「私が?」


 奈緒は少し眉を寄せた。


「覚えていないんですか」


 真由が聞いた。


「夜に正吉さんを捜しに出たことは覚えています。こちらまで来ていたんですね」


「窓の前に立っていました」


「すみませんでした」


 奈緒は頭を下げた。


「鍵は閉めていましたか」


「はい」


「何か壊したりは?」


「窓に手をついていただけです」


 真由は窓を見た。


 ガラスには、乾いた筋が残っている。


「手を怪我していました」


 真由が言った。


「手ですか?」


「手のひらが裂けていました。血は出ていませんでした」


 奈緒は正吉の家がある方角へ目を向けた。


「昨夜は気づきませんでした。あとで見てきます」


「顔も、ひどかったです」


 奈緒がこちらを見る。


「死んでいるみたいでした」


 言葉にすると、昨夜見たものがもう一度はっきりした。


 奈緒はしばらく黙っていた。


「正吉さんは、夜になると顔色が悪くなることがあります」


「顔色だけじゃありません」


「先生にも何度か診てもらっています」


 奈緒は落ち着いた声で答えた。


「一夜熱のあと、夜に身体が冷えたり、動きが鈍くなったりする人がいるんです」


 道から声がした。


「奈緒」


 三人が玄関の外を見る。


 正吉が歩いてきた。


 長靴を履き、昨日と同じ作業着を着ている。


 朝の光の中の顔は、昨日の昼と変わらなかった。頬は年齢なりに痩せていたが、皮膚には血の色があり、真由たちに気づくと何度か瞬きをした。


 真由は玄関の内側から動けなかった。


「正吉さん、手を見せてください」


 奈緒が外へ出る。


 正吉は家の前で止まった。


「手?」


「怪我をしているそうです」


 奈緒が右手を取る。


 手のひらには、昨夜見た傷が残っていた。


 乾いた血も、かさぶたもない。皮膚だけが白く裂けている。


「痛くないんですか」


 奈緒が聞いた。


 正吉は自分の手を眺めた。


「誰がやった」


「分かりません。先生に見てもらいましょう」


 奈緒は正吉の手を離した。


「昨日、ここへ来たのを覚えていますか」


 真由が聞いた。


「昨日?」


「夜です。あの窓の外にいました」


 正吉は窓を見た。


 しばらく眺めたあと、真由へ顔を戻す。


「お前は、まだ温かい」


 奈緒が正吉の肩へ手を置いた。


「先生のところへ行きますよ」


 正吉は促され、道へ向き直った。


 昨夜のように腕を支える必要はなかった。


 二人は朝の道を並んで歩いていった。


 真由は、その背中が見えなくなるまで玄関に立っていた。


「見間違いじゃない」


 真由が言った。


 悠介は窓に残った手の跡を見た。


「見間違いだとは言ってないよ」


「じゃあ、何だったの」


「分からない」


 悠介は台所へ戻った。


「先生にも聞いてみよう」


 金属の水筒を取り、蛇口をひねる。


 真由は箱から自分のボトルを出した。


「今日は、それを飲まないほうがいいんじゃない?」


「どうして」


「正吉さんが、飲むなって言ってた」


「気にしすぎだよ」


「でも、昨夜の顔を見たら――」


「畑も井戸も自分のものだと思ってる人だろ」


 悠介は水筒へ水を入れた。


「先生にも聞いてみよう。それまでは普通にしてればいいよ」


 蓋を閉めたあと、コップにも一杯注ぐ。


 一息で飲んだ。


「昨日より喉が渇くんだ」


 真由は悠介を見た。


 台所の隅には、持ってきた水の箱が置かれていた。


 昨日から、悠介の分は一本も減っていなかった。


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