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一夜熱  作者: 古江 門
第一部 真由

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7/12

第二話 三 窓の外

 夕方から、また雨が降り始めた。


 強くはない。


 屋根を細かく叩き、水路の音へ重なっている。


 真由と悠介は、昼に村人からもらった野菜を使って夕食を作った。


 悠介が包丁を持ち、真由が鍋を見る。


「思ったより普通に暮らせそうだな」


 悠介が大根を切りながら言った。


「車がないと、何もできないけどね」


「今も使ってるだろ」


「一台で足りるかな」


「それも計算しないとな」


 大根を鍋へ入れる。


 水は持参したボトルから注いだ。


「全部、それで作るの?」


「飲むものには、こっちを使う」


「もう半分くらい減ってない?」


「一週間分はあるよ」


 悠介は何も言わず、蛇口からコップへ水を注いだ。


 食事のあとも、二度台所へ立った。


「よく飲むね」


「昼に動いたからだよ」


 悠介は首を回した。


「身体も軽い気がする」


「水を飲んだから?」


「村に来て、久しぶりに外で動いたからじゃないか」


 悠介は笑った。


 夜が深くなると、雨脚が弱くなった。


 二人は昨日より早く布団へ入った。


 悠介はすぐに眠った。


 真由も目を閉じたが、家の音がするたびに意識が戻った。


 どのくらいたったころか、窓の外で何かが擦れた。


 真由は目を開けた。


 枝が壁へ触れたのだと思った。


 少しして、また音がした。


 今度は短く、二度続いた。


 真由は布団を出て、廊下へ向かった。


 居間は暗かった。


 窓の外から、雨に濡れた庭がわずかに見える。


 通り過ぎようとして、足を止めた。


 窓の向こうに誰かが立っていた。


 ガラスへ片手をつき、顔を伏せている。


 外灯の届かない場所だった。濡れた髪と肩の形だけが、暗がりの中に浮かんでいた。


 真由は声を出せなかった。


 人影も動かない。


 ガラスについた手が、ゆっくりと下へ滑った。


 指の間から水が流れ、黒い筋を引いている。


 真由は携帯電話を取り出した。


 ライトをつけ、窓へ近づく。


 一歩進んでも、人影は顔を上げなかった。


「誰ですか」


 返事はない。


 真由はもう一歩近づいた。


 光を窓の外へ向ける。


 最初に、ガラスへ押しつけられた手が見えた。


 手のひらの皮膚が裂けていた。白く開いた傷には血がなく、透明なものが溜まっている。


 光が上へ動いた。


 正吉だった。


 目は半ば開いていた。


 濁った瞳は真由を見ておらず、瞬きもしない。


 正吉の口が、ゆっくりと動いた。


 何かをつぶやいている。


 ガラス越しには聞こえなかった。


 額から頬へ雨水が流れていた。唇は色を失い、落ちくぼんだ頬に皮膚が張りついている。


 その顔は、生きている人間のものには見えなかった。


 真由は叫び声を上げた。


 携帯電話を握ったまま、寝室へ走った。


「悠介、起きて」


 悠介の肩をつかむ。


「どうした」


「窓にいる。正吉さんが」


「正吉さん?」


「顔が――」


 うまく言葉が続かなかった。


 悠介は布団を出た。


 二人で廊下へ戻る。


 真由は悠介の後ろを歩いた。


 居間の前まで来ると、悠介も足を止めた。


 正吉はまだ窓へ手をついていた。


 暗がりの中では、先ほど見た顔は分からない。


「正吉さん」


 悠介が呼んだ。


 正吉の頭が、わずかに動いた。


 そのとき、庭の奥で人影が動いた。


 正吉の後ろから、誰かが近づいてくる。


 一歩進み、止まる。


 また一歩進む。


 傘は差していなかった。


 長い髪と身体つきから、奈緒のように見えた。


「奈緒さん?」


 悠介が呼んだ。


 悠介の声は、雨音に紛れた。


 人影は正吉のそばまで来ると、その腕へ手を添えた。


 正吉の手がガラスから離れる。


 人影はその腕を自分の肩へ回し、身体を支えた。


 一度では動かなかった。


 正吉が足を出すまで、同じ姿勢のまま待った。


 やがて二人は、ゆっくり庭を離れていった。


 正吉が止まるたび、人影も立ち止まった。


 こちらまでは、声は聞こえなかった。


 雨の中を、二つの影だけが家々のほうへ遠ざかっていく。


 真由は携帯電話のライトをつけられなかった。


 二人が暗がりへ消えたあとも、悠介の背中から離れられなかった。


「今の、奈緒さんだよね」


 悠介が言った。


 真由は答えなかった。


 窓には、正吉が手をついていた跡が残っていた。


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