第三話 二 息
悠介は両手でコップをつかんだ。
身体を起こす力はなく、真由が背中を支えた。
一口では止まらなかった。
喉を何度も動かし、一杯を飲み干す。
「もう一杯」
「少し休んでから」
「喉が焼ける」
空のコップへ口をつけたまま、悠介が言った。
真由はもう一杯汲んだ。
それも、ほとんど休まず飲んだ。
口元からこぼれた水が首を伝い、下着と布団へ染み込む。
「ゆっくり飲んで」
悠介は聞いていなかった。
三杯目の途中で咳き込み、水を吐き出した。
真由はコップを取り上げた。
「もうやめよう」
「水」
「吐いたでしょ」
「まだ足りない」
悠介の手が、濡れた布団をつかんだ。
指で布を引き寄せ、口元へ近づけようとする。
「何してるの」
真由は手を押さえた。
「こんなの舐めたら駄目だよ」
指を一本ずつ布から外す。
悠介は目を閉じたまま、喉の奥で何度も音を立てていた。
真由は濡れた下着を脱がせ、乾いたものへ替えた。
身体から汗が流れている。
額、首、胸をタオルで拭く。
すぐに新しい汗が浮いた。
「寒い」
悠介が言った。
「こんなに熱があるのに?」
「寒い」
真由は布団を掛け直した。
手を握る。
掌は熱かったが、指先は冷たかった。
薬を飲ませても、熱は下がらなかった。
四十分ほどして測ると、三十九度七分まで上がっていた。
真由は宮内へ電話をかけた。
呼び出し音が続いた。
応答はない。
もう一度かける。
今度も出なかった。
奈緒にも電話をかけた。
こちらも呼び出し音だけが続いた。
「悠介、聞こえる?」
頬を軽く叩く。
悠介は目を閉じたままだった。
唇が動く。
「水」
「もう飲んだよ」
「水」
真由は迷ったあと、もう一度蛇口の水を汲んだ。
身体を起こし、少しずつ口へ含ませる。
悠介はコップへ吸いつくようにして飲んだ。
こぼれた水が真由の腕まで流れた。
服の袖で拭う。
悠介の口元から、透明な唾液が糸を引いていた。
タオルで拭き、枕を替える。
濡れた布団を持ち上げると、内側から甘い臭いがした。
湿った草を積み重ねたまま、腐らせたような臭いだった。
真由は窓を少し開けた。
冷たい空気が入ってくる。
悠介の身体がさらに震えた。
すぐに閉めた。
夜が深くなるにつれ、家の外から人の声が消えた。
聞こえるのは水路と雨の音だけだった。
ときどき、井戸の滑車が鳴った。
縄が擦れ、桶が水へ落ちる。
悠介の震えは、少しずつ弱くなった。
「薬が効いてきた?」
返事はない。
額へ触れる。
熱はまだ高かった。
それなのに、苦しそうに歪んでいた顔が緩んでいる。
固く握られていた手も開いていた。
「悠介」
肩を叩く。
瞼がわずかに動いた。
「聞こえる?」
「……うん」
声はほとんど息だけだった。
「少し楽になった?」
悠介の唇が動く。
「もう」
「何?」
「苦しくない」
真由は息を吐いた。
額のタオルを取り替える。
呼吸は、先ほどより遅くなっていた。
胸が上がる。
長く止まる。
忘れたころに、また小さく動く。
真由は胸から目を離せなかった。
一度動くたび、自分も息を吐いた。
携帯電話の画面には、午前四時を少し過ぎた時刻が表示されていた。
宮内へ電話をかける。
呼び出し音は鳴ったが、やはり出なかった。
「悠介」
胸が動かない。
真由は待った。
まだ動かなかった。
「悠介」
肩を揺する。
頭が力なく横へ傾く。
「起きて」
鼻と口へ頬を近づけた。
息は触れなかった。
胸へ手を当てる。
何も感じない。
首へ指を押し当てる。
どこを探しても、脈は分からなかった。
「嘘」
身体を強く揺する。
口が少し開いた。
透明な液体が唇から流れ、顎へ伝った。
「悠介、起きて」
真由は胸の中央へ両手を重ねた。
何度も押した。
身体が布団の上で揺れる。
反応はない。
息を吹き込む。
悠介の口から、甘い臭いがした。
顔を離し、もう一度胸を押す。
数を数えようとしたが、途中で分からなくなった。
「起きてよ」
何度呼んでも、悠介は動かなかった。
真由は携帯電話を取った。
宮内へかける。
応答はない。
画面の上には、電波が一本だけ立っていた。
緊急通報を押す。
呼び出し中の表示が出たあと、音が途切れた。
もう一度かける。
今度は接続できなかった。
窓際へ移動しても、表示は変わらない。
固定電話があるのは集会所だった。
診療所は、その手前にある。
真由は悠介へ布団を掛けた。
「先生を呼んでくるから」
答える者はいない。
「すぐ戻るから」
上着をつかみ、玄関を出た。
冷たい雨が顔へ当たった。
診療所にも、奈緒の家にも明かりはなかった。
井戸の周りにだけ、人影が集まっていた。




